川本屋は、備長炭で火入れした静岡県産の高級煎茶を始め、全国から取り寄せる日本茶や健康茶のほか、茶器やかつお節などを扱っています。自社で製造・販売するオリジナルのパウンドケーキやガトーショコラなどの茶菓子も人気で、商品アイテムは定番だけで200種類を超えます。
母の日などの繁忙期はギフト需要を中心に、ネットショップ経由で全国から1日千件もの注文が入ります。事業承継前は2千万円だった年商は、10年で約20倍の約4億円にまで伸びました。
川本屋は1897(明治30)年、東京・赤坂の置屋として創業しました。1910年に2代目の太郎吉さんが今の場所に移転し、かつお節や砂糖などを扱う乾物店を開業。3代目の宗太郎さんはお茶を商材に取り入れ、4代目で、兄弟の父・明さんは仏事の返礼品事業に注力するなど、柔軟に事業展開してきました。
川井家の長男・秀昭さんは弟・喜和さんと、幼いころから家業をよく手伝っていました。「お小遣い欲しさに窓ふきや店番、お茶の梱包などをしていました。家業は身近でしたが、両親からは特に後継ぎの話は出たことがありません」(秀昭さん)
その5年ほど前から、川本屋では母・富貴子さんがネットショップを開き、お茶を販売していました。しかし思うように売れず、EC事業の分野は月商10万~20万円程度で足踏み状態でした。
テコ入れを図るべく、実家に戻っていた秀昭さんに白羽の矢が立ちます。「ネットショップ仲間のオーナーが、EC事業を学べるように働かせてくれることになりました」
修業先はEC事業で急成長していたシューズショップで、秀昭さんは3年間、受注、検品、出荷作業などの流れを経験。うち1年間はネットショップの店長も務め、11年に改めて川本屋に入りました。
一方、街づくりに興味があった喜和さんは大学卒業後、不動産ディベロッパーに就職。用地購入に携わっていましたが、11年に退職。川本屋の一角を間借りし、全国から仕入れた健康茶が楽しめるショップ&カフェ「横濱いせぶらカフェ」を個人事業主として開業します。
偶然にも同じ年に、兄弟そろって家業と強い縁が生まれました。
こだわりのなさがECで奏功
川本屋のEC事業を一手に引き受けることになった秀昭さんは、自社の強みとなる商材を分析しました。
「ネットショップではお茶を中心に扱っていましたが、調べると産直市場のショップが我々の仕入れ値で販売していたんです。これでは勝てないと在庫を改めて確認し、倉庫に眠っている商品をすべてネットショップに並べました。売れる見込みのあるものをお客様に教えていただこうと思ったんです」
意外な人気商品になったのがかつお節の「本枯節」です。そこで「届いてすぐ楽しめるように」と削り器とセット販売したところ、飛ぶように売れました。さらに茶葉を熱して香りを楽しむ茶香炉も売れ筋になります。どちらも実店舗でほとんど売れていないものでした。
秀昭さんは「前職では飛び込み営業が主で、日ごろから商材をどう売るかを考えていました。元々家業を継ごうと思っていなかったので、『お茶屋だからお茶を売らなければ』という強いこだわりがなかった。それも奏功しました」と話します。
兄弟で支え合って事業承継へ
同じころ、喜和さんの「横濱いせぶらカフェ」は、ごぼう茶のブームをつかみ、1期目で年商3千万円を突破。法人化も念頭にありましたが、「兄弟でワンブランドとして取り組んでは」という母の提案で考えを変えました。
「カフェ事業は川本屋が母体なので、母の意見はもっともだと思いました。私の事業を川本屋へ吸収させる代わりに、兄を代表取締役社長にしてほしいと両親に提案したんです」(喜和さん)
兄弟が入社する前、川本屋の主軸は仏事の返礼品事業で年商はおよそ2千万円でした。喜和さんは「取引先に依存する状態は危険で、自分たちで稼ぐ力をつけよう」と父に話したといいます。
弟の提案に驚いた秀昭さんも「ここが大きな転換期でした」と振り返ります。
「EC事業が少しずつ安定し、自社ブランドのスイーツ開発に乗り出すなどスタッフも増え始めていました。生産体制を強化する必要があり、広告費用など父に稟議を通す機会も増え、スムーズな方法を模索していたころでした」
13年、秀昭さんが川本屋の社長に、喜和さんが副社長に就任します。兄弟経営に周囲から「のちのち衝突するのでは」という心配もありました。しかし、兄弟はこう口をそろえます。
「川本屋をもり立てるという共通目標があるので、ぶつかっている場合じゃありません。細かな意見の相違はありますが、毎回相談しながら進めてきました。弟は現場サイドの意見を吸い上げ、私は販売事情やお客様からの生の声を伝えています。今では、互いが互いの相談役のような立ち位置です」(秀昭さん)
