ヤマ加商店は鮮魚店として創業。屋号は初代が「豊かさの象徴である山がいくつも加えられるくらい繁盛するように」との思いを込めて付け、鰹の加工も創業時から手がけていました。
奥村さんの父の代のとき、地元の古和浦漁港の水揚げが少なくなってから鮮魚の扱いをやめ、鰹節製造のみにシフト。現在は家族4人で、鰹生節、花かつお、くんせいなどを年間10トン以上製造しています。販路は地元スーパーが60%、直売20%、卸売り15%のほか、2021年からオンラインショップも運営しています。
一般的に鰹節は生節、荒節、枯節に分けられるといいます。生節は一度いぶしたソフトなもの、荒節は何度もくんせいして固い状態にしたもの、枯節は荒節にさらにカビをつける工程を経たものです。
ヤマ加商店で扱うのは鰹生節や花かつおのベースとなる荒節で、江戸時代から続く手火山式焙乾製法(てびやましきばいかんせいほう)で作っています。薪を燃やし、炎の上方にゆでた鰹を並べた木製のせいろをかけて、熱と煙でいぶす伝統製法です。職人が鰹に手でふれながら火加減を確かめ、均一に熱が伝わるように位置を変えたり、積みかえたり、休ませたり。これを水分がなくなるまで繰り返します。
奥村さんは「節に含まれる油分、水分、季節によって適度な火力、煙の量、時間を加減しながらの大変な作業で、長年の経験と勘がものをいいます。今風に言うと非常にコスパの悪い作り方です。時間も手間もかかるし、せいろの上に乗せられる量も限られるので大量生産もできません」と言います。
先祖がつないだ鰹本来の味わい
それでも手火山式焙乾製法を続ける理由を尋ねると、奥村さんは「おいしいからです!」と即答しました。
この製法は鰹と煙の距離が近く、くんせい香が強いのが特徴です。何度も休ませてじっくりと水分を飛ばすことでうまみが凝縮されます。「手間と時間をかけるからこその味わいや香りが出せます。添加物を使わず、鰹本来の味わいを凝縮した自然な保存食の作り方を先祖がつなげてくれました」
薪には、伊勢志摩に多く自生し備長炭の原料に使われるウバメガシの原木を使用。備長炭の原料にも使われ、硬く締まった木質で火力が強く、熱が長続きするそうです。「香りもとてもいい。薪に使う木材は店によって異なるので、味わいの違いにつながります」
「僕は父の仕事を見て学んだのでこのやり方しか知りません。作り手が少なくなった今こそ、そこに付加価値を見つけて強みに変えたい」
父の背中から学んだ仕事
奥村さんが家業に入ったのは32歳のときでした。「親から継げと言われたことはありませんでしたが、長男としてずっと気にしていましたし、いつかは継ぐだろうという意識はありました」
高校卒業後、名古屋の魚市場で仲卸の仕事につきました。トラック運転手、営業職などさまざまな仕事を経験しましたが、時がたつごとに家業への意識が強くなったといいます。12年に南伊勢町へ帰郷、両親のもとで修業の日々がはじまります。
「父の後ろをついて回り、製造の流れと一つひとつの作業を目で覚え、実践のなかで身につける感じでした」。小さいころから当たり前だった光景は一変。「こんな大変な思いをして自分は育ててもらったんだな…」と、家業の重みを感じました。
ヤマ加商店の仕事の大きな流れは次の通りです。
まず、鰹節に適した脂肪分の少ない鰹を仕入れさばきます。1度に200~300本の鰹を三枚おろしにして、煮籠に切り身を並べ、煮て、骨を抜き、いぶします。生節はそこから真空パックに詰め、加熱殺菌します。
家族総出で各工程を平均3時間、全体を2~3日かけて作業を進めていきます。花かつおの原料となる荒節を作る場合はさらに長い期間を要し、削りの作業も入ってきます。
1日に数トンもの鰹節のくんせいができる大型機械が主流の時代に、ヤマ加商店はすべて手作業で行っています。「どの工程も決まりはなく、魚体一つひとつを見て判断して処理しなければいけません」
一方、家業に就くまでに経験した仕事は製造以外で役立ちました。魚市場で身に付けた衛生管理、配送、営業、顧客や地域の人とのコミュニケーションなどです。「自営業は何でもやらないといけません。外で経験したことは無駄じゃなかったと思います」
事業を継いで地域活動に注力
家業に入って5年目、奥村さんが37歳のときに父親が病気で他界しました。4代目として本格的に事業継承し、今まで両親に任せていた経営も担うようになります。
「こんなに手間暇かけてやっているのに、もうからないもんなんやな…」
それまで経営にノータッチだった奥村さんが帳簿を見たときの最初の感想でした。赤字でこそないものの利益は少なかったのです。代々の味を守り続けるため、さまざまな取り組みをはじめます。
「経営課題とか難しいことは分かりませんが、うちの弱みと強みを考えました。弱みは全部、強みは地域に根ざした商売で競合が少ないことでした」
