改革を始めているのは、「柳井工業」(大分市)の2代目柳井寿栄(ひさよし)さん(34)。柳井工業は、全国の工場に年間10カ所ほどへ赴き、おもに二次下請けとして、定修でタービンなどの回転機器を専門にメンテナンスをしています。タービンは工場の動力源として欠かせない設備です。
矢野経済研究所によると、2018年度のプラント業界の市場規模は9千億円。高度経済成長期に建設された工場がどんどん老朽化する一方で、設備トラブルを起こさないためのメンテナンスの重要性が高まっており、市場はこれからもやるやかに拡大すると予測しています。
父の寿朗さんが会社を立ち上げたのは1981年。工場のメンテナンスの仕事は今よりも活気があったそうです。ですが、ベテランが退職する一方で、若手が育たなくなり、最近は人手不足に陥っていました。さらに、元請けの大手企業に下請け企業がいくつも階層的につらなる「多重請負」の影響も大きくなり、3次、4次下請け企業になると仕事に見合った報酬が得られにくくなっています。柳井さんは「私が入社した2009年当時は、全国を飛び回る仕事なのに、給与は高くなく、若手には単調な仕事しか任されませんでした」と振り返ります。
どうすれば、若手に来てもらえる職場になるだろう。柳井さんは職人たちを飲みに誘い、話を聞くことから始めました。当初は「全国に出張するのが不満なのではないか」と思っていたのですが、むしろ宿泊先が2~3人の相部屋で、ゆっくりくつろげないことが原因の一つだと分かってきました。柳井さんも入社後に職人として初めて働いたとき、共同の風呂、トイレで畳の部屋に3人が雑魚寝する相部屋に押し込まれました。相部屋の同僚たちと会話もなかなか続かず、気疲れしてしまったことを思い出しました。
さらに、職人たちに話を聞いていくと、発注企業の担当者や現場監督がどんどん交代するため、指示がうまく伝わらなかったり、若手職人が信用されず重要な仕事を任せてもらえなかったりといった不満があることもわかってきました。柳井さんも入社当時、誰からも仕事を教えてもらえず、ひたすら機械のボルトを磨き続ける日々が続いていました。
そこで、柳井さんは元請け企業などと交渉し、宿泊施設に一人部屋を確保してもらう方針を決めました。職人たちと積極的なコミュニケーションがとれる現場監督を下請け企業側から選べるようにし、定修ごとに監督を固定して同じチームとして働けるようにしました。すると、ほとんど会話のなかった休憩場所で、会話が弾むようになり、職人たちが仕事を取り組む姿勢も変わってきました。
若手に対して、これまで曖昧だった作業手順の説明をきちんと教えるようにもしました。さらに働きぶりで「真面目でコツコツがんばってくれそうだ」と感じた若手には、タービンの分解や組み立てなど高度な仕事も任せるようにしました。一方で、責任者には監督・品質管理・安全管理・資材担当などの管理業務を幅広く任せることで、ほかの企業より人件費を4割削減し、社員たちに還元しました。その結果、一人あたりの給与は年500万~600万円となり、同業者よりも高給になりました。協力会社の職人の日当も2千~3千円上げました。
「職人を大事に」考え方を変えたシンガポール
職人一人ひとりを大切しなければと考えるようになったのは、入社3年目のシンガポールの石油化学プラントの定修での挫折がきっかけでした。毎年呼ばれる仕事ですが、社内でもきつい仕事として有名でした。しかし、柳井さんは「それなりに知識もついてきたし、英語も片言なら話せるし、なんとかなるだろう」と軽い気持ちで手を挙げました。