「予算がない時期に、兄が広告費用を大きくかけようとする時はイラッとすることもありますけどね(笑)。幼いころからずっと兄に守られてきたので、僕も兄にできることをしたいと思うようになりました」(喜和さん)
スイーツ販売で得た教訓と成果
その後は、母が開発を進めてきたスイーツにも注力しました。目指したのは「日本茶に合うおいしさ」と「専門店のスイーツらしい味わい」です。当時、川本屋にはお菓子づくりが好きなスタッフが数人いて、レシピ開発に取り組むようになりました。
一口目から濃厚な味を実現するべく、マフィンやパウンドケーキの生地に抹茶をたっぷり加えましたが、お茶に含まれるカテキンは生地を膨らみにくくするため、配合には試行錯誤しました。抹茶だけでなくドライフルーツ入りなどバリエーションも増やします。
手痛い失敗も重ねてきました。クリスマスはケーキが売れると見込み、ECモールで抹茶のパウンドケーキを宣伝しましたが、全く売れず、広告費用30万円を無駄にしたこともあったそうです。
「広告ページで並ぶのは、どれもパティスリーなどが手がけるデコレーションケーキ。川本屋のパウンドケーキは華やかさに欠け、ニーズに合わないところに飛び込んだと反省しきりでした」(秀昭さん)
しかし、ここから気づきも得ました。デコレーションケーキはギフト対応が難しい一方、川本屋は冠婚葬祭の返礼品を手がけてきた歴史があります。年中行事やイベントに合わせて熨斗や細かな配送手配を行うようにすると、パウンドケーキは1日50個、100個と注文が入るようになりました。
現在、パウンドケーキはレギュラー7種類、さらにガトーショコラも3種類を展開しています。
設備投資で追い風をつかむ
繁忙期は、兄弟ふたりで朝まで出荷作業を行ったこともあるそうです。現在は約10店舗のネットショップを開き、複数ショップを一元化できる受注管理システムや、運送会社の送り状印刷用に高性能プリンターも導入しました。宛名書きの誤字脱字や確認作業などの手間が減り、1日千件まで受注、出荷対応が可能になっています。
販売数が少しずつ伸び始め、キャッシュフローは徐々に改善されました。しかしネットショップは(入金が後になる)カード決済が主体のため、19年ごろまでは苦しい財政状況が続いたと、喜和さんは振り返ります。
「EC事業は右肩上がりでしたので、銀行への説得材料は多くありました。綿密な事業計画書を作り、設備投資を重ねました」
ステイホームが叫ばれたコロナ禍は、川本屋にとって追い風にもなりました。
ECで売れない時代を経験している川井さん兄弟が一番恐れているのは売り逃しです。サプライチェーンとの関係性を大切にし、無理を言わず、しかし特に売れ筋のスイーツ類は在庫を切らさないようにと工夫を重ねます。
補助金を活用し、店舗裏に合計3カ所のキッチンを建設。業務用オーブンや自動包装機などを備え、増産体制を整えました。さらに横浜・本牧に大型の冷凍倉庫を借り、閑散期には4人のパティシエとともに製造に注力しています。
「お茶割り」実演がブランディングに
さらに「お茶割りブーム」を受けて、飲食店へ抹茶や健康茶を卸す機会が増えました。
急須でいれたお茶の焼酎割りが好きだった喜和さんは、伊勢佐木町でのイベント時、オーダーごとに茶せんで立てた抹茶でお茶割りを作ると、行列ができました。
近隣の飲食店からパフォーマンスの依頼が増えたことから、「いれたて」と「ライブ感」をかけ合わせた「生抹茶割り」を開発。和装で実演することでECだけでなく、リアルでも川本屋の認知度アップにつなげました。
現在は横浜市内を中心に約200店舗とお茶の卸取引を行い、その店でお茶を飲んだ顧客が川本屋に直接買いに来ることも増えたといいます。
世界的なブランドを目指して
事業承継から10年。兄弟は実店舗とネットショップの両輪で、売り上げの柱を増やそうと考えています。
秀昭さんが「飲むだけではなく、食べる、嗅ぐなどお茶の更なる可能性を探りたい。急須でいれる日本のお茶の文化をこれからも守りたいです」と言えば、喜和さんも「(神奈川県の銘菓の)ありあけハーバーや鳩サブレのように、川本屋のスイーツとして多くの人に認識されるブランドに成長させたいです」と意気込みます。
その一歩として23年、大規模なリブランディングを行いました。手塚治虫作品や仮面ライダーなどとのコラボも手がける「スイミーデザインラボ」の吉水卓さんに、川本屋のパッケージデザインのリニューアルを依頼。ポップでノスタルジックなデザインに仕上がりました。
また、日本茶スイーツブランド「CHAGASHI」も立ち上げ、今後は越境ECなど海外進出を視野に入れながら、生産量の減少や高齢化問題を抱えたお茶農家の課題解決にも注力するといいます。
お茶やスイーツの魅力を全国や世界に発信する、川井さん兄弟の挑戦は続きます。