奥村さんは、自分の店だけでなく南伊勢町全体が活気づくことの重要性を考え、地域に根ざした活動に力を入れました。
町の商工会青年部の一員として、町の行政チャンネルの制作に関わり、町内をあちこちロケし、撮影や編集、時には出演もしながら、地域の行事や物産品のPRに力を注いでいます。青年部主催の「南伊勢わくドキ」というお祭りイベントの運営メンバーにも加わるなど、地域活動に注力してきました。
「地域活動は仕事以上に時間と労力がとられますが、地域の方とのコミュニケーションは田舎では特に大事な部分です。地域全体を盛り上げるために、世話役はできるだけ買って出るようにしています。また、一緒に活動する青年部の後輩たちとの連携も強まります」
海岸線延長は245キロに及ぶ南伊勢町は東西に広く、町内でも端から端まで車で1時間半ほどかかります。
「町内には38もの集落があり、東西に長い分、交流が難しかったりしますが、地域活動をしていると町内のいろんな地域の方が僕の顔を覚えてくださり、親しみを持ってくれます。『お宅の生節はおいしい』、『青年部の活動をがんばっとるな』などと声をかけられる頻度も増え、仕事への活力につながっています」
商品の工夫と観光PRを連動
18年には商工会の支援と専門家派遣制度を活用してホームページをリニューアル。小規模事業者持続化補助金なども利用し、ポスターやリーフレットも作成しました。
奥村さんは全国的にも珍しくなった手火山式焙乾製法を、付加価値として前面に出します。ネットでの検索やイベントでのPRにつながるよう、ホームページやリーフレットを制作。製造工程について写真とともに説明を加え、伝統的製法でつくる鰹節の良さがビジュアルで伝わる内容に変えたのです。
「いままで無かった営業ツールがそろい、バイヤーさんやお客さんへの説明がしやすくなり、取扱店が増え、物産展などのイベントでも興味を持ってもらいやすくなりました。体感ですが、こういった部分が整うと社会的信用度も増しますね」
21年には、ヤマ加商店の主力の鰹生節とオリジナル商品「鰹くんせい」が町公認の「南伊勢ブランド」に選ばれました。
「鰹くんせい」は鰹の身を薄くスライスしてオリジナルのタレにつけ、サラミ風にくんせいした商品で、かめばかむほどに鰹のうまみと香りが口いっぱいに広がるのが特徴です。製造するとすぐ品切れになるほどの人気商品になりました。
商品自体は30年前からのロングセラーですが、奥村さんは6年ほど前、ハート形のくんせいをランダムに入れ、ネットで話題になりました。南伊勢町の名所である「ハートの入り江」(見江島展望台)にちなんで思いついたといいます。
「ハートはクッキーの型を使い、一つひとつ手でくりぬいています。入っていたらラッキーですよ」
商品の工夫とともに、地元の観光スポットもしっかりとPRするのが奥村さん流。くんせいを食べたことない女性や若い人に興味を持ってもらうきっかけになり、リピーターも多い商品だそうです。
ヤマ加商店の鰹生節などはふるさと納税の返礼品にもなり、ローカルとグローバル、両面でのアプローチを続けています。
「南伊勢ブランドも返礼品も、町を背負っての商品となりますので、責任感が一層強まりました。ちゃんとしたモノづくりを続けて、町に貢献したい。返礼品は、納税という違う角度からヤマ加商店の鰹節を知ってもらうきっかけにもなっています」
足元を固めて家業の発展に
南伊勢町の人口1万1千人(23年4月末現在)。過疎化が進む地域でビジネスを続けるのに必要なことについて「まずは足元だと思います」と奥村さんは話します。
その地で長く続いてきたのは、商いを育む環境や地域のニーズがあったからこそです。
「自分たちの商売が地域の人にとって日常の一部になっていることを忘れず、地元に愛される商売を続けることが大事です。自分の商売だけを見るのではなく、エリア全体の魅力を発信すれば、地域で作られているものや食文化、住む人へ興味がわき、巡り巡って家業の発展につながるのではないでしょうか」
地域を大切にしたうえで、奥村さんは「少しずつ外へとテリトリーを広げていくことも大事」とも言います。
21年からはオンラインショップも始めました。「南伊勢のローカルフードを全国に届けられる時代になりました。手火山式焙乾製法のように、かつては当たり前だったものがどんどん希少になることで、逆に付加価値となります。それを求める人が情報を拾えるように、今後はオンラインショップにもさらに力を入れていきたいです」
家族4人で手作りしている食材なので、生産量を大幅に増やすことはできません。「でもファンを増やす努力をしないと減っていく一方です。伝統製法を守りつつ生産量を維持し続けられるように頑張りたいです」。奥村さんは終始仕事の手をとめることなく、想いを語りました。