従業員数約50人のタゼンは、給湯器やガス器具、水回りのリフォーム企業として、仙台市民にはお馴染みの存在です。しかし近年、これまでとは違った事業が脚光を浴びています。それが、祖業である銅細工。銅は「あかがね」とも呼ばれ、熱した銅を木槌や金槌でたたいて加工するタゼンの銅職人は、「御銅師(おんあかがねし)」として400年以上にわたり技術を守り続けてきました。19代目で副社長の田中さんも御銅師を名乗り、銅にまつわるさまざまな事業を展開しています。
タゼンの始祖である善蔵は、安土桃山時代の大阪で、御銅師として腕をふるっていました。1596年、伊達政宗にその腕を見いだされ、仙台へと招かれることに。仙台城の築城で、本丸の飾り付けなどを手掛けた功労が認められ、仙台城のほど近く(現在の本社所在地)に土地を与えられました。名字を名乗ることを許され、「田中」を姓として与えられた善蔵は、「田善(タゼン)」と通称されるように。以後、江戸時代までは田中善蔵を襲名し、明治以降は代々「善」の字を引き継いでいます。
城や神社仏閣の飾りから始まったタゼンのものづくりは、街の発展に寄り添いながら、時代に柔軟に対応していきました。江戸中期になると、銅製のやかん、鍋、お燗をつける壺、火鉢など、庶民の生活用品を手掛けるように。明治に入ってからは銭湯用のボイラーを製造し、戦後は風呂釜の開発と普及に努めました。1960年に株式会社化。銅製品の需要が減る中で、住宅のリフォーム・メンテナンス事業に注力していきます。
「現在の当社の主たる事業は、住宅設備でお客さまに安心安全を届けることです。水やお湯が出なくなったら、困りますよね。そういった生活の基盤を守るサービス。400年以上の歴史の中で、そういったサービスの部分が残りました」と田中さんは話します。
子どもの頃は、祖業について特別深く考えたことはなかったという田中さん。祖父の善次郎さんからは跡取りとして期待を受けていましたが、現社長で父の善一さんからそうしたプレッシャーを感じたことはないそうです。「父は、生まれた時から将来を決められている苦労や息苦しさを私に押し付けたくなかったのでは」と振り返ります。
高校入学したての春、田中さんは「自分は何者なのか、なぜ生きているのか」そんな疑問の答えを探すため、学校をやめて旅に出ます。日本全国いろいろな場所へ足を運び、いろいろな人から話を聞いているなかで、「自分の家が400年もの長い歴史を持つこと」「事業の根底に銅があること」に思い至ります。脈々と引き継がれてきた祖業に対して猛烈に惹きつけられた田中さんは家に戻り、そのままタゼンに入社することに。15歳の夏でした。
その頃のタゼンの銅事業は、銅製の鍋や、銭湯用のボイラーなどをオーダーに応じて作っている状況でした。6、7人ほど残っていた銅職人は設備事業も兼務しており、そのうちのベテラン1人が主に製造を引き受けていました。田中さんはこの職人に弟子入りすると、ものづくりの世界に没頭します。
銅事業の工房は本社から離れたところにありましたが、田中さんは本社の場所にこだわりました。
「この土地は、初代善蔵が政宗公から与えられたと言われています。一族にとっても私自身にとっても、非常に大きな意味を持つ場所。なので、どうしてもここで銅を叩きたかったのです」
当時、自社のショールームとして使われていた本社の1階を改装し、銅工房として生まれ変わらせました。
しかし20歳の頃、田中さんはタゼンから独立することに。祖父の善次郎さんと、銅事業の方向性について考え方が違ったためでした。タゼンに家賃を払って工房を間借りしながら、御銅師として新たな道を歩むことになったのです。
子育てして気づいた住宅設備事業のすばらしさ
独立し、銅製の食器やアート、オブジェ製作などを手掛けるようになった田中さん。事業が軌道に乗るまでは経営的に厳しい面がありましたが、「傾聴」の接客スタイルを確立してから徐々に好転していったといいます。
「『10代の頃に苦労をかけた両親にプレゼントしたい』と相談に来てくれた方がいたんです。多くない予算の中で何ができるだろうと話し合って、銅製のコップを一緒に作りました。とにかく話を聞いて、相手に寄り添って一緒に作るようにしてから、注文が途切れなくなりました」
そうしたものづくりを続けるうちに祖父とのわだかまりも解消。タゼンと事業体は違えども、このまま一生御銅師として生きていくのだろう、と考えるようになっていました。しかし、ここでまた大きな転機が訪れます。
30代前半で子どもを授かった田中さんは、「子育てこそ人類の普遍的な仕事だ」と考え、ものづくりの仕事は全てストップ。専業主夫として育児に専念することにしました。慣れない育児に疲弊する日々を送っていた田中さんにとって、トイレ、風呂、キッチンがほっとできる癒やしのプライベート空間でした。
「あることに気づいた時、雷に打たれたような衝撃を受けました」
トイレも風呂もキッチンも水回りはすべて、人が生きて、次世代の命を育むために必要不可欠な設備であり、現在のタゼンが営む事業そのものではないか、と。住宅設備事業への尊敬の念を抱いた田中さんは、その時初めて継ぐことを決意。2014年に再入社し副社長に就任すると、本格的にタゼンの事業に関わるようになります。
会社をさらに良くするため「あかがね」プロジェクトを始動
しかしいざ入社してみると、課題は山積していました。手書きの伝票など前時代的なやり方、待遇に不満を抱えた社員……。改善するには何かきっかけが必要と考えました、新しいことをしようにも予算は割けない。そのうえ、これまで一切住宅設備事業に関わってこなかった田中さんの提案を社内で聞き入れてもらうのは、容易なことではありませんでした。
