シンワは1974年、村上さんの父・善一さんが創業しました。実家に併設された工場で、父が毎日遅くまで働く姿を見て、村上さんは「自分で事業を手がけるのは会社員よりリスクが高い」と感じました。経営は厳しく、家計にあまり余裕がないことも肌で感じ「家業に良い印象を持っていませんでした」。
高校生の時に父から「将来はどうする?」と問われます。言外に「継いでほしい」という思いを感じつつ、結局は「好きなことをやれ」と言われ、大学卒業後はインテリアショップに就職しました。
ドイツの総合的造形教育機関・バウハウスの流れをくむモダンな家具を扱うショップで働きたくて「ごみ拾いでもいいから働かせてほしい」とかけ合い、契約社員を経て正社員に。販売員として全国トップの成績を収めたこともあったといいます。
その後は米国留学を経て、上場企業でデジタルマーケティングに従事。あこがれの「大手企業のサラリーマン」になったものの、「どんなに働いても会社に貢献している感じがしない」と物足りなさを感じます。
まずは社員の働き方です。残業申請の制度はなく、定時を過ぎても当たり前に仕事を続け、午後8時を回るころようやく「そろそろ上がろうか」という雰囲気になっていたといいます。人材採用の広告には「アットホームな雰囲気」と載せていましたが、村上さんはルーズな社風が許せませんでした。
「残業は経費なので僕は帰ります」。定時を過ぎると一人で退社する日々。もちろん繁忙期は遅くまで仕事することもありましたが、「無理やり働くことで回っている会社はダメになる」との信念がありました。
ベテラン社員からは反発され、言い争いになることも。会社を変えようとすることは「冷えた油を動かすような感じでした」(村上さん)。変化が速い業界だった前職の感覚が抜けず、焦っていました。
村上さんにも反省はありました。入社して作った名刺にすぐに「専務」の肩書を入れ、「何もできないのに、急に偉くなった気になっていました」。
社長になった今は社員全員の残業状況をグラフで可視化し、基本的に「残業が多い社員は昇給させません」。「密度の濃い仕事で定時に上がれる人を評価する」という軸を共有しています。
「会社をつぶすわけにはいかない」
シンワは金属の前加工で使う旋盤と、後加工で使うマシニングセンターという二つの工作機械が主力で、車やオートバイなどを量産するためのパーツを中心に受託しています。
村上さんはまず前加工を学ぶため、円筒状の物を削り出す旋盤のオペレーターになります。「馬車馬のように働いて」(村上さん)仕事を覚え、営業人材を入れて新規案件を獲得します。
シンワに特殊な技術はありません。しかし、一つひとつの部品の精度が高く、製品になった時の見た目の美しさに定評があります。1個からの受注も可能で、他社に断られた案件を相談されることもありました。
少しずつ事業を広げる中で、2015年に村上さんが社長に就任。工場が手狭となり、本社を埼玉県日高市から狭山市に移転します。土地を購入したことで「会社をつぶすわけにはいかない」と引き締まり、新規事業を考え始めました。
アウトドアの総合ブランドを着想
村上さんは、風鈴やキャンドルホルダーを試作するなどアイデアを探し続けます。そんなとき、趣味のキャンプ用に購入したチェアをながめると、シンワが得意とする切削加工技術が使われていることに気づきました。
「オリジナル商品はすべて自製しなくては」と思い込んでいましたが「できない部分は他に頼めばいい」とひらめきました。
2010年代半ばは、オリジナルのキャンプ用品を作る小規模のガレージブランドが数多く登場します。しかし、村上さんはそれとは一線を画し、事業として成り立たせるため、アウトドアの総合ブランドを目指しました。
シンワの技術を生かし、軽さと耐久性、携帯性を兼ね備え、使い勝手の良さはもちろん、現代のライフスタイルにフィットした商品を作ろうと決めました。どんなにいい物も、デザインやものづくりの背景も含めて、ユーザーの心を動かさないと買ってもらえないというのを、販売員時代に経験したからです。
工場を持たないファブレスがトレンドの中、村上さんは製造拠点を持つからこそクイックな商品開発ができ、ブランディングでもメリットになると考えました。
縫製工場からは門前払い
村上さんは「高校生が買うような」参考書を購入し、製図や生地も独学で勉強します。しかし、スタートから困難が待ち受けていました。
アウトドア総合ブランドとして不可欠のタープとテントを作るため、国内の縫製工場を40社ほどリストアップ。片っ端から電話するも、門前払いされます。
そのころ、実家の家具メーカーを継いだ前職の後輩に「工場が見つからなくて困っている」と嘆くと、「中国なら見つかりますよ」とアドバイスされます。ネットで検索し、縫製を頼める中国の工場を見つけました。
2016年9月にアウトドアブランド「muraco」を立ち上げ、タープのほか、ペグやロープ、ポール、トートバッグなどを発売。約半年後には、工場の切削加工技術を生かしたポールを使用した、頑丈で美しい構造のテントの販売も始めます。
ところが、テントの色を真っ黒にしたため、ネットなどで賛否両論を呼んだのです。
