承継直後に直面した台風・コロナ禍 箱根「一の湯」16代目が壊す常識
神奈川県箱根町の温泉旅館「一の湯」16代目社長の小川尊也(たかや)さん(37)は大手外食チェーン・サイゼリヤでの経験を生かし、マニュアル構築など数々の組織改革を実行。箱根で宿泊施設10カ所を運営する老舗を引っ張っています。コロナ禍で2カ月休業に追い込まれながらも、大胆な経費削減と魅力的な宿泊プランで回復の道筋をつけました。
神奈川県箱根町の温泉旅館「一の湯」16代目社長の小川尊也(たかや)さん(37)は大手外食チェーン・サイゼリヤでの経験を生かし、マニュアル構築など数々の組織改革を実行。箱根で宿泊施設10カ所を運営する老舗を引っ張っています。コロナ禍で2カ月休業に追い込まれながらも、大胆な経費削減と魅力的な宿泊プランで回復の道筋をつけました。
目次
一の湯は1630年に創業。年商は約14億円で従業員219人(2022年5月現在)を抱えます。
幼少期の小川さんにとって一の湯は「正月に行くところ」。一家で毎年大みそかに箱根に泊まっていました。しかし、普段は東京で暮らしており、家業を継ぐ意識も箱根への愛着もそれほどなかったといいます。
「おやじから『君が継ぐんですよ』と言われたことは一度もありません。『自由にやりなさい』という教えでした」
中高は野球部で汗を流し、同志社大学では馬術部に入部。競馬の厩務員になる夢もありましたが、定年まで力仕事を続ける難しさも考え、就職活動を始めます。
15代目の父・晴也さんは旅館にチェーンストア理論を採り入れ、1泊2食付きで1万円以下から宿泊可能という低価格路線にかじを切りました。
就活中の小川さんは将来を意識し「家業を継ぐ時に生かせる仕事」という軸で就職先選びを進めます。中でも心を動かされたのは外食チェーンのサイゼリヤでした。
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全てを数字で管理するチェーンストアマネジメントはもちろん、「日々の価値ある食事の提案と挑戦」という経営理念や、海外展開1万店という同社のビジョンにひかれたのです。
2010年、小川さんはサイゼリヤに入社しました。「目標へのアプローチが明確で、ここで学べば家業に持って帰れるものがあるし、継がなかったとしてもサイゼリヤで一生を過ごすのも面白いと思いました」
サイゼリヤでは店長や新店開業のスタッフトレーナーも務めました。どうしたら顧客に喜んでもらえるかを常に考えて行動する毎日は充実していたといいます。
「ちょっと話があるから、明日時間とれない?」
父から突然メールが届いたのは、入社5年が過ぎた15年5月のことでした。
小川さんは「忙しいから」と断りますが、父は「仕事の休憩時間でもいいから」とサイゼリヤの店舗に来てこう言いました。
「家業に戻ってこい」
当時、箱根・大涌谷の噴火警戒レベルが引き上げられ、箱根観光は厳しい情勢になっていました。新設を控えた「仙石原ススキの原 一の湯」のプロジェクトも重なり、踏ん張りどころだったのです。
会社のピンチを救い、新店立ち上げを経験してほしい――。父の想いが、迫力ある一言に込められていました。
「一度も強要されたことがなかったのにそう言われたので、その瞬間に腹が決まりました。本気で言っていると一発で分かりました」
小川さんはその日のうちに退職願を提出。同年7月、一の湯に入社しました。
小川さんは最初の1年間、現場でオペレーションを経験しましたが、前職でチェーンストアの最前線を見てきた目には課題ばかりが映りました。客室、温泉、料理、接客といった各部署がバラバラに動いていたのです。
「チェーンストアの組織としては全然ダメ。みんなが我流で違うことをやっていました」
顧客が喜びそうなサービスをしようと提案しても、必ず現場から反対の声が上がったそうです。「新しいことに挑戦しない風土で、お客様の喜びより従業員が早く帰れることが優先されていました」
小川さんは組織改革に動きます。商品開発本部を立ち上げ、自ら本部長に就任。各部署の意識の統一を図りました。
サービスレベルを標準化するため、手を入れたのがマニュアルでした。当時のマニュアルは10年以上も改訂されず、誰も利用していなかったそうです。
小川さんはマニュアル構築プロジェクトを開始し、すべての作業を調査。宿泊客が来た際の「いらっしゃいませ」に始まり、チェックイン、夕朝食、チェックアウトといった一連の動作を、文字と画像に落とし込みました。
マニュアルづくりに相当な労力をかけましたが、社内では「そんなのは無駄」という反発もあったそうです。それでも小川さんは「何を言われようがやるという気持ちでした」。
1年かけて完成したマニュアルは12冊にものぼりました。「せっかく作ったのに『使えねえ』と言われて、悲しい思いをしました」
マニュアルは作って終わりではなく、作業のアップデートに毎年対応する必要があります。そのたびに全員分を印刷すると相当なコストがかかります。
小川さんはマニュアルの電子化を進め、各施設のタブレット端末や従業員個人のデバイスでも見られるようになりました。紙と違って検索機能があるため、12冊分のボリュームでも疑問点はすぐに確認できるようになりました。
「電子化してからだんだん浸透しました。新入社員やパート従業員はマニュアルをもとにトレーニングを行い、今ではしっかりと活用されています」
マニュアルによって、サービスの品質が一定になりました。例えば「Aさんの接客は良いけど、Bさんの接客はダメ」というばらつきが少なくなったといいます。
