NEXT・カワシマは1958年、川嶋さんの祖父が川島プロパンガス商会として創業し、地域でLPガス販売を手がけてきました。70年に川島プロパンとなり、94年に株式会社化。2008年には、太陽光発電システムの設計や施工、販売に着手し、翌09年にはリフォーム部門を独立させました。
従業員数は29人。ひたちなか市などを基点に半径30キロ圏内の6千世帯にガスを供給し、「らぽくらぶ」の会員は3千世帯に広がっています。川嶋さんは「提案から施工までワンストップで対応できるのが強み」と話します。
「地元を大切に」という経営哲学は、川嶋さんが物心ついたころから受け継がれていました。当時は自宅と同じ敷地に本社があり、社員に遊んでもらうことも多く、社員旅行にも同行。地域から頼られる祖父や、仕事に打ち込む父の姿に「いつか自分が会社を継いで、祖父の夢である100年企業にしてみせる」という気持ちが芽生えました。
川嶋さんが、小学生から大学まで打ち込んだのが野球です。「知っている人がいない土地に」とあえて関西の大学を選び、野球サークルに加入。主将に選ばれましたが、前主将と同じやり方でチームをまとめられず、仲間はどんどん練習に来なくなりました。
「リーダーシップには色々な形がある。父も前主将もカリスマ性があるタイプでしたが、僕はそうじゃない」
このころ読んだ自己啓発本のロングセラー「人を動かす」(デール・カーネギー著)からも、気づきを得ました。
川嶋さんはチームメートに1人ずつ役割を与えて責任を持たせ、いわば「一人ひとりが経営者」という仕組みに変えます。すると、チーム状態は徐々に高まって戦績も上がり、優勝するまでのチームになりました。
また、滋賀県草津市で小学生向けのチャリティー野球大会を企画・運営すると、09年にはプロ野球選手会のイベント「ベースボールクリスマス」の企画会議に呼ばれ、学生ボランティアの取りまとめを担いました。
プロ野球選手、スポンサー、仲間たち、2万3千人の来場者…。「全方向よし」の発想で、サークル連合のボランティアスタッフ約200人にサインボールを1個ずつ欲しいという依頼をするなど、様々なアイデアを出しました。うれしそうな参加者の姿が自信となり、経営者となった今も生きているといいます。
NYとマーケ会社で積んだ経験
大学4年生で米ニューヨークの語学学校に留学。現地の軟式野球チームにも入り、毎日違う人と飲みにいくことで、人との輪をさらに広げました。「世界で一番、様々な人種や宗教がある街。色々な考え方に触れたかったんです」
ニューヨークに駐在する日本人との出会いも大きかったといいます。「当時の僕の主語は、大きくても自分のいるコミュニティーでした。でも、駐在員の人たちの主語は『日本』だったんです」
帰国して12年に大学を卒業し、東京のマーケティング会社アライドアーキテクツに就職。規模が家業と近く、ファンマーケティングを軸とする思想も共通し、「5年で家業に戻る」という川嶋さんの宣言を理解してくれたのが決め手でした。
中小企業などへの営業を経験し、16年からの電力自由化が決まったことで、やや予定を早めて15年8月にUターンします。26歳のときでした。
太陽光発電の売り上げを倍に
Uターン当時は、太陽光発電バブルが起きた2011年の年商10億円からやや下降し、顧客数も横ばい。電力自由化を翌年に控えるにもかかわらず、社内は「インフラ業だから安泰」と危機感がなかったそうです。
このころの利益の割合はガス供給8割、物販2割。しかし、脱炭素社会や人口減少でガス供給の縮小は確実でした。川嶋さんは「同じことをしていては会社も縮小するだけ」と考えていました。
Uターン後すぐに太陽光発電システム販売の部署に配属されると、まずは顧客向けの資料を変えました。当時はガスや太陽光発電の知識はありませんでしたが、顧客目線で案内資料を作り直します。
例えば、それまではビルトインコンロのことを「ビルコン」と略して説明していましたが、「『ビルコン』と言われてもお客様はわかりません。細かなところから、お客様の立場だったら分かるのかというやりとりを繰り返しました」
業界全体の数字は、顧客にはスケールが大きすぎてわかりにくいと感じた川嶋さん。資料にあった「業界全体では」、「日本では」という主語を、「茨城県では」「ひたちなか市では」という主語にして、価格の表現も「コンビニのコーヒー1杯分」などイメージしやすいものに置き換えました。
工夫を凝らし、伝える言葉を変えることで、ブームが落ち着いたにもかかわらず太陽光発電の売り上げは前年度比2倍を記録しました。
会員制度で広げた接点
社長が父で、20年来の常務もいる社内では末端からのスタート。社内の意識改革は容易ではありませんでした。
当時はガスの供給だけで利益も出ており、社内には目標はあるものの、それを達成しようというマインドは薄かったといいます。
