父の貸しビル業を再建した47歳、漁業から居酒屋まで営む理由とは?
東京都内で居酒屋6店舗や宅配事業などを手がけているゲイトは、三重県の熊野灘で定置網漁や水産加工も行い、海の幸を店に直送しているのが売りです。社長の五月女圭一さん(47)は、父親のビル管理業を立て直した後、過労で倒れるなどの紆余曲折を得て、食の世界に進み、6次産業化で未来を切り開こうとしています。(聞き手はツギノジダイ編集長・杉本崇、構成・広部憲太郎)
東京都内で居酒屋6店舗や宅配事業などを手がけているゲイトは、三重県の熊野灘で定置網漁や水産加工も行い、海の幸を店に直送しているのが売りです。社長の五月女圭一さん(47)は、父親のビル管理業を立て直した後、過労で倒れるなどの紆余曲折を得て、食の世界に進み、6次産業化で未来を切り開こうとしています。(聞き手はツギノジダイ編集長・杉本崇、構成・広部憲太郎)
本社は東京都墨田区。1999年、貸しビルの資産管理会社として創業し、現在は都内で「かざくら」「くろきん」などの居酒屋や、ボディケアサロンなどを運営する。2016年から三重県を拠点に水産業に参入し、定置網漁や水産加工場を手がけている。
――子どもの頃は、父親とどんな関係だったのでしょうか。
父は1972年ごろから東京都墨田区で、五月女商店というプラスチックの再生加工業をしていました。下町のおやじなので怖かったけど、ずっと一生懸命働いているのは知っていました。
ただ、僕が中学2年生の頃、近所に100円ショップができ、プラスチックのバケツが100円で売っていました。それは、父が扱っていたプラスチック原料の樹脂よりも安かったのです。父は「勝負にならない」と工場を閉め、信用金庫にお金を借りて、同じ場所に賃貸ビルを建てました。
学生の頃から学習塾など色々な商売をしていましたが、父の経営にはノータッチでした。しかし、24歳の時に久しぶりに家に帰ると、父も母も青い顔をしていました。ビル経営がうまくいかず、年間売り上げが1千万円しかないのに、金融機関への支払利息だけで1千万円ありました。
秋葉原に行ってパソコンを買い、ソフトでシミュレーションして、「5年後に事業が消滅する」と説明しました。私が実質的に仕事を継いで、1999年に作った資産管理会社がゲイトです。不動産賃貸業でお客さんを獲得したり、銀行と金利の交渉をしたりして、お金が回るようになりました。
ーーそこからどのような道を歩みましたか。
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自分が行っていた事業で、食うために困らないほどには稼いでいました。でも、足元にあった父親の商売がうまくいっていないことに気づきませんでした。
何となく商売をしているのは良くないと思い、立派な志の人と仕事をしようと、ゲイトの代表を務めながら、サラリーマンになりました。
フランチャイズビジネスのコンサルティングを手がける会社で、若造ながらたくさんの経営者の考えにふれました。その経験は糧になりましたが、2年くらいして過労で倒れてしまって。部下6人を抱えて110社ほど担当し、週2~3回は徹夜して、食事も無頓着。医者から栄養失調と診断されたほどで、1年半寝たきりの生活を送りました。
――体を壊してから、働き方に対する考えが変わったのですか。
はい。体を壊したこともあり、生きているだけで幸せと思えて、何か世の中の役に立つ仕事をしたい気持ちになりました。自分の体のメンテナンスをしてくれる人を近くに置こうと、リハビリも兼ねて始めた事業が接骨院です。そして、2010年ごろ、以前の職場の先輩が独立して経営していた飲食店を手伝ったのをきっかけに、居酒屋経営に乗り出しました。
最初は居酒屋を100店舗くらいにしたいと思っていました。しかし、東日本大震災をきっかけに、生産地や物流が打撃を受けました。問屋からの仕入れ値は10~15%上がり、品質は逆に下がっていきました。
多いときは仕入れに年間1億数千万円は使っていましたが、問屋に支払っていたお金が有意義に使われておらず、リスクの高さも感じました。既存の流通構造からは外れて、自分たちで何かを作り、地方の生産地にもお金を回せないかと考えました。