そこで目をつけたのが、仙台市の助成金制度です。うまく活用すれば、会社の予算がなくても新規事業にチャレンジでき、組織に新しい風を吹き込むことも期待できます。伊達藩ゆかりのあかがねと地域貢献を結びつけ、交流人口を増やすことを市に提案。仙台市クリエイティブプロジェクト助成事業に採択されました。2020年3月、県内外の観光客に向けたツアー「あかがね仙台」プロジェクトが始まりました。
これは、あかがねをキーワードに「見る・味わう・体験する」の3つの体験を通して仙台の魅力を人々に再発見してもらうというもの。伊達政宗が眠る霊廟・瑞鳳殿でタゼンが手がけた銅製香炉などを見て、銅鍋を使用している飲食店で昼食を味わい、実際に盃や角皿を銅細工を作るワークショップを体験するという内容です。ワークショップはタゼンの工房で開き、主に若手の職人が講師を担当。ツアーは、コロナ禍での休止もあったものの、これまでに海外を合わせると400人以上が参加しています。
もうひとつの取り組みが、2020年11月に始まった「仙臺銅壺(せんだいどうこ)・せり鍋」プロジェクトです。こちらは、みやぎ中小企業チャレンジ応援基金事業に採択されました。
400年の歴史を持つ伝統野菜「仙台せり」を使ったせり鍋は、ここ十数年で仙台の郷土料理として広く知られるようになりました。このせり鍋をよりおいしく食べるために、専用の銅製鍋を開発。新たなせり鍋の楽しみ方として提案し、飲食店向けに鍋のレンタルと販売を始めました。
鍋の形には、浅い四角形を採用。熱がまんべんなく回り、沸騰しても具材が中心に偏ることがありません。また熱伝導のよい銅は青菜と相性がよく、せりが美しく色づき、甘みが増すと言います。
これまでに200個以上販売し、仙台市内だけでなく県外の飲食店からの注文も多いといいます。
銅事業の売り上げが10倍に
「あかがね」プロジェクトはその後、酒器やフライパンの開発、域内観光プランの作成など、あかがねの存在を知った周囲からのニーズをもとに取り組みが拡大。メディアで取り上げられる機会も増えました。
結果、料理人や金物屋などの、その道のプロから、特殊な銅製品の製作依頼が入るように。また、海外への販路拡大の取り組みも実を結び、シンガポールでは銅製の酒器が人気に。銅事業の売り上げは、田中さんが御銅師として活動する以前と比べて10倍にまで増えたそうです。
銅の加工は手作業で大量生産が難しく、会社全体から見れば売り上げ規模は決して大きくありません。しかし、銅事業の拡大によってメディアへの露出などが増えたことで認知度が高まり、メインのリフォーム事業でも、売り上げ増につながっていきました。
こうした現状について、田中さんは以下のように話します。
「銅の役割は、『伝導』だと考えています。要は伝えること、です。銅は熱伝導が良いことで知られていますが、熱だけでなく、思いやエネルギーといったものも銅を通じて伝えられる。これを地域のために活用できたら、とても良いことが起こるんじゃないか、と。あかがねの伝導を通じて伝えてきたことが、多くの方に受け入れてもらえた結果なのでは、と思います」
手書き伝票を廃止
あかがね事業を推進する傍らで行ったのは、社長同席のうえでの社員面談です。ここでも田中さんは「傾聴」を意識し、社員の正直な不満を吸い上げることに成功しました。最も多く聞かれた不満は、「休みが少ない」「給料が低い」など、社員の生活に直結する問題でした。
そこで田中さんは、まずデジタル化を推進し、業務を効率化することで稼働時間の最適化を目指しました。そのため、手書きの伝票を一部廃止しデジタルツールを導入します。もともと顧客管理に利用していたクラウド型の業務アプリの機能を拡充し、営業ツールとしても利用できるように変更。データがクラウド上に集約されるので、業務状況を誰でも見られるようになりました。さらにデジタル化の仕組みづくりを推進する専門部署を配置し、より一層の業務効率に励んでいるそうです。
当初、会社全体には、変化することへの諦めのような空気感がありました。しかし田中さんは、「変化することは銅の本質でもあり、タゼンの本質」と考えたといいます。デジタル化を進めることで、業績にも社員の生活にもメリットがあることを根気強く伝え、少しずつ進めてきました。結果として、変わることへの勇気や自信が少しずつついてきました。
一方、給料もベースアップを図っている最中です。「給料を上げるには、売り上げや粗利を稼ぐことが必要です。その前段として、まず社員の不満を聞いたり業務改善をしたりしました。時代によって考え方は変わっていくもの。とくに中小企業の事業承継では、先代やベテラン従業員との考えたかの違いがどうしても出てきます。そこのジェネレーションギャップをどう埋めていくかが大切なことだと思います」と田中さん。はじめに働き方改革を推進したことで社員のやる気もアップし、良い好循環が生まれたと話します。
小学生の自分からのメッセージを今後の指針に
今後の展望を聞くと田中さんは、「つい先日、11歳だった自分からタイムカプセルのメッセージが届いたんです」と笑顔を見せました。そこには、もし自分がタゼンを継いでいたら、①世界のタゼンにする、②社員の給料を上げる、③信頼できる人と協力しながら事業を進めると書かれていました。
経年変化が楽しめる銅製品は使い込むほどに色が変わっていくのが特徴で、その「わびさび」の感性が海外で受け入れられています。そのためコロナ禍があけてから、田中さんは頻繁に海外の商談へ出かけているそうです。
2024年には社長に就任する予定だという田中さん。過去の自分から届いた3つの指針を胸に、タゼンのさらなる飛躍に向けて歩を進めます。