しかし、父の隆一さんが2代目職人になると、大手ガラスメーカーからの依頼が減少。隆一さんは「下請けだと職人の技術に差があっても、(職人間で)同一賃金になってしまう」ことを疑問に思っていました。
94年10月、華硝は独立して株式会社化し、工房の直営店を亀戸にオープンします。当時全盛だった百貨店では、どの工房の江戸切子も一くくりで売られ、どこの工房で作られたのかは消費者に伝わらなかったといいます。そのため、両親は自社の強みを直接伝えようと、直営店にかじを切ります。
華硝の江戸切子は全ての製造工程が手作業で、特徴は繊細さにあります。大量生産の場合、仕上げの段階で商品を化学薬品に入れて磨きますが、華硝では一つずつ手で磨くことで、より透明度の高い輝きになるといいます。
江戸時代に生み出された「魚子」(うろこの紋様)や「麻の葉」だけでなく、華硝オリジナルの紋様も大事にしています。中でも北海道洞爺湖サミットで採用された「米つなぎ」は、五穀豊穣への祈りを表した米粒のデザインで、華硝でも隆一さんと隆行さんだけが生み出せるものです。
華硝の江戸切子は1点ものが中心で、大量生産はしていません。アイテム数は約300~500点、価格帯は2万円からです。
英国で見つめ直した日本文化
家業が独立したころ、高校生だった熊倉さんは両親の大変そうな姿を見て「自分は継ぎたくない」と思っていました。教師を目指し、大学院で教育学を学びながら、非常勤講師として東京や千葉の中学校や高校で社会を教えていました。
大学院卒業後、営業職などに就くかたわら、教師として英国で3カ月間働く機会を得ます。そのとき日本文化を見つめ直し、「伝統工芸の江戸切子を通して日本文化を伝えたい」と考えるようになりました。帰国後、29歳のときに母親から家業の経理の仕事を任され、31歳から本格的に携わりました。
熊倉さんが入った直後の2007年、華硝は経済産業省の「地域資源活用事業計画」で東京都の第1号認定を受けました。職人技などの有望な地域資源を活用した中小企業の新たな事業展開を後押しする事業で、華硝は職人の技術力や芸術性が高く評価されました。
中小企業診断士のサポートを受けながら、熊倉さんが申請書を作成し、認定を勝ち取りました。認定によって、江戸切子以外の伝統工芸との接点ができ、新しいビジネスの発想やのちの企業コラボレーションにつながります。
さらに翌08年の北海道洞爺湖サミットで、「米つなぎ」紋様のワイングラスが国賓への贈呈品に選ばれ、江戸切子を広く知ってもらうきっかけとなったといいます。売り上げ増はもちろん、顧客からの信頼も高まり、「華硝の商品を持っていることに誇りを感じる」という声があったそうです。
メルマガで高めた発信力
熊倉さんは家業の広報活動に力を入れ始めました。
元々は、父が1990年代半ばからパソコンを活用し、自社のホームページを作成。江戸切子に興味を持った人たちが検索すれば、自社の商品にたどり着くようにしていました。00年初めからネット販売を始め、お客さんには自動返信メールではなく、1人ずつ個別に返事を出し、ネットでの購入者にも手書きでお礼状を送っています。
独立直後は、店舗の近くに住む女性客が口コミで買うことが多かったといいます。しかしインターネットの効果で、自分用または贈り物用に購入する男性客も増えました。現在は男性客が6割、女性客が4割。年代は30代~50代が中心になっています。
熊倉さんはインスタグラムやフェイスブックなどにも挑戦しましたが、最もお客さんの反応が良いのはメールマガジンでした。コロナ禍で店舗を開けられない期間も、メルマガでイベント告知などを行いました。
メルマガは主に新作を見てもらう機会と位置づけ、熊倉さんはお客さんのいやしになるような切子作品を選んで紹介しているといいます。
「お客様の顔が見える会社に」という両親の思いは、ネット全盛の時代でも変わらず、心のこもったコミュニケーションを意識し続けています。
初心者も職人志望も学ぶスクール
弟の隆行さんは大学卒業と同時に華硝に入り、職人として技術を支えています。
熊倉さんは隆行さんと一緒に取締役を務めます。製造と販売で役割分担する形は両親と同じですが、違いもあります。「両親に関しては父が主導権を持っていましたが、私たち姉弟は両輪のようなもの。話し合いながら事業を進め、お互いを補うような存在です」
熊倉さんが家業に入ったころ、離職率の高さが課題でした。1年も経たずに辞める人が多かったのです。中でも職人はコミュニケーションが苦手な人が多く、もめ事が起きたり、単調な仕事に飽きて辞めてしまったりすることが繰り返されていたといいます。
離職率の低下を目指していたとき、お客さんから「自分でも江戸切子を作ってみたい」という声が出るようになりました。しかし、職人レベルになるには長い年月が必要です。
