安心堂は、丸山さんの父・寛治さんが1974年に興したマルミ産業が前身です。インキが付着したシリコンパッドを対象物に押し付けるパッド印刷、絹布を版材としたシルクスクリーン印刷、UVインキを用いたUV印刷の三つに対応しています。
丸山さんは「平面や曲面はもちろん、表面が凸凹のものにも印刷できます。扱う素材は、プラスチックやガラス、布地、レザー、陶器、ステンレスなど。食品残さとプラスチックを混ぜた新素材などにも印刷可能です」と胸を張ります。
発注は、企業の記念品やトロフィーの名入れ、ロゴやオリジナルグッズの印刷など多種多様で、「記念品100個」といった小ロットにも対応できます。従業員数は5人ながら、大手環境マネジメント企業「日本カルミック」(東京)をはじめ、取引先は数千社にのぼります。
丸山さんは「パッド印刷は比較的ローコストですが、セットアップや機械操作、クリーニングが面倒です。父はもっと手軽に印刷できるようにしたいと、シンプルな構造の『なんでもくん』を開発しました」と説明します。
「なんでもくん」は、製版から印刷まで一貫して行うことができ、印刷対象の素材やサイズを問わず、超精密品から日用雑貨まで簡単にパッド印刷ができます。区認定の「足立ブランド」にもなり、展示会にも定期的に出展できるようになりました。
「なんでもくん」は外販も好評で、印刷を内製化したい企業やオリジナル商品を作りたいメーカーを中心に、これまで1千台以上を売り上げています。製版キットなどの関連商品も含めた外販は、売り上げの半分を占めるそうです。
40歳を過ぎて家業へ
丸山さんが離婚をきっかけに、40歳を過ぎた2014年に家業に入りました。「私は3姉妹の長女ですが、それまで一度も事業承継の話をされたことはありません」
当時、丸山さんの子どもたちはまだ小中学生。「生活が大変で、生涯できる仕事を探さなければと思っていました」
そんな折、娘を心配する寛治さんから「家業を継がないか」と声をかけられました。「経営者になる未来は全く想像していませんでしたが、『せっかくなら』と決意し実家に戻りました」
丸山さんの印刷スキルは「幼いころにお手伝いをしていた程度」だったそうです。印刷工程に入り、実地で学びました。「父は職人気質。あまり丁寧に教えてくれるタイプではありません。何度も質問し、メモを取り、ノートにまとめて徐々に仕事を覚えました」
試作工場で印刷機を開放
寛治さんは創意工夫を重ね、印刷物を固定する治具も制作するなどして、多くの顧客から慕われていたといいます。丸山さんはそんな父の姿を見て、「この会社は父でもっている」と思い、自身にできることを探し始めました。
思いついたのが、外部向けの試作工場です。2016年に工場を改装して、試作工場を併設。「なんでもくん」を時間貸しして、クリエーターが自由にパッド印刷できる環境を整えました。
「個人からの問い合わせがあった際、予算が見合わず受注に至らないケースがありました。でも試作工場なら、お客様自身で印刷するため、費用が抑えられます。また『なんでもくん』の利便性を実際に体感してもらうことで、商品販売の可能性にもつながると考えました」
「ニッチな分野であることは変わらず、来客数はそう多くありませんが、複数のメディアで取り上げられ、行政などとつながったり、町工場ツアーのルートに組み込んでもらえたりしました」
試作工場はガラス張りにしています。「町工場の維持には、近隣住民の理解が必要です。『開かれた印刷屋でありたい』という思いから、中が見えるようにしました。町工場仲間と協力し、試作工場では印刷や溶接体験ができるマルシェを開催し、交流を図っています」
改装資金などは、小規模事業者持続化補助金を活用しました。
「補助金を受けつつも予算を少しオーバーしたので、最初は父も苦い顔をしていました。でもメディアで取り上げられたり、来訪者で工場がにぎわうのを目の当たりにしたりして、得意げな表情に変わりましたね」と笑います。
製造業の仲間とチームを結成
丸山さんは、印刷業の不安定さを危惧していました。安心堂もかつて、アパレル企業からボタンの印刷の仕事を数十万個単位で受けていましたが、ファッションの流行の変化で注文が激減。これを機に、小ロット多品種印刷に切り替えた過去があります。
「時代の急激な変化に対応するには、安心堂の強みをさらに広くアピールする必要がありました」
丸山さんは人脈作りに着手し、交流会や地域の集いにも積極的に参加しました。さらに「足立ブランド」の看板も生かして、東京と地方の展示会にも出展し、SNSで自社の取り組みに関する情報も発信。地元を中心に、複数のメディアに出演したといいます。
製造業の仲間に声をかけて「それいけ!ものづくり部」というチームを立ち上げ、各社のPRのため、デザインフェスタに出展しました。そうして仲間意識が芽生え、仕事についても気軽に相談できるようになりました。
売り上げ85%減でも固めた決意
