埋金木工所は1951年、埋金さんの祖父が建具屋として起業しました。建具とは障子や欄間のことで、緻密なミリ単位の技術を必要とします。祖父は大工や工務店の下請けとして注文を受ける日々でした。
1990年代に、宏光さんの父・義明さんが家業を引き継ぎます。純粋な日本建築はだんだんと減り、建具の需要は少なくなっていました。義明さんは一念発起し、下請けから住宅リフォームを中心とした建築業へと大きく業態転換します。
埋金木工所の技術は新築住宅ではなく、リフォームにこそ発揮できました。例えば、家主から老朽化して不安定になった床の相談を持ちかけられたら、原因を突き止めて元から修理し、その先も長く住める家にします。
木工所の業績は安定し、着実に事業は大きくなりました。義明さんは当時の住宅業界では取り扱いが少なかった天然素材に着目し、建材の木や土、紙、材木は九州産にこだわりました。石油化学製品を一切使わないため、シックハウス症候群や化学物質過敏症などの発生を防いでいるといいます。
「成功している姿を見ながら、もしそのまま後を継いでも父と同じレベルにいけるだろうかと感じていました。父を超えるには、違うアプローチをしなくてはと思っていました」
高校生になった埋金さんは、父の影響で環境関連の本をよく読んでいたこともあり、環境分野への進学を決意。当時、最先端で研究が進んでいた米国の大学に入学します。
家業の高齢化に心を痛めて
その後、帰国し北海道大学大学院に進み、森林の体積や林分構造の数値化の精度を高めるための技術開発に取り組みます。森林の構造を短時間で理解するのに役立つ技術でした。
大学院卒業後は、ニュージーランドの大学で研究職のポストが待っていました。しかし、埋金さんはそのとき、10年ぶりに帰った実家の様子に心が揺れます。父や現場で働く大工の棟梁が想像以上に年を重ねていたからです。
「研究者として海外に行ってしまったら、もう家業に戻ってくるチャンスはないかもしれないと思いました。そもそも僕はなんでこの研究をしたのかと、ふと考えたんです」
父の義明さんは新たに人を雇用するつもりはないようでした。埋金さんは2014年に木工所の一員となります。「父からは『継がんでよか、俺の代でつぶしてよかたい』といわれましたが、説得して、働かせてくれといいました」
義明さんは棟梁に面倒を見てもらうよう頼みました。「息子とか親族とはか関係なく、こいつが使い物になるかどうか見てくださいと」
埋金さんは棟梁のもとで1年ほど働き、技術を習得しました。棟梁は名前も親しげに呼ぶこともないほど、厳しく指導してくれたそうです。
デザイン力と提案力が課題に
埋金さんが木工所に入ると、いくつかの課題に直面します。その一つがデザインでした。良質な材料を使った高い技術で施工はできても、時代に合った提案ができていないように見えたのです。例えば、玄関や窓一つとっても、今はおしゃれなデザインが求められているように思えました。
埋金木工所の技術ならそうしたデザインを提案できるはず、と埋金さんは考えました。新たなデザインへの取り組みは自分たちの技術の向上にもつながります。このころ、埋金さんの弟の卓司さんが設計士の道を歩んでおり、ことあるごとに現状について話しあっていました。
一方で、強みとなっている無垢材の家づくりはそのままにしました。
一般に、住宅に使われる素材は既製品が主流で、床材も木材を寄せ集めてシールを貼った、複合フローリングがよく使われています。しかし、埋金さんは言います。
「複合フローリングが、熱帯雨林の森林を伐採して生産されていることはあまり知られていません。日本は間接的に輸入している立場で、結果的に森林破壊の問題に関わっているんですよ」
無垢材のスピーカーづくりに着手
課題と向き合う中、埋金さんは木工所の一員である叔父が、趣味としてスピーカーをつくっていることを知ります。ずっと建具を担当している叔父のスピーカーはおしゃれでした。建具屋の技術特有の「飾り面」と呼ばれる装飾的で凝った技術が施されていたからです。
埋金さんは「スピーカーを社内に置いていたら、お客さんや友人から『カッコイイね、売ってくれないか』と言われるようになりました。もしかして埋金木工所のイメージアップになるのでは、と思いました」と言います。