批判されても腹をくくった
村上さんは当初、ミリタリーカラーのテントを試作していました。しかし、中国の工場から送られてきたサンプル画像が黒っぽく見え、見たことのないスタイリッシュさに一目ぼれします。
ところが、黒いテントの発売を予告すると「視認性が悪い」などと批判が相次ぎました。一方で「かっこいい」という意見も多く、「ダメなら変えればいい」と腹をくくり、17年4月に黒色のまま、3万9420円(税込み)で販売を開始。ふたを開けると、用意した300張りのうち100張りが初日に売れました。
さらにアウトドアイベントで出会った和歌山県にあるアウトドアの有力セレクトショップのオーナーから「黒いテントは売れる顔をしているから変えてはいけない」と助言され、初めて仕入れてもらいました。
風穴を開けた新しい人材
muracoは順調に卸先が増え、村上さんは全国を走り回りました。商品企画からイベント出展まで休日返上で1人でこなし、「どうやって寝ていたのか思い出せないほど」でした。
しかし、新規事業が軌道に乗るにつれて「社内は荒れに荒れた」と言います。村上さんが作業着を着なくなると「社長はチャラチャラして」と言われ、支持を得られない状況に頭を悩ませました。
風穴を開けたのは新しい人材でした。muraco事業で営業とデザインができる2人の社員を採用。それが「会社としてmuracoをきちんと事業化していく」というメッセージとなり、社員同士が自然と打ち解け、いがみ合いはなくなったといいます。
muracoは現在150アイテムを抱え、卸先は国内130軒、海外4軒まで増えました。しかし、国内で自社から営業をかけたのは1店だけ。村上さんは社員にも「新規営業はかけるな」と伝えているそうです。
販売員時代の経験から、「アウトドアのような趣味の領域の商品は、使い手の『好き』という気持ちがのってこそ買ってもらえる」という確信がありました。こちらから営業するのではなく、まずはバイヤー自身に「売りたい」と思ってもらえる商品作りに注力しました。
他ブランドと差別化するため、「アウトドア業界出身者は採用しない」ことも決めています。インテリア業界出身など、未経験の人材をそろえることで、業界の常識にとらわれない商品を生み出す基盤を作っています。
海外は22年の台湾を皮切りに韓国でも販売開始。今後は中国市場にも広げる予定です。22年2月には東京都立川市に都内初の直営店もオープン。今後もギアを中心としたショップのほか、都心にアパレルがメインの店も出す計画です。
アパレルの強化は客層を広める施策の一環です。外部のチームと組んで24年春夏物からラインアップを増やし、25年秋冬物からは卸販売も始める予定です。アパレルもモノトーンを基調とし、muracoのスタイリッシュなブランドイメージを伝えています。
製造事業部とのシナジーも
muraco事業は売上高の6割を占めるまでになり、祖業である製造事業部とのシナジーも生まれています。
まず、人材採用で困らなくなりました。村上さんの入社当時は募集しても応募がありませんでしたが、muracoをきっかけにシンワを知ってもらう機会が増えました。muracoが好きで製造事業部のオペレーターになった社員もいます。社員27人の平均年齢は38歳です。
シンワでは技術者を「職人」ではなく「オペレーター」と呼ぶように徹底しています。「職人という呼び方では神格化され、難しいイメージを与えてしまう。そのハードルを下げれば、就業人口の拡大にもつながるのではないでしょうか」
二つの事業部が会社を引っ張ることで、新しいことに挑戦する雰囲気が醸成されました。村上さんが特に変化を感じるのは、製造事業部の社員です。本社の工場見学やキャンプイベントなどを通して、顧客と直接話す機会ができ「ものづくりをしているだけではダメ」という意識が生まれたといいます。
「100億円企業」を目指して
muracoの立ち上げを「第2創業」とすれば、シンワは今「第3創業期」を迎えています。
村上さんはこれまで、規模拡大はそれほど重視していませんでしたが、前期(23年8月期)が終わる前に「(8年後の)55歳までに売上高100億円」という目標を立て社員と共有しました。関わってくれる外部メンバーも増え、同じ熱量で取り組むために、明確なビジョンが必要と考えたのです。
入社当時の売上高は1億円にも届いていませんでしたが、現在進めている仕掛けを一つひとつ積み上げれば、100億円は決して難しくないと見ています。
ブランド事業は「売って終わり」ではなくアフターサービスが重要です。顧客のためにも会社を長く続ける必要があり、村上さんは今から自分の後を継ぐ3代目のことを考えています。
世代交代はまだ先で、子どもたちに継いでもらうかどうかも分かりません。ただ、代替わりの際に自身も社員も苦労した経験から、現在の主要メンバーには「最初は3代目の言うことに従ってほしい」と伝えています。「新しいリーダーは能動的に動くことで、ドライブをかけることができる」と確信しているからです。
会社の未来をデザインしながら、村上さんの挑戦は続きます。