2019年ごろ、寛治さんの体調が思わしくなくなったため、丸山さんは翌2020年の事業承継を決意し、少しずつ準備を進めました。コロナ禍に見舞われたのは、その矢先でした。
「注文の多くが、企業の記念品やノベルティー、ライブグッズなどでした。これらが配布されるイベントが軒並み中止となり、注文が激減。売り上げは前年比85%減となりました」
それでも、継ぐ意思は揺らぎませんでした。「家族を見捨てるわけにはいきません。『大変な状況は私だけじゃない、いつかは絶対に元に戻る』と信じて、決意を固めました」
丸山さんは予定通り、2020年に2代目に就任。人件費などは補助金と会社にあるお金をかき集めて何とか支払いました。
コロナ禍は、印刷業という仕事を見直す機会にもなったといいます。
「ある飲食店からオリジナルボトル印刷の依頼があり、納品するととても喜んでいただけました。ただの瓶でも、ロゴやイラストを刷るだけでオリジナル商品に生まれ変わり、購入者に笑顔を届けられる。私たちは、誰かにとっての生涯の宝物を作る仕事をしているんだと感じました」
つながりを生んだ「沿線グラス」
苦境を脱するターニングポイントとなったのは、20年から販売した自社商品「沿線グラス」の販売でした。
沿線グラスのベースは、埼玉県草加市の飲食店から、2017年ごろに依頼を受けて作った商品です。
草加駅から北千住駅(足立区)までの各駅と線路、電車のモチーフを刷ったグラスは、店の常連の間で話題となり、店舗限定販売で商品化しました。
デザインは友人のデザイナーが担当し、「なんでもくん」で印刷。「版から小ロットでオリジナル商品が作れる」という安心堂の強みを最大限生かした商品になりました。
そして2020年ごろ、グラスの購入者が、フェイスブックの足立区コミュニティーに投稿すると、瞬く間に拡散し「私も欲しい!」というコメントであふれました。丸山さんは「足立区民の地元愛を実感しました」。
「コロナで殺伐とした中、地域住民同士のつながりを感じられる商品が必要とされていました。日本各地で『いつかこのグラスで乾杯しよう』と思えるものを作れば、希望となるのではないかと思いました」
丸山さんは沿線グラスの市販化を決断。20年7月にネットショップを開き、販売を始めるとまずまずの売り上げを記録しました。
丸山さんはさらに「グラスを使う皆さんと一緒に商品開発をしたい」と考え、SNSで沿線グラスのアイデアを一般公募。寄せられた声をもとに、4種類の沿線グラス(東武スカイツリーライン、江ノ電2種、和歌山電鉄)を商品化しました。
20年10月にはクラウドファンディングで50万円以上の支援金を集め、沿線グラスの種類を増やしました。
沿線グラスがもたらした効果
東武鉄道の路線をグラスに描いていることから、2021年、同社からの依頼で「東武鉄道90周年ポスター」の被写体に沿線グラスが採用されました。
沿線グラスもメディアで続々と紹介され、丸山さん自身がラジオ番組に出演することもありました。
鉄道ファンだけでなく、各沿線住民の地元愛もくすぐった沿線グラスは、現在26路線にまで広がっています。販売数は累計6500個に達しました。
また、沿線グラスが広まったことで、企業や個人の顧客から「ガラスに印刷したい」という受注や問い合わせも増えました。「なんでもくん」で沿線グラスを印刷する様子を動画で公開したところ、「この機械は何ですか?」と問い合わせも相次いだといいます。安心堂のインスタグラムを開設すると、ガラス製品の印刷の受注も増えました。
コロナ禍では、補助金を自社の事業や商品開発に有効活用したいという中小企業が増えました。丸山さんはそうしたニーズをとらえ、「なんでもくん」の購入者を増やしました。
コロナの影響で展示会にも出展できないなかでも、「なんでもくん」はコロナ前と同水準の売り上げを達成しました。「購入者へのレクチャーもオンラインに切り替え、導入ハードルを下げるようにしたのが良かったかもしれません」
父が残したものを次世代へ
ライブや社内イベントなどの再開に伴い、安心堂の売り上げも24年から本格的に戻り始めました。
父寛治さんは2023年に亡くなりましたが、丸山さんは父が残した会社と技術を守り続けたいと考えています。
今考えているのは、顧客のものづくり体制を、さらにサポートすることです。
「創業当初、父は『人の困りごとを解決したい』と色々な仕事をしていたそうです。例えば、今なら『なんでもくん』を購入した方の困りごとや悩みを解決できるよう、提案の仕方や体制を変えていきたいです」
このほか、印刷物を必要とする企業とデザイナーをつなげるプラットフォームの構築も構想にあります。
安心堂に入った時、小学生だった次女(21)は今、デザイン会社で働いています。
丸山さんは、プレッシャーをかけたくないと思いつつ、次女に「いつか継いでくれたらいいな」と話したら、「そのつもりだよ」という答えが返ってきました。
「バトンタッチする日に備えて、会社の体制を整えておきたいです」と笑顔を見せました。