リフオーム業が主力になってからも、少ないながら建具の受注は続いていました。しかし発注先の都合で、仕事がなくなるという状況に陥っていました。叔父の技術を引き継ぐため、売り上げを保持するためにも、スピーカーの生産に取り組もうと考えます。
スピーカーの音質は箱の材質や厚み、大きさ、構造などで変化します。叔父は不要な木材で仕立てていましたが、埋金さんは「これを無垢材でつくったらどうなるだろう」とひらめきました。
埋金さん自身、中学生の時にギターを手にし、オーディションを受けたこともあるほどの音楽好き。米国の大学時代もバンドを組んでいました。小さいころから、オーディオショップで聴き比べをしていた経験もあり、スピーカーに詳しかった埋金さん。おしゃれな叔父のスピーカーは品質的にも成功すると考えたのです。
埋金さんは工務店の仕事のかたわら、15年からスピーカーづくりを始めました。
口コミで広がったスピーカー
住宅の建材に無垢材を使うように、家の中にも木を原料とする製品を置いて、日々、木の良さに触れてもらうことを夢みていた埋金さん。木製スピーカーはまさに打ってつけでした。「一生使えるし、人の目につくところに置いておける。それにはオーディオの世界がぴったりだと思いました」
無垢材を使ったスピーカーは音がやわらかく、響きがよく、また聴いていても疲れないのが特色といいます。価格は同等の音質のスピーカーと比べて、手に入りやすい設定といいます。
開発をスタートして10年弱。一定の音質を実現できるようになったものの、今もより良いものを求めて模索が続いています。
無垢材を使った一点物の木製スピーカーは2、3年かけて少しずつ口コミで広がっていきました。SNSに載せるとさらに広がり、オーディオに詳しいファンからも連絡がくるようになってきます。
メディアの取材もありました。さらにネットショップを立ち上げて販売を始めると思った以上に売れるようになり、とうとう本業に支障が出るまでになったため、急きょ仕切り直しに。ネット販売は中止し、口コミ経由の顧客だけとやり取りするようになります。
スピーカーがもたらした波及効果
一方で思わぬ波及効果が生まれます。スピーカーの購入者から住宅リフォームの依頼が舞い込むようになってきたのです。「うちに興味をもってもらえて、リフォームの仕事を頼みたいといわれる機会がすごく増えました」。顧客の年齢層も若返ったといいます。
そして23年、設計士として活躍していた弟の卓司さんが家業に加わり、再びスピーカー事業に本腰を入れる体制が整いました。同時に、従来の一点物木製スピーカーだけでなく、共鳴管タワー型スピーカーも開発しました。
共鳴管タワー型スピーカーは設計や材料を一定化し、量産を目的にして誕生したものです。一点物木製スピーカーは年代物のスピーカーユニットを、後者は現行品のスピーカーユニットを採用していますが、どちらも目指す音質は同じ。木材の厚みなどを微妙に調整しながら、木に心地よく響くよう設計しています。
販路をさらに広げるため、23年9月には東京ビッグサイトで開かれた大型展示会にも出展し、兄弟でスピーカーをPRしました。
スピーカーはこれまで年平均で10台が売れています。全体の売り上げに占める割合は3%ほどですが、リフォームの発注につながるなど、ブランディング面では確実に効果が生まれています。
祖父からの軸を受け継いで
顧客に木材の説明をする時、埋金さんは研究者としての顔をのぞかせることがあるといいます。
「日本には戦後、スギやヒノキが使われる予定でたくさん植えられました。しかし、それが使われず、循環されていない今の山は、ある意味で死んでいる状態なんです。家に戻ったら九州の木材をできるだけ循環させたいと思っていました」
なぜ無垢材でなければいけないのか、顧客が納得できる説明をしているといいます。
今後、スピーカーは今までの10倍になる年間100台ほどの販売を目指し、将来は輸出も考えています。3代目として事業を承継する予定で、法人化も視野に入れています。
「おかげさまで長年ずっと黒字で推移しています。最高にきついですけど、最高に楽しいですね。お客さんに直接喜んでもらえるのは代え難く、自分だけのものです。祖父から始まり、その先に父がいて、自分もその延長線上にいたいと思っています。祖父の代から大事にしてきた軸は引き継いで、必ず守っていきたいです」