そこで熊倉さんは11年1月に、江戸切子スクール「Hanashyo'S」を開校しました。卒業という制度はなく、続けたい人はずっと通い続けられます。
生徒が扱う道具は華硝の工房で使用しているものと同じ。インストラクターが指導するため、未経験者も本格的な江戸切子を作れます。体験、入門、初級、中級、上級、インストラクター、職人養成と、レベル別にコースを選ぶことができ、料金は1回あたり3840円からです。
熊倉さんは書道教室のようなイメージを持ってスクールを始めました。書道では文字と向き合って自分を表現します。同じように、江戸切子を通して自分と向き合える場を目指しました。そして、生徒にとって自宅や職場とは違う、リラックスできるサードプレースになるように心がけました。
最初の生徒は4人でしたが、23年末時点では200人が通い、年代は20代~80代といいます。開校時は熊倉さんと弟で職人の隆行さんの2人だけで教えていましたが、次第にスクールでインストラクターを募集したり、生徒をスカウトしたりして教える人材を確保しています。
スクールがもたらした効果
スクールは華硝の人材獲得にプラスに働きます。30代~40代のスクールの出身者から、職人3人、営業職1人、店舗スタッフ1人、スクールのインストラクター1人を採用できたのです。
職人はコツコツと作品作りに取り組み、技術を向上させるひたむきさが必要です。これまでは単調な作業に飽きて辞める職人が多かったといいますが、スクール出身の職人は「江戸切子が好き」という気持ちが出発点にあるため、ほとんど退職する人がいなくなったのです。辞めたとしても、その後も縁が途切れず交流を持ち続けることが多くなりました。
現在、華硝は従業員12人で、職人は父と弟を含めて5人。職人が増えたことで、様々なデザインの商品を生み出せるようになりました。また、スクール出身者を営業や店舗スタッフにも採用したことで、職人の持つ高い技術を理解した上で、江戸切子の魅力をアピールできる接客が可能になったのです。
日本橋店を開いて老舗とコラボ
16年6月、華硝は江戸切子発祥の地・日本橋にも新店を開きました。それは熊倉さんの長年の目標でもありました。亀戸店と異なり、日本橋店は近くの会社で働く人や、地方や海外からの旅行客らを引き寄せ、顧客の幅が広がりました。
熊倉さんを中心に、初めてコラボ商品の開発に乗り出したのもこのころです。展示会などで企業担当者に「お伺いしてもよろしいですか?」と話しかけ、実際に訪問。担当者と話をする中でコラボ作品のイメージができてきたといいます。最初から明確な目的やイメージを持って訪れるのではなく、対話の中から数々のアイデアが生まれています。
まずは日本橋の戸田屋商店と、江戸切子の紋様が描かれた手ぬぐいを製作。「江戸切子は値段が高くても、手ぬぐいなら買える」という顧客を開拓しました。
その後も、扇子とうちわの老舗伊場仙とコラボした江戸扇子、戸田屋商店と和紙舗の榛原と開発した一筆箋など、日本橋周辺の企業とコラボした商品を送り出しています。
異業種の老舗との対話から商品を生み出す手法を、家業での商品開発にも採り入れました。「たとえば磨く際、カットしやすいラインはどのようなものかをスタッフ同士で話し合って実現することで、高品質の作品をより早く供給できるようになりました」
発祥の地の魅力を生かして
新型コロナウイルス流行前まで順調に業績を伸ばした華硝も、コロナ禍で店舗を開けられず、従業員の感染もありました。それでも、忙しくて整えられなかった社内のコミュニケーションの円滑化に目を向ける期間にもなったといいます。
コロナ禍では、贈呈品を遠くまで買いに行けないという近隣の企業関係者の購買が増えたり、ステイホームで少し奮発してでも自分用にグラスを買いたいというお客さんが増えたりしました。
23年12月の「日本 ASEAN 友好協力50周年特別首脳会議」では、隆行さんが作った江戸切子のグラスが招待国首脳らへの贈呈品に選ばれました。
熊倉さんは「職人さんにもコミュニケーションやホスピタリティーを学ぶ機会を持ってもらい、人にものを訴える力を身につけられるような人材育成に取り組みたい」と語ります。
現在、インバウンド客は米国と中国からが大半です。24年度は英語版の自社ホームページの公開準備を進め、多くの観光客を呼び込みたいと考えています。熊倉さんもインバウンドを家業に生かそうと、大学院に通い、文化人類学を専攻しています。
熊倉さんにはもうすぐ中学生になる一人息子がいます。息子はすでに、江戸切子を買いに来たお客さんと話をしたり、テレビ番組で江戸切子を紹介したりしていて「将来は後を継ぎたい」と言っているそうです。
熊倉さんは「まだ息子の将来はわかりません。ただ、私は家業に入って人間として成長できました。江戸切子発祥の地の日本橋に、みんなが集える場所を作り、いずれは江戸切子の美術館も開けたらと思っています」と話しました。