「生活に欠かせないガスは、引っ越しなどがなければ、お客様がそのまま契約を継続してくれる可能性が高いんです。しかしこの先、人口減少となっても、『何かあったらカワシマさん』と思えるような商品や付加価値を作らなければいけないと考えました」
Uターンから1年。家業の課題解決には、これまで取り組んできたファン作りが肝になると考え、社長の父や常務に会員制度を提案。16年に小規模ながら「らぽくらぶ」を始動しました。
「らぽくらぶ」会員には、家の掃除、片付け、処分から、工具などの貸し出し、草むしりや電気の取り付け、パソコン・携帯データの消去といった生活に密着したサービスを有料で提供しました。
電気工事士や一級施工管理技士など数多くの有資格者を抱え、住宅設備機器、関連工事施工全般を事業としている強みを改めて可視化し、ガス供給だけでは生まれにくかった顧客との接点を広げました。会員料はガス契約者が月100円、それ以外は月300円と低く設定しています。
このほか、地域の飲食店などの割引クーポンや、体験教室、イベントの参加権を会員に提供することで、地域の御用聞きとして「らぽくらぶ」を育てました。
「うちでは、昔からガス供給のお客様からの困りごと解決をしていました。僕は誰もがわかるように可視化しただけで、会員制度で利益を取ろうとは思っていません。困りごとがあった時に『何かあったらカワシマさん』と想起してもらえる存在を目指しました」
「らぽくらぶ」によって、顧客と社員との接点が強まり、ガス契約を乗り換える人がいなくなったといいます。
数年かけて深めたコミュニケーション
川嶋さんは家業に戻ってから、トップダウンでの組織づくりでは、一人ひとりの責任感が育たないことが多いと感じていました。社員一人ひとりとコミュニケーションを重ね、コツコツと「どうやったら目標を達成できると思いますか?」、「一緒に考えましょう」などと声をかけ続けました。
上から押さえつけるのではなく、コミュニケーションを通した組織作りを続けること数年。次第に、意欲的に目標に向けて取り組む若手や「営業が楽しい」という社員も出てきました。その熱は伝播し、年配の社員も積極的に挑戦するように変わりました。
「カリスマ性で組織を率いる父とは違う、と社内に浸透させるためにも、父の影響力を借りつつ、僕のやり方を知ってもらうように、地道なアクションを積み上げました。一人ひとりと腰を据えて面談をしたこともあります。フランクに話せる雰囲気を作りたかったので、フロアにある社長席には座らずほかの社員と同じエリアに机を置いて話しかけやすいようにしていますし、会話を増やすために自腹で一緒に飲みに行くこともあります」
コミュニケーションを通したマネジメントは、川嶋さん流の意識改革と組織作りの布石でした。現在、全4部門のリーダーに会社の株を10%ずつ保有してもらい、責任感を高めるようにしています。
インフラ企業が果たすメディアの役割
17年、社名を川島プロパンから、現在の「NEXT・カワシマ」に変更しました。プロパンガスの会社というイメージをなくし、あえて業態が浮かびにくい名前にしたかったといいます。「NEXT」には、新しいことをどんどん提供する、「Next to(となりにいる)」といった意味を込めました。
市内のイベントには積極的に出展し、防災に関するブースを出したり、中高生らの人材育成事業やスポーツチームのスポンサーを務めたりするなど、その範囲は多岐にわたります。
「らぽくらぶ」での専用アプリ、社員によるブログ更新やSNS発信に加え、22年からはLINEアカウントの運用も開始。マーケティング戦略を立て、顧客のフェーズに合わせた発信にも余念がありません。
「茨城県には全国で唯一、全県に発信されるテレビ局がありません。インフラ企業がメディアの役割を果たし、地域を知るきっかけを作りたいんです」
商圏は広げるより「深掘る」
現在、利益の割合はガス供給6割、物販利益4割と比率は変わっていますが、Uターン当時より売上高は上がってきています。その背景には、省エネ商材の台頭や顧客単価の向上がありました。
「会員制やイベントで接触頻度が増えたこともありますが、これまでのコミュニケーションを通した表現の変化が社員の提案力向上につながりました。結果として『何かあったらカワシマさん』という割合が増えました」
事業承継は突然でした。22年3月15日、朝礼で父が突然「来年の今日、社長を交代する」と宣言したのです。川嶋さんは「事前に何も聞いていなかったので驚きました」と笑って振り返ります。
「もともとあまり親子の会話はなかったのですが、今は朝に必ず実家に寄って父と話すようにしています」
エネルギー価格高騰や電力自由化で、ガス業界を取り巻く環境は大きく変化しています。しかし、同社は安売りに傾くことはありません。創業から積み上げてきた地域での信用と、代々続く信念があるからです。
「商圏を広げる気はあまりありません。広げるよりは『深掘る』。人口減少が続いても、地域から必要とされる会社であり続けたい。祖父の代からの信念と、僕の代からつくる新たな軸との融合です」