今井裕平さん(以下、今井):今回のテーマは「妄想」です。少しネガティブなイメージもありますが、僕の中ではポジティブなワードです。今回、「フラッツ戸越」を担当したコクヨ経営企画本部イノベーションセンターの鷲尾有美さんと荒川千晶さんにお話を伺います。まず、自己紹介をお願いします。
鷲尾有美さん(以下、鷲尾):入社前は建築を勉強し、コクヨではお客様向けにオフィスの設計などを手がけていました。そんな中、クライアントワークから一度離れ、コクヨの課題を探り、新規事業に挑むプロジェクトに参画しました。
荒川千晶さん(以下、荒川):私も大学で建築を学び、入社後は学校の図書館や職員室、児童相談所の設計などを担当しました。最終的には家具の販売につなげるのが目的でしたが、物を売るだけではない仕事にも関わりたいと、新規事業に名乗りを上げました。
鷲尾:最初は2021年7月です。ものづくりやオフィス構築から一歩離れたライフスタイル領域で新しい柱を作ろうと、4人によるチームが発足しました。ノートを買う人が減り、オフィス以外でも仕事ができるようになり、私たちの既存事業が行き詰まっている面がありました。会社からのミッションは、未来の暮らしを考え、そこから生まれるニーズをもとにした事業創出です。未来の暮らしを、客観的視点だけではなく「圧倒的な自分事」として考えながら、半年ほどリサーチや事業企画、経営層も含めた議論を繰り返しました。
鷲尾:二つあります。一つは、朝満員電車に乗ってオフィスに行き、夜家に帰って寝るだけというライフスタイルが街をつまらなくしているのではという課題意識でした。もう一つは「人生百年時代」と言われ、進学、就職、老後というライフスタイルが流動的になる中、自分も周りの人もモヤモヤしていたということでした。
荒川:あと20年、30年、どうやって働き、その後はどうするのかというモヤモヤはありました。今回のメンバー4人のバックグラウンドが建築寄りで、暮らしや街づくり、コミュニティーに興味があったのが大きかったです。
「住まいのサービス業」と宣言
今井:当時はどんな「妄想」を描いていたのでしょうか。
鷲尾:暮らす場所と働く場所を完全に分けず、交じりあうことで自分にも地域にも良いことが起こるのではと妄想していました。若い人を中心に、住まいにおいて自分らしい生き方を模索したいというニーズが増えていて、選択肢を提供したいと思いました。チーム発足から約半年後の22年1月、フラッツ戸越のビジョンを示すイラストを経営陣に示しました。
今井:ライフスタイルという領域からどのように、不動産事業になったのですか。
鷲尾:「住まいのサービス業」と宣言し、住まいというハードウェアと組み合わせたサービスと定義づけました。半年くらい議論が行きつ戻りつしていたので、絞るためにピン留めした感じです。
今井:「住まいのサービス業」に絞る中で、遊休資産だった社員寮の活用に至ったのはなぜでしょうか。
荒川:社員寮を改修する道を選んだのは、主に三つの理由からです。一つはビルの新築や購入よりローコストであること、二つ目はスクラップ・アンド・ビルドで開発を進めるフロー型の街づくりではなく、ストック型への挑戦でした。そして三つ目は他社のビルを使うと思い切った意思決定ができないことがありました。
コクヨは元々、遊休資産の活用に強みがあります。JR品川駅近くの自社ビルである「THE CAMPUS」は、オフィス街の古いビルを改装し、一部をパブリックエリアとして開放した施設です。
コンセプトを一言で説明できない
今井:本来、必要なリソースさえあれば、中小企業の方がこうした新規事業をやりやすいかもしれません。そのような実験カルチャーがコクヨにあるのでしょうか。
鷲尾:実験カルチャーという言葉は社内でも出てきます。自分たちが働くオフィスをショールーム化して、失敗した取り組みをお客様に伝えることで、信頼を得てきたという歴史がありました。
今井:弊社にご相談をいただいたのは、22年8月でしたね。
鷲尾:「ごちゃまぜになった鍋がどうにもなりません」と持ちこみました。
