「子どものころに父の机の引き出しをこっそりのぞいたことがあります。発見したのは、父に宛てて書かれたラブレター。古いものですから、当然、黄ばんでいる。でもね、筆で書かれたその手紙からは色あせることのない、女のひとの思いが伝わってきました。だから父も捨てられなかったんでしょう」
「家賃が安いところを探してたどり着いた街ですが、訪れてみればわずかながら洗練された家具屋さんや雑貨屋さんがありました。そしておもちゃや革製品、袋物の産地として知られるこの街では、じつは手帳などもつくられてきたのです」
豪州への留学経験もある広瀬さんは、海外と接点のある仕事がしたいと就職先にフィリップス(オランダの電気機器関連メーカー)を選びました。ようやく仕事の勝手がわかってきてこれからという時期。父の誘いは寝耳に水だったといいます。しかし一方であらがえない魅力も感じました。
「アサヒ商会の創業は1948年。商売をやる家に生まれ育ちましたから、商売人へのあこがれはありました。ぼくは4人兄弟の3番目ですが、誰ひとり継ぐ気配はなかった。いま思えばしてやられたということになるんですが、買収はぼくをその気にさせる奥の手だったのでしょう。群馬の会社を継げといわれたら迷わず断っていたはずです」
買収した会社は神田神保町(当時)のほたか。1961年に創業した法人向けの文具事務用品販売業の老舗です。
経営状態は悪くないと聞かされていましたが、ふたを開けてみれば黒船の来航でいつ沈んでもおかしくない状況にありました。黒船とは、オンラインのBtoBビジネス。ほたかは昔ながらの御用聞きで生計を立てていました。
女性客を念頭に店を開く
07年に代表に就任した広瀬さんは事務所移転などの経費削減や新規開拓を推し進めますが、もはや焼け石に水でした。
そんなタイミングで親会社のアサヒ商会も経営に陰りが生じます。とてもふたつの会社をみることはできません。広瀬さんはMBA取得を目指し、米国に暮らす長兄の一成さんを頼りました。ひとり米国にやってきた弟の気持ちをくんだのでしょう。一成さんは帰国し、家業を継ぎます。
アサヒ商会を兄に任せた広瀬さんはほたかの祖業をたたむ決断をします。社員も窮状を理解してくれました。高齢の社員は定年まで待ち、若手には転職を勧めました。リーマン・ショック前だったこともあり、皆の就職先が決まりました。
そうして2010年、広瀬さんはカキモリをオープンします。
「大資本と同じことをやっても勝てません。勝ち筋を探ってたどり着いたのが女性客を念頭においたこだわりの文具をそろえる店でした。文具といえば男性の嗜好品と相場は決まっており、そのマーケットはぽっかり空いていたのです」
文具を手にとってもらう工夫
陽光が差し込む、開放感あふれる店内。ヘリンボーン(V字)状に組み合わせた天然木の床は色鉛筆をイメージしています。説明されて驚いたのがその床の柄は壁や内装とぴたりと一致していることでした。手間ひまかけたこの遊び心は一目でそれとわかりませんが、直感でわくわくを感じさせるものとなっています。
高揚感を覚えたのは店のつくりだけにあるのではありません。ノート(1100円〜)、ペン(495円〜)、インク(2750円〜)、レター(440円〜)……。中央のステージを基点にぐるりと回遊できるそのフロアはどの商品も自由に試せます。ショーケースに入っていそうな万年筆もそのまま棚に並べられていました。メガネチェーンの陳列方法を参考にしたそうです。
「書くきっかけになる店をつくりたかった。それには気軽に手にとれる工夫が不可欠でした」
店づくりには「身分不相応なくらい」資金を投じました。
「あまり手を加えずにこぢんまりやるつもりだったんですが、『いい箱をつくればそれに合わせてがんばるものだ』と建築家に諭されました。リーマン・ショック後の金融円滑化法により、奇跡的に借りられた1500万円をほとんど吐き出しました」
立地の不利を克服する商品
建築家の名は河田将吾さん。あこがれの家具店に「この店をつくった建築家を教えてほしい」と頼み込んだところ、それが河田さんでした。
河田さんは蔵前に店を出すというチャレンジングな試みに感じ入り、コンセプトづくりから一緒になって考えてくれました。
まずは立地の不利を克服する必要があります。足を運びたくなる店づくりを模索するなか、業者向けの展示会でみつけたのが米国製の製本機。担当者に使い方を教わっていると、頭のなかでなにかがかちりと音を立てました。
表紙や中紙が一から選べたら面白いんじゃないか。材料は地元の職人さんに頼んで、店で製本する――。オーダーノートのアイデアが生まれた瞬間でした。「一冊のノートから始まる物語というのはいいね」と河田さんも乗り気になりました。
広瀬さんはさっそく工場探しに乗り出します。印刷、断裁、貼り合わせ、裏打ち……。ところが職人気質を引きずる土地柄もあってどこもまともに取り合ってくれません。天を仰いだ広瀬さんの目に飛び込んできたのが「木村紙工所」と印字された近所の看板でした。
「ひざを突き合わせて思いを伝えたところ、仕事を受けてくれるのみならず、付き合いのある工場も紹介してくれることになりました」