しかし、いざ仕事を始めてみると、周りの職人はバングラディシュ、マレーシア、インド、フィリピン、中国人。英語は通じません。メンテナンスを依頼した企業にも日本人はいません。道具を持ってきてほしい時でも言葉が通じません。作業内容の概略は伝えることができても、細かい作業内容まで伝えることができないので、つきっきりになり、最終的には柳井さんが組み立てることに。しかし、求められる品質は日本と同じ。その結果、毎日夜遅くまで働き続け、残り一週間を切ると夜中の3時まで、そして最後は2日続けて徹夜するほどでした。「ほぼ一人でタービンを組み上げ、試運転で無事に回った時の涙は今でも思い出します」と話します。
そんな仕事のなかで、国内での仕事を振り返ると、日本の職人はレベルが高く、自分が気づいていない細かな作業をサポートしてくれていたので、仕事がうまく回っていたのだと気づきました。
この経験をきっかけに「職人を大事にしよう。一緒に働きたいと自然に集まって来てくれるような会社にしよう」と待遇について真剣に考えるようになり、改善はいまも続けられています。
父のがんを機に事業承継を決断
柳井さんがプラント業界に足を踏み入れたのは2009年です。きっかけは父・寿朗さんの胃がんでした。診断は、進行したステージ4。「助からないかもしれない」と聞かされ、寿朗さんから会社をどうすべきか相談を受けました。当時、柳井さんは野村證券に入社して2年目。子どものころから父が社長だと知っていましたが、家庭では仕事のことを一切話さなかったので、何をしているのか詳しくは知りませんでした。このとき初めて柳井工業のことを調べました。
詳しく調べると、リーマンショック後で建設業の中小企業の倒産が相次ぐなかでも、柳井工業は黒字。利益率も良く、不景気に強い会社でした。「プラントがなくならない限り、仕事はなくならない」と感じました。
「どんな仕事をしているんだろう」と興味がわき、寿朗さんに話を聞くと、人材不足という課題がある一方、職人の技術のレベルが高く、ニッチな分野で勝ち残っていけると確信しました。
ただし、野村證券でも営業の仕事が面白くなってきたころでした。このまま営業を続けたいけれど、父が作り上げた会社を潰すのももったいないと悩みました。そんなとき野村證券のある支店長に掛けられた言葉が背中を押しました。
「人生で悩んだときは、辛い道を選べ」
楽な道を選んだら大成はしない。このまま野村證券という大きな会社で生きていくよりも、親の会社を引き継ぎ、自分の力で経営する方が険しい道のりになるだろうと考えました。
上手な事業承継は、尊重しつつ役割分担
父・寿朗さんから会社を任せられると信頼を得られ、2017年に会社の株を譲渡されました。「スムーズに事業承継できたのは、父から受け継ぐものを大切にしながら、自分のカラーを出していこうとしたのが良かったように思います」と話します。
当初は父が長年の関係で受注してきた仕事に行くたびに、柳井さんは「社長の息子だから」「ぬるま湯だから」と否定的な言葉を投げかけられました。そんな言葉には「私を一人の人間としてではなく、社長の息子という目でしか見てくれない」と憤りを感じました。
実際、見積もりはなあなあで、「今まで仕事出してやったんだから」といいなりになることを求めてくる仕事先もありました。「条件や待遇が悪くなれば、せっかく自分のために仕事に来てくれる協力会社の方に申し訳ない」。そこで、自ら仕事を取ってこようと考えました。
それでも、「ここまで会社が続けてこられたのは、父が培ってきた仕事関係と取引先が居てくれたから」とも感じています。そこで、寿朗さんが取ってきた仕事は寿朗さんが担当し、柳井さんの取ってきた仕事は柳井さん自身が担当し、協力会社や従業員に仕事を割り振るようにしました。この方法で3年間続けると、言い合いをすることも少なく、売り上げも2倍近くになりました。
柳井さんは待遇のいい現場を優先して選び、一人部屋の確保、単価アップにつなげることができ、協力会社も増えていきました。寿朗さんはがんの手術で胃を全摘したものの、いまも元気に柳井さんと肩を並べて仕事を続けています。
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