マニュアル作りと同時に見直したのが、経営理念です。
入社した15年、小川さんは社員全員に「一の湯の経営理念を言ってみて」と投げかけました。
「ところが答えられる社員は1人もいません。全員が経営理念に向かってアクションする組織にしようと強く思いました」
当時の経営理念は文章が長く、「我々はこんな会社なんだと一発で言えるものにしたい」と思いました。
小川さんが考えた新しい経営理念は「宿泊の常識を変え、宿泊によって日常生活の豊かさを提案する」となりました。
経営理念は、経営幹部が各店舗に赴く際に確認したり、新入社員向けに毎日話をしたりして徐々に浸透しました。
仕事のすべては宿泊の常識を変え、日常生活の豊かさを提案するため。判断に迷った時に立ち返る場所ができたことで、組織力が高まりました。
社長就任のタイミングは突然でした。18年5月、小川さんが父と電車でつり革を持って並んでいた時「8月から社長になってくれ」と言われたのです。
16代目になった小川さんでしたが、立て続けに苦難に見舞われました。19年10月には台風19号に襲われ、従業員は全員無事だったものの、旅館は川の増水で浸水や設備破損の被害を受けました。
「1日で景色が変わってしまいました。命の危機を本気で感じ、従業員の命を守るためにとにかく必死でした」
客室にも土砂が入り込んで休館を余儀なくされ、被害額は3億円にも上りました。
20年1月には施設が完全復旧。東京五輪イヤーによるインバウンド需要を期待していた矢先、新型コロナウイルスの影響が直撃します。
一の湯は緊急事態宣言を受けて20年4〜5月の2カ月間、全館を休業。それでも休業期間中、補助金や融資などを活用し、従業員へ100%の給与支払いを継続しました。
「外部環境がいくら変わっても従業員のせいではありません。最初に考えたのは雇用を絶対に守り抜くことです」
小川さんは未曽有の危機にも前向きな企画を次々と立ち上げました。露天風呂付き客室の1泊2食で1人3900円に抑えた「マジでコロナウイルス勘弁して下さいプラン」は、ツイッターで話題になり即完売しました。
まん延防止重点措置にちなんでオリジナル饅頭と棒ラーメンがもらえる「饅棒プラン」や、滞在中はスマホを袋に入れて封をする「デジタルデトックス温泉プラン」など、魅力的なプランを次々と用意しました。
小川さんは逆風下でも「知恵を出してお客様に知ってもらえるようなアクションを起こしていこう」と号令をかけました。その結果、従業員からユニークなアイデアが次々と生まれました。
コロナ前は最大4割を占めていた外国人観光客がコロナ禍後はゼロに。稼働率はコロナ禍前の7割程度になりました。20年度の売り上げは15億円で、当初計画の22億円を大きく下回りました。
小川さんはピンチをチャンスと捉え、経費削減に注力。会議時間の上限を40分にしたり、外部に委託していた客室清掃や従業員のまかないを内製化したりするなど数々の施策を実施しました。
21年度は1年間で6千万円の経費削減に成功。22年度はさらに8千万円の削減を目指し、見直しを続けています。
経費削減だけでなく働き方改革も進めました。それまで、従業員の多くは朝働き、日中に「中抜け」という長時間休憩を取り、夕方からまた働くという拘束時間の長いシフトでした。旅館は朝食からチェックアウトまでと、チェックイン後の夕食の時間が最も忙しいためです。
しかし、休憩をしっかり取っていても、拘束時間が長くては良い働き方とは言えません。小川さんは朝から昼まで、昼から夜までという8時間ずつの交代勤務にするべく「8・0プロジェクト」を立ち上げました。
「中抜けは温泉旅館の悪い風習。是正しないと優秀な人材が働きたいと思ってくれません」
交代勤務をするには従業員を増やす必要があり、人件費は膨らみます。しかし、コロナ禍でも「正しい働き方を進めるためには必要な投資」と取り組んでいます。
社長就任から4年。小川さんは「アクシデント対応しかしていない」と苦笑いを浮かべながらも「全従業員が頑張って今も会社が続いている。アクシデントが起こるたび絆が深くなっています」と力を込めました。
22年4月の稼働率は63%程度にまで回復し、徐々に観光需要復活の兆しが見えています。それでも小川さんは「我々がやるべきは、外的要因に左右されずに品質を上げ、経費をもっと削減し、稼働率が高くなくてももうかる旅館にすることに尽きます」と話します。
客室を清潔にしておいしい料理を提供する。顧客が求める品質の上を行くサービスをする。そういった基本の徹底が何より大事だといいます。
一の湯は2045年に200店舗達成というビジョンを掲げています。現在は箱根で温泉旅館を10施設運営していますが、今後はシティーホテルやビジネスホテルなどの展開を目指します。
「お客様に価値を感じてもらえる宿泊施設作りを主眼に置いているので、温泉旅館にとらわれる必要はありません。老舗温泉旅館初のチェーンホテルを作りたいです」
小川さんは先代が打ち出した「低価格高品質」をさらに加速する決意です。
「宿泊業はお客様が高い価格を払わないと、高い価値を得られないという固定観念ができあがってしまっています。『1万円前後の価格帯でもこれだけの価値を得られる』という感動をお届けし、宿泊業界の常識を壊したいと思っています」
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