今井:「住まいのサービス業」として社員寮を活用する方向性は決まっていましたが、今度は構想を具体化しなければいけない。ビジネスとしてどう成り立たせるかが一番のお題でしたね。
鷲尾:事業規模やモデルがぐるぐる回り、具体的なものに落とさないと進まないという悩みがありました。今井さんは建築の出身で、市場に驚かせるようなフラッグシップを立てることにたけていたので、煮詰めすぎて考えすぎたのを、そぎ落として磨く手伝いをお願いしました。
当時の一番の悩みはサービスやコンセプトを聞かれても、一言では説明ができないことでした。
施設のファーストビューを意識
今井:フラッツ戸越のアイデアを聞いて、いい意味で「むちゃくちゃやな」と思いました。賃貸住宅というプライバシー性の高さと、街に開かれた空間とを両立させるわけですから。普通は矛盾に気づいたらやめますが、そこが妄想のいいところで、本連載でも何度か触れた「新常識」なんです。鷲尾さんはこの「矛盾」に気づいていましたか。
鷲尾:ビジネス的につらくないか、という話はありましたね。
今井:マンションが街に開かれても住民は喜びません。仮に戸越周辺の住民3千人をフラッツ戸越の会員と見立て、どういう入居者がいれば喜ばれるか、というアプローチをしました。結果生まれたのが、副業人材や自己実現をしたい人を想定した「趣味以上のプロ未満の人」というキーワードです。
そして議論をしながら、「趣味以上プロ未満の人」が一番喜ぶのは自分のやりたいことができる多目的スタジオじゃないかというアイデアが浮かびました。
鷲尾:事業で作りたいものと、建物の制約条件を合わせるのが難しかったですが、スタジオが突破口になりました。
今井:「スタジオのデザインはもっとごちゃまぜにしてください」とリクエストを重ねました。プロの設計士はスタジオをきれいに整理して配置するのが当然ですが、そこを「もっと乱暴に交ぜませんか」と。
それは、フラッツ戸越がどんないいコンセプトを掲げても、ファーストビューが他の建物と変わらないとユーザーを引き付けられないからです。そこで、ヨガや料理ができる仕切りのないスタジオを次々と並べました。
鷲尾:入居者や地域に貸し出すためのスタジオなら、個室を作った方がいいと思います。しかし、今回は街に開かれたおおらかな雰囲気の中で色々なことが交ざるというのが肝でした。外の目で魅力を言語化して頂いたのは大きかったです。
今井:建物は制約が多く、世の中の基準に照らしてできないと片づけられているアイデアは結構あります。そこを最後に踏み超える原動力が、社内の実験カルチャーなんです。
コンセプトは「プロトタイプする暮らし」
今井:フラッツ戸越のコンセプトは、最終的に「プロトタイプする暮らし」という言葉になりました。
鷲尾:たくさん案を出していただきましたが、「プロトタイプする暮らし」という言葉が出た時、メンバーみんなが「すっとした」と言っていましたね。
今井:盛り込みたい要素はいくつかありましたが、「全部は無理です。言葉だけで伝えない方がよいですよ」と話して整理しました。
鷲尾:まずは賃貸物件として軌道に乗せるのがポイントでした。そのユーザーに一番刺さる言葉にフォーカスを当てました。
今井:入居者が得意なスキルをシェアしあう、実験しながら住むという要素が、「プロトタイプする暮らし」につながりましたね。フラッツ戸越のウェブサイトのプロトタイプも作りました。
荒川:ウェブサイトは、今回のターゲットに近いコクヨの社員にヒアリングするのが目的でした。
鷲尾:「プロトタイプという言葉にはどんな印象を持ちますか」という質問をユーザー層に聞いてもらうために、サイトを作ってもらいましたね。
荒川:サイトを経営層にも見てもらい、事業への理解が一気に深まりました。
着工と同時にリリースを発表
今井:この後で大事なのは、顧客候補に「届ける」ためのプロセスです。メディアに興味を持ってもらうためのPR、そして入居者向けの物件詳細資料の作成をサポートしました。
荒川:さすがと思ったのが、開業8カ月前の23年1月末にプレスリリースを出したことです。改装工事が始まったタイミングで、まだ形はありません。少し先でありながら、1月末段階で「こういう事業を始めます」と公表し、4月から入居募集を始めました。情報の出し方や内容をコントロールし、興味を引きつつ認知を広げるやり方は、コクヨだけでは思いつきませんでした。