ーー流通構造への不安が、1次産業に直接関わり始めるきっかけだったのですね。
糸口が見つからず、日本中をウロウロしている中で、山梨県の体験農園に出会いました。現地の人に使っていない畑を格安で貸してもらい、長靴やつなぎを買って耕し始めます。
最初は社内全員から反対されました。東京の若いスタッフは祖父母の代までさかのぼっても農業や漁業を知りません。まずは周りの経営者や取引先を畑に連れていき、収穫したジャガイモをフライにして生ビールを飲みました。そこからスタッフも、会社の福利厚生みたいなアプローチで農業に巻き込みました。
その時、山梨の農業のパートナーから「先輩が三重県で漁師をやっているが、漁村が大変なことになっている」と誘われたのが、漁業を始めたきっかけです。2016年の夏、三重県南部の熊野市を訪れると、魚は東京よりもすごく安くて、地方の市場で買って東京に持っていけば儲かると直感しました。
でも、超高齢化が進む生産地は、腰が曲がったお年寄りが漁船に乗っています。安く買えたとしても、いつか魚をとる人がいなくなれば、そうしたビジネスモデルが成り立たなくなることにも気づきました。
ーー漁業にはどのような可能性を見いだしたのでしょうか。
日本の漁業就業者数は約15万人(2018年、水産庁調べ)で、1年で5千人以上減っている計算です(2013年は約18万人)。
私は漁師でなく、東京の居酒屋経営者として関わっているので、いまの漁業を「儲かる漁業」へと構造を変え、海を豊かにする役回りを担いたいと考えました。現在は三重県南部の尾鷲市と熊野市で定置網漁を行っています。
地元の市場では取引されていないような魚を、自社で加工して東京の居酒屋に持っていき、メニューに加えています。また、KDDI総合研究所と連携して、海にセンサーが付いたスマートブイを浮かべて、漁に最適な時期や漁獲高を予想できるように、海中のデータの「見える化」を進めています。三重県には使っていない漁場がたくさんあります。漁業の再生はできると考えています。
――ゲイトではリモートワークへの取り組みも進んでいると伺いました。
5年ほど前から、本社機能をリモートワークにして、三重県の桑名市や米国のメンフィスなどにも拠点を置いていました。リモートをきっかけにデジタル化も進みました。
リモートに合ったツールは常にアップデートしているので、その仕事に最適なものを選べばいい。最新の情報収集はSNSを使っています。
――新型コロナウイルスの感染拡大は、居酒屋や漁業の今後にも大きな影響を与えそうです。
新型コロナウイルスのような感染症は想定外でしたが、4~8年先に見据えていた未来が、急に早まったという印象です。居酒屋もお酒から食事がメインになっていくでしょう。ただ、居酒屋として集めていたお客さんにランチを出したからといって、急にうまくいくとは思えません。
これからは、キッチンカーで人がいるところに出向くことも考えられるし、1次産業の立場でみれば、トラックが2、3台あれば、スーパーもできます。生産から消費まで垂直統合しているからこそ、変化に対応しやすいと思っています。
ーー五月女さんは父親から貸しビル経営を引き継ぎ、居酒屋運営と漁業に発展させました。事業承継を考えている人たちへのアドバイスはありますか。
1秒でも早く父親と事業承継の話をすることを勧めます。私は24歳のころから実質的に経営を引き継いでいますが、父親ときちんと話をするまでに8年、仕事の話もできるようになるには12年、相続の話ともなると16年かかっています。
父親からみれば、自分の子どもに生意気なことは言われたくないですよね。事業承継の最大の障壁は、父親と話ができないことです。
私の場合は、父親の言ったことには必ず「そうだよね」と返すようにしていました。同意せず、うまくいった試しはないですね。父親が認めてくれたのは、会社のお金が増えていき、望まない未来を回避したからです。やっと仕事ができる息子と認めてくれても、まだ半人前扱い。そんなものですよ。
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