すべての材料は工場の言い値で仕入れました。中間マージンをカットしたからできたことですが、そこには少しでも産地に潤ってほしい、という思いがありました。カキモリ一店で斜陽化を何とかできるものではありませんが、がんばる工場があるかぎり、広瀬さんは「MADE IN KURAME」にこだわりたいといいます。
オーダーノートは1冊2250円から。中紙のみ交換して使い続けることが可能です。
街を楽しむマップを20万部制作
カキモリを立ち上げるにあたり、仕込んだもう一つの仕掛けも特筆に値します。「カキモリのある町」と名づけたマップがそれ。無料で配布しています。
そのマップは近隣のお店などを紹介するもので刷り部数は20万部。広瀬さんは定期的に改訂版を刷って情報を更新してきました。版を重ねること、すでに40刷――。
蔵前は店が増え、来街者が増え、東東京を代表する街になりましたが、このマップが果たした役割も侮ることはできません。
こちらはもうひとりの立役者、アートディレクターの関宙明さんの発案。「書き人」をもじったカキモリというネーミングとロゴをつくってくれたのも関さんです。
数年は我慢の時が続きましたが、マスコミの目にとまると一転、入場制限をしなければならないほどにぎわう店になりました。
インクスタンドも評判に
店が軌道に乗って14年に手がけたのがインクスタンド。来店客がみずからインクを調合することのできるサービスです(5500円)。インクの生産は日本の画材メーカー、ターナー色彩が手がけます。
「隣の物件が借りられることになって、目をつけたのがインク。前年に19色のオリジナルインクを発売したところ好評を博しました。このインクを通してみえてきたのが、自分だけの色をほしがっているお客さまが多いということでした」
そのサービスもまた、メディアで取り上げられると大いににぎわいました。ブルーボトルコーヒーからも声がかかり、コラボレーション商品をつくります。
仕入れ7割、オリジナル3割だった売り上げ構成比は逆転し、現在はオリジナルが8割を占めるまでに。
仕入れ商品も充実しています。当初はポチ袋や祝儀袋も並べていましたが、そのほとんどが作家さんや小さな工房のプロダクトに入れ替わりました。
手狭になって現在の地に移転したのは17年。もとは自動車の整備工場だった建物で、およそ140平方メートルあります。
販売ノルマは設けない
オーダーノートやインクスタンドに勝るとも劣らない強みがスタッフです。現在22人いるスタッフの多くはカキモリの熱心なファンだったそうで、売ることよりもその商品の魅力を伝えたい気持ちが勝っているといいます。
カキモリは販売ノルマを設けていません。また、営業時間を正午から午後6時とすることで余裕をもって接客ができる体制を整えているのも特徴です。それらはひとえにカキモリ愛を思いの丈、ぶつけてもらうためです。
「事業計画書に10店の出店を掲げたこともありましたが、うまくいきませんでした。スタッフに支えられているカキモリはマニュアル化できないからです。過去に2回、あらたに店を出したことがありましたが、いずれも1年ももたず退店を余儀なくされました」
多店舗化をあきらめて、次のフェーズに掲げたのはメーカーとしての顔をもち、販路を世界に広げることでした。
30カ国に文具を展開
コロナ禍のリソースはすべて海外市場の開拓に注ぎました。カナダのECプラットフォームのShopifyと契約し、越境ECの体制を築きました。同時にバックエンドの整備やサイトの翻訳なども推進。現在はおよそ30カ国へ展開しています。
その水面下で進めていたのがオリジナル商品の拡充。かねてあこがれていたプロダクトデザイナーの小泉誠さんに入ってもらい、21年秋、インクボトル(2750円)、つけペン(2970円)、ペンレスト(5500円)を商品化しました。
「新たのしく書く道具」と名づけられたコレクションに通底するのは、侘び寂びの世界。いわれてみればなるほど、素材やフォルムの美しさがくっきりと浮かび上がる、そぎ落とされたデザインです。「ついロゴなど入れたくなるのをぐっとこらえました」と広瀬さんは笑います。
開店以来前年対比120%できた年商もコロナ禍に半減しますが、現在はコロナ前の130%で推移しています。売り上げ構成比は店が50%、オンラインが20%、海外卸が30%。店にもオンラインにも海外客が含まれ、その割合は半数に迫る勢いです。
「じつはヨーロッパのラグジュアリーブランドからお声がけいただいたこともあります。残念ながらかたちにはなりませんでしたが、日本古来の美意識と職人技を融合させたプロダクトには、間違いなく可能性がある」
励みになった父のひと言
「閑古鳥が鳴く日々が辛くて父に泣きついたこともあります。父はいいました。『考え方は間違っていないんだからきっとうまくいくだろう』って。そのひと言がどんなに励みになったか。父はぼくがやることに一切口を出さなかった。アサヒ商会の代表の座も最短で兄に譲りました。しかし、いざとなったらケツを拭いてくれる度量がある。父がいると思うだけでぼくはカキモリに邁進できました」
22年にはアサヒ商会との資本関係を解消しました。いよいよみずからの足で立つ自信がついたのです。
洋一さんは業界の会合に出るのが楽しみになっているそうです。立派に会社を経営する息子2人のおかげで鼻高々だからです。