今井:コクヨさんには「早くリリースを出しましょう」と言っていた気がします。
荒川:最初のリリースは「コクヨが賃貸住宅を始めます」というメッセージを届けるのが目的でした。各部屋の家賃やサービス内容などの入居情報も無かったです。コクヨは文具メーカーという認知が強かったこともあり、メディアから反響をいただきました。
鷲尾:1月段階では、コクヨの新規事業を応援する人たちを作りたいという狙いでした。経営層から心配されながら新規事業に取り組んでいたので、途中段階でも期待感を市場に作ることが大事でした。
荒川:23年4月に入居募集開始のリリースを打ち、説明会の案内を出したら入居希望者からすごい反響をいただきました。説明会にこれだけ集まれば、全39部屋が埋まりそうという手応えを感じました。
今井:発信手段はコクヨの公式リリースと「PR TIMES」でしたね。
荒川:不動産ポータルサイトは使いませんでした。最初に情報をキャッチした人は暮らしへの感度が高く、日ごろから積極的に情報収集している傾向がありました。自身が新規事業に携わっているという方からも、フラッツ戸越が楽しそうだからという理由で申し込みをいただきました。
内覧なしでも伝わったコンセプト
今井:入居につなげるため、物件の詳細資料を作り、ユーザーがダウンロードできるようにしました。新しいコンセプトの建物なので、先に「10の魅力」と銘打ち、スタジオを完備していることや地域とのコミュニティーを作っていることを伝え、家賃などの細かい話はその後にしました。
荒川:工事中に入居募集を始めたので実物は見られません。にもかかわらず、最初から反響があったのは「プロトタイプする暮らし」というコンセプトが刺さり、単なる賃貸住宅ではないことが伝わったからだと思います。
上の年代になるほど「内覧しないで入居を決めるなんてあり得ない」と言われます。しかし、居室の細かい仕様やスペックで選んでもらう建物ではありません。ライフスタイルの提案に共感する人に響くと考え、内覧にはこだわっていませんでした。フラッツ戸越の魅力的だった点を伺うと、コンセプトへの共感が多く、この地域で物件を探していたという方は少なかったです。
限られた情報で求められる意思決定
今井:収支計画も時間をかけて議論しました。お二人は収支計画をごりごり作った経験は初めてでしたか。
鷲尾:一から全部やったのは初めてです。建築コストがかかるので、既存の壁をできるだけいじらないで使ったり、住むのに絶対必要なところだけに投資を回したりしました。
今井:難しいのは売り上げの方です。コストは過去の近い事例を見れば収まりますが、今回は新しいコンセプトの住居なので家賃設定が難しい。答えのない議論をするしかありませんでした。
鷲尾:従来の賃貸住宅のモデル収支は使えませんでしたね。
今井:今回は、専有部に加え豊かな共用部がある施設ですが、新しいカテゴリーだからこそ家賃をそのまま参考にできる施設は他にありません。よく「ユーザーに聞けばいい」と言われますが、見せたら絶対に「高い」と言われる。だから、本気で住む人以外の意見は意味がないんですよ。
最後は限られた情報で答えを出すしかありません。鷲尾さんや荒川さんのような人たちは、こうした意思決定をたくさんやっています。それは、中小企業の後継ぎの方と共通すると思っています。
荒川:フラッツ戸越の運営はパートナーにお願いしている部分もありますが、そうした方は現場に入り込む分、入居者から要望があると全部かなえたくなるものだと思います。ただ、退去につながるような事案なら対応の必要はありますが、何でも応えることはできません。
例えば、ある備品を共用スペースに欲しいという要望がありました。買えなくもない値段ですが、入れたらランニングコストもかかるし、本施設が有料で提供しているサービスへの売り上げへの影響もありそうなものでした。でも、だからといって「何にもやってくれない」という姿勢に映っても良くない。そういうバランスと日々向き合っています。
