同社の前身は、平井さんの祖父・一郎さんが1961年に創業した平井美術印刷所です。父・康夫さん(現会長)が20歳のころに一郎さんが死去。技術を習得していた型抜き加工に的を絞り、仕事を請け続けました。そして71年、康夫さんの兄・建彦さんが初代社長になり、精工パッキングを設立しました。
今も従業員5人と、型抜き加工に特化しています。扱う素材は樹脂やゴム、ウレタン、発泡品など。平井さんは「樹脂とゴムが6割ですが、鉄とガラス以外は何でも抜けます」と話します。
同社は、ビクトリア型平打ち抜き加工(ビク抜き)を得意としています。ビクトリア刃が埋め込まれた型で素材を圧し、好みの形に打ち抜きます。この加工法は金型を作る必要がなく、製造・修理コストが低いのが特徴です。そのため、小ロットでの生産にも対応できます。
平井さんは学業と両立した5年間を「地獄のような日々」と振り返ります。「午前8時半から夕方まで仕事して、その後、夜中まで授業を受け、終電で帰宅。忙しすぎて何をやっているかわからない状態でした」
大学を出て正社員になると、型抜き加工技術を極めるようになります。周りの職人たちは「技は見て盗め」というスタンスで、丁寧に教わった記憶はありません。「おかげで素材や加工法はもちろん、社内にある800枚以上の型もすべて頭に入っています」
「不可能」と言われても挑戦
約20年前、ある健康器具メーカーから「ビク抜きした樹脂の切断面をなめらかに仕上げる方法はないか」と相談されました。
「一般的に樹脂をビク抜きすると、素材の断面にエッジが生じます。断面を丸く仕上げたい場合、プラスチック成型業者に持ち込まれていました。しかし金型代は高額で、最低ロット数も数十万単位でコストがかかります」
平井さんが編み出したのは、樹脂の上下から刃を入れる「ビクトリア型両面エッジなし加工法」でした。「エッジが生じるのは刃に厚みがあるから。それなら1度で抜き切らず、素材の表裏に半分ずつ刃を入れてカットすればいいと考えました」
父をはじめ職人たちは「不可能」と断言しましたが、読みは当たり、なめらかで丸みを帯びた樹脂板を抜くことができました。
「とがりがないため、子どもやお年寄りでも安心して触れる製品ができます。今は腰痛ベルトの芯として10年以上活用されています。実はビクトリア型は比較的安価なんです。不可能と言われても、1万円ぐらいの型代をつぎ込んで挑む価値はあると考えました。結果的にその挑戦がオリジナル技術につながりました」
売り上げ半減「これはヤバい」
2009年、父・康夫さんが2代目に就任。13年には初代社長で伯父の建彦さんががんで余命1年と診断され、経営から退きました。建彦さんは営業を一手に担っていたため、一気に経営が傾きます。
「当時、約1億円の年商が2年間で約4800万円まで落ち込みました。通帳の残高が目減りし『これはヤバいぞ』と」(平井さん)
平井さんはこのころ、経営について父と口論になりました。
「父からは『工場を畳んでマンションでも建てよう。お前はどこかで働けばいい』と言われました。18歳で入社し、他社の経験もないまま四十路に差しかかる息子に、それはあんまりじゃないかと。けんかになり『お前が社長をやれば?』と言われました」
平井さんは経営に本腰を入れ始め、15年7月に3代目社長になりました。
地元で言われた「何の会社?」
社長就任後、二つの経営課題に向き合います。
一つ目は新規取引先の獲得です。当時、売り上げの9割を2社に依存。そこからの受注が半減し、経営危機に陥りました。「10年間で新規取引先を100社まで増やすことを目標に掲げました」
もう一つは認知向上です。就任あいさつのため、地域の団体などに出向いた際、先代と付き合いのあった人からも「そういえば何の会社なの?」と言われ、衝撃を受けました。
「過去にはうちを商社と勘違いしている取引先もいました。地域にすら知られていないのに、仕事が増えるわけがありません」
認知度が低い理由には、苦い過去があります。
1989年、同社は当時の町工場として珍しいマンションスタイルの新社屋を建てました。そして、ある取引先から工場見学を頼まれたといいます。「見学時はその会社から依頼された部品を作っている最中。その直後に受注が減り始めたと聞いています」
父が納品に赴くと、取引先の工場に自社と同じ機械が並び、持参したのと同じ部品が作られていたといいます。父は激怒し、工場内は部外者立ち入り禁止になりました。
「応接間以外は一切部外者を入れず、『鎖国状態』が20年以上続きました。町工場らしくない外観で、中では何をしているかわからない。商社と思われても仕方ありません」(平井さん)
開発のきっかけは工場内のゴミ
平井さんは地域での知名度を上げるべく、葛飾ブランド「葛飾町工場物語」の認定を目指します。これは優れた技術で作られた製品を評価する区の制度で、認められるとロゴの使用や展示会の出展権が与えられます。
同社は16年、型抜き技術で「葛飾町工場物語」に認定されました。しかし、平井さんは担当者から自社の技術の紹介文を求められ、困惑します。「うちは型屋が作った型で素材を抜いているだけ。その技術をどう表現すればいいか、さっぱりわかりませんでした」
