目次

  1. 渡辺鉄工の技術顧問が見た「震電」
  2. 震電を一気にリアルに感じた『ゴジラ-1.0』
  3. 渡辺鉄工はいま 時代に合わせて変わる事業
  4. 創業家にも息づくベンチャー精神

 「J7が飛ぶぞ」。終戦間際の1945年8月3日、当時10歳だった渡辺鉄工OBの岡田正弘さんは、街中から席田(むしろだ)飛行場(現在の福岡空港)を試験飛行する「震電」(略符号:J7W)を見ていました。

 渡辺鉄工の会社案内には、震電の試験飛行の様子がつづられています。

局地戦闘機「震電」
局地戦闘機「震電」

 「昭和20年8月3日、いよいよ初飛行の日。空は美しく晴れわたり、風もなく絶好の飛行日和となりました。『行ってまいります』。整列した役員や技術者たちに向かって、バイロットが敬礼。プロベラがゆっくりと回りはじめました。ふわりと機体が浮き上がった瞬間、人々の間から万感の思いを込めたため息がもれ、続いて『万歳!』の声が上がりました」

 一方、岡田さんの記憶に残っているのは、機体を右に傾けたりしながら、低空をゆっくりと試験飛行する姿でした。その後、渡辺鉄工に入社した岡田さんは「会社には一流の技術者たちが集まっていました」と振り返ります。

 岡田さんは、後の主力事業となる自動車用鉄ホイール生産設備事業の立ち上げ時に設計リーダーを務め、当時の最先端となる事業の礎を築きました。今は技術顧問として培った技術と歴史を社員に継承する立場にあります。

主力事業として渡辺鉄工を支えてきた鉄製自動車用ホイール生産設備事業
主力事業として渡辺鉄工を支えてきた鉄製自動車用ホイール生産設備事業

 太平洋戦争末期、渡辺鉄工の前身である九州飛行機に、海軍(当時)から震電の製作依頼がもたらされました。提示された課題は、B-29などの重爆撃機を迎撃する高性能な局地戦闘機をつくること。

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