入居者に生まれた共感
今井:23年9月からフラッツ戸越の入居が始まりました。入居状況はいかがですか。
荒川:23年11月現在、39部屋中34部屋が埋まっています。現在、入居率が87%なので、90%は超えるかなと思っています。ただ、正直に申し上げると、スタジオの稼働は少し伸び悩んでいます。八つのスタジオも予約状況に濃淡があり、スナックとして使えるスタジオは好評です。
今井:周囲からの反響はいかがでしたか。
荒川:ビジネス系だけじゃなくバラエティーも含めて、メディアの反響は大きかったですね。賃貸だけじゃなく、スタジオとフードスタンドも備えている点が注目されました。フードスタンドもイートインだけじゃなく、テイクアウトの需要があることが見えてきました。おやつタイムの需要を捉えたメニューを考えるなど試行錯誤しています。
今井:入居率を確保しているからこそ次のチャレンジに進めるということですね。まさに妄想が、構想、そして実装につながった形です。
荒川:コンセプトに共感してもらえているところは、すごく大きいですね。関西や海外との2拠点居住やセカンドルームとして利用する入居者の方もいて、属性は有名企業勤めやフリーランス、職種もクリエイティブ系や法律関係などバラバラです。友人同士で部屋をシェアするケースもあります。
今井:入居者同士のコミュニティーや交流の機会は生まれましたか。
荒川:開業した9月、フラッツ戸越主催で入居者向けにウェルカムパーティーを開きました。また、入居者の方がスタジオでイベントを開催したり、入居者同士が仕事帰りにスタジオのスナックに立ち寄ったり、街の人も来てくれたりしています。
とがったコンセプトに必要な実体
今井:「新規事業はコンセプトをとがらせればいい」と誤解されるかもしれません。しかし、フラッツ戸越が9割近い入居率を記録したのは、具体をちゃんと作っているからなんですね。コンセプトをとがらせるほど、裏付けとなる実体は頑張らないといけない。最終的には、入居者と地域の方々が自走してオペレーションを回すのが理想ではないでしょうか。
荒川:「プロトタイプする暮らし」を実現するのは入居者の皆様なので、私たちも模索している最中です。フラッツ戸越の文化が根付き、入居者が入れ替わっても、コンセプトに共感する方が集まり続けることが大事だと思います。
鷲尾:コンゼプトをとがらせるほど、中身に魅力がないとがっかりさせます。コンセプトと中身の両立は考え続けないといけません。
今井:「新常識」を作るには、提供する側に「実現方法は分からないけど、こういう世界がいいに決まっている」という強い意志が必要です。そうした「妄想」を起点に事業を作るのが大事であると、改めて思いました。でかい妄想は持つべきで、色々な人に攻撃されても走り切ることが新規事業につながるのではないでしょうか。
鷲尾:自分自身がコンセプトを信じていないと、反対意見や様々な困難にあたったときに頑張れないですよね。
今井:妄想を実装することで社会からポジティブな反応が得られる。普通のビジネスパーソンには困難でも、後継ぎの方は親さえ説得すれば、その環境が手に入る可能性が高い。ポジティブに捉えていただきたいです。
「奇をてらった」と言われても
今井:フラッツ戸越の事業は、文具販売やオフィスのリニューアルといったコクヨの基幹事業にどのようなシナジーを生んでいますか。
鷲尾:フラッツ戸越のターゲットは若い世代の働く人たちですが、コクヨのターゲット層とも重なっています。飛び地の事業というより、領域を地続きで広げている感覚です。コクヨとして遊休資産の利活用を進めるうえで、ハードだけでなく中身のサービスも充実させる経験は、これからの事業領域にも生かせそうです。
荒川:ある取材で「奇をてらったことをやりましたね」という趣旨のことを言われました。でも、私たちは奇をてらったという感覚ではなく、これまでに向き合ってきた働く人たちが描く未来のためにフラッツ戸越を提案しました。他の社員も、突拍子もない事業をやっているとは感じていないと思います。でも、社長に取材でこんなことを言われたという話をしたら、「狙った通りになったんじゃないか」と喜ばれました(笑)。