数日後、工場内を掃除していた平井さんは細長いシリコンゴムのゴミを見つけます。「ゴムを抜くのに失敗すると小さなかけらが出ます。その時、失敗した製品でもここまで細く抜けるのだから、極めれば技術と呼べるんじゃないかと思いました」
早速挑戦すると、ゴムをひも状にするのは簡単でも、輪っかにするのは難しいことがわかりました。
「ゴムを輪状に抜く場合、輪の内と外をそれぞれ別の刃でカットしなければいけません。少しでもずれると輪にならず、なっても伸ばした時に切れてしまう。素材を寸分たがわず抜く技術が必要でした」
それでもあきらめずに続け、前身企業の印刷技術も応用して、0.2ミリの輪ゴムを抜くことに成功。「かつしか極細輪ゴム」と名づけました。「普通の輪ゴムが1ミリで『超極細輪ゴム』をうたう製品でも0.8ミリ。0.2ミリの輪ゴムは、うちでないと作れませんでした」
展示会では、少し強度を高めた0.3ミリの輪ゴムを出すと、来場者の反応も上々でした。
「ガラパゴス職人」の情報発信
平井さんは自社ホームページに「かつしか極細輪ゴム」を掲載しました。実は開発当初、この輪ゴムにどのような用途があるかは想定していなかったそうです。「シリコン製のためよく伸びる」、「細すぎて遠くからでは視認できない」といった特徴を公開することで、ユーザーから用途を教えてもらおうとしました。
すると18年、ホームページをきっかけに、人気テレビ番組「マツコの知らない世界」で取り上げられ、問い合わせが急増しました。
「ある大学病院の先生から『医療用道具として使いたい』と相談され、他の病院からも続々と問い合わせが寄せられました」
平井さんはメディア出演に積極的です。かつて立ち入り禁止だった工場にテレビカメラが入ることもあります。「極細輪ゴムはうちの技術力がないと作れない。撮影されても問題ありません」
自社ホームページのアクセス数や問い合わせ数も年々増加。 今はマスクや傷口を保護するバンドなどに極細輪ゴムが使用されています。手品師や発明品を手がける主婦らからも購入希望が寄せられています。
極細輪ゴムをきっかけに技術が広まり、就任8年間で目標の新規取引先100社を達成。業績も徐々に回復しました。
「私は他社で学んだ経験がない『ガラパゴス職人』。でも、社内でひたすら技術を磨いたからこそ、極細輪ゴムが作れました。胸を張れる技術はあるので、あとは情報の受発信に重きを置こうと考えました」
極細輪ゴムの売り上げへの貢献度は「現状でほぼ0%」といいます。しかし、「今夏ぐらいから新商品の販売を始めるので、1年目は5~10%ぐらいまで伸ばし、将来的には30~40%まで伸びる商品だと感じています」と意気込みます。
オリジナルの小物入れも開発
平井さんはさらなる商品の開発には課題を感じていました。「極細輪ゴムは細すぎて、展示会で離れた場所にいる来場者から見えませんでした」
開発のヒントは、雑談で従業員から出てきた「スキー場で手軽に使える小銭入れを探している」との声でした。
「汗や水に強い素材といえば塩化ビニールです。試しに工場の端材を切り折りしたら接地面がピタッとくっつき、中に物を入れてもこぼれませんでした」
18年、クラウドファンディングで約80万円を集め、同社初のオリジナル商品の小物入れ「ポレット」を開発。カラフルな色味が好評といいます。「売り上げは全体の1割未満ですが、展示会で注目を集める役割は果たしており、型抜き加工に興味を持つきっかけになればと思います」
親族外社員への承継を準備
平井さんは50歳を前に事業承継について考え始め、親族外の31歳の社員に、いずれ経営を任せる予定です。「本人にも『10年後にこの会社を託したい』と伝えました。私自身、社長としてするべきことも多いですが、彼には今のうちから将来像を意識してもらいたいと、早めに承継の話をしました。まず経営塾などに通わせ、徐々に社外にも紹介する予定です」
親族間の事業承継を避けるのには理由がありました。
「兄弟で社を率いた先代たちは決して仲が良いとは言えず、子どもながらに『親族経営は避けた方がいい』と感じていました。もし会社が倒産したら、家族全員共倒れという危機もありえます。リスクヘッジとして、家族の誰かは全く別の仕事をしていた方がいい」
自身が培った技術やマインドを、次世代へつなぐ人材を4代目に据えたいという思いもあります。
「極細輪ゴムは職人として25年以上技術を磨いた末にできたものです。経営を任せるなら、下積みをして技術を持った人間がいい。後を託すつもりの社員は、私と同じく18歳で入社して現場ひと筋の職人。会社に何か困難があっても、その技術力で未来を切り開けるはずです」
ものづくりの街を次世代へ
周りでは廃業する町工場が増えています。「後継者を探す職人と、ものづくりを志す若者をマッチングさせたい。そのためには、地元の町工場を就職先の選択肢にしてもらう必要があります」
平井さんは定期的に地域の中学校で出張授業をしています。その話が区教委などを通じて広まり、同じく学校で教える地域の町工場も増えているといいます。
「葛飾区を次世代にものづくりの技術をつなぐ街にしたいです」