輪島塗は製造工程ごとに専門の職人が担当する分業制です。職人は、塗師(ぬりし)、呂色師(ろいろし)、蒔絵師(まきえし)など大きく六つに分かれ、工程は124もあります。田谷漆器店は全工程を取りまとめ、販売・流通を担う「塗師屋」(ぬしや)と呼ばれています。
田谷さんが大学進学で上京した際、出来合いの器を買ったのが家業の価値に気づくきっかけでした。「その器でみそ汁を飲んでも、おいしく感じなかったのに、実家から持ち帰った輪島塗で試すと味の違いは歴然でした」
和食店・レンタル事業に挑戦
田谷さんは輪島塗の入り口を広げようと、チャレンジを続けました。
ホームページは読んで楽しい構成に。田谷さんが小学生の遠足に参加したとき、輪島塗の弁当箱に入ったサンドイッチだけが乾燥せず、しっとりしていたというエピソードなども紹介しています。「器に漆を塗るのは理にかなっています。見た目の美しさだけでなく、温度と湿度を保ち、抗菌性があるのです」
その裏でSEO対策も万全にしました。「輪島塗 老舗」で検索すると、田谷漆器店が最上位に登場します(2024年7月時点)。
田谷さんは国内外問わず、企業向けのプライベートブランドなどを中心に営業を進めましたが、コロナ禍でいったん立ち止まります。「(発注者に)ぶら下がるだけの企業ではなく、一般のお客様に響く、自社ブランドを作らなければと思いました」
ほとんどが海外だったエンドユーザーへの販路を国内に戻そうと、田谷さんは2021年7月、金沢市に和食店「CRAFEAT」を開きました。店内では輪島塗などを展示販売し、輪島塗の器に盛られた食事を提供しています。
2022年10月からは、和食器レンタルサービス「LIFT」も始めました。ユーザーは新品の器を選び、例えば「輪島塗 汁椀」なら初月7483円、2カ月目4424円と料金が下がる仕組みです。5カ月間利用すると、所有権がユーザーに移ります。
さらに2024年2月には、輪島市の名所「朝市通り」の物件を改修し、朝市で購入した食材を輪島塗の器に盛って食べられる体験型施設も開く予定でした。
能登半島地震が輪島を襲ったのは、その直前のことでした。
「生き埋めも覚悟した」
地震発生時、田谷さんは輪島市の実家にいました。2回目の大きな揺れで、田谷さんは慌てて息子に覆いかぶさります。窓のすき間から息子だけ逃がし、田谷さんは家の中で揺れが収まるまで耐えました。
「家がつぶれると思い、生き埋めも覚悟しました」
家は完全な倒壊を免れ、かろうじて窓から外に出られました。息つく間もなく大津波警報が発令され、田谷さんらは靴下のままがれきが散乱する道を走り、近くの消防署まで避難しました。
ただ、一人暮らしだった母方の祖母の姿がありません。あわてて様子を見に行くと、つぶれた家の下から「助けて」という声が聞こえました。「ここから長い夜でした。大火事で真っ赤になる空を見上げ、救助してくれる人を探し回りました」
朝市通りでは大火災が発生し、開業目前だったギャラリーは、田谷さんの目の前で焼失しました。祖母は14時間後、無事に救出されました。
「復興の中心はお前」と背中を押され
田谷漆器店は事務所棟、工場が全壊。修復のために顧客から預かった漆器、材料や道具も倒壊した建物に埋もれました。
「輪島でものづくりができないなら、会社が無くなるかもしれない」。そんな思いが頭をよぎった震災翌日、田谷さんは父から突然経営のバトンを渡されます。
車中で父昭宏さんと二人きりになったとき、「田谷漆器店をここまで引っ張ってきたのはお前だ。これから復興の中心となっていくのもお前だからがんばれ」と背中を押されたのです。
「必ず輪島塗メーカーとして戻ってきます」
10代目の代表になった田谷さんは、ホームページやSNSで力強いメッセージを発信しました。すると、メールやLINEで1千件以上の励ましが届き、職人からは「いつ再開するのか」と声をかけられました。
「みんな熱いな、負けられないなと。被災地は孤立しても、気持ちの面では全く孤立していませんでした」
すし店の大将から叱られて
別の場所に保管していた輪島塗の在庫は8割ほどが無事でしたが、工場は全壊し、製造できない状況に変わりはありません。
田谷さんは当初、できるだけ自力での再建を目指していました。「外的要因での危機は普通にありえること。自分たちで乗り越えなければと、意地になっていました」
そんなとき、北九州市の有名すし店の大将から「そろそろ義援金を送りたい」という電話がありました。
田谷さんは「(義援金を)受け取っていないと答えたら、すごく叱られました。『気持ちは素直に受け取り、それから何ができるか考えればいい』と言ってくださいました」。
義援金を受け取り、大将にお礼の電話をすると「こんな時に取引先を助けられなくて、飲食店は名乗れないから」と励まされました。
輪島塗の再生へ集めた「出資」
田谷さんは震災直後、「壊滅的な輪島塗業界を、立て直したい」と題したクラウドファンディング(CF)を立ち上げました。生産体制が整い次第、寄付額に応じた輪島塗のおわんやカップなどを届ける企画になります。連携する漆器店に製造を発注することで、輪島塗全体の復興を目指しています。
「能登半島は再起不能なまでに壊滅的な被害を受けました。能登のシンボルは、ほとんどがなくなりました。でも、能登の人は頑固で諦めが悪い人もたくさんいます。形ある物や産業は地震により壊れてしまいましたが、能登人の気持ちがあれば復興できると信じています」
CFのサイトには、そんな田谷さんの思いを率直につづりました。
その結果、3340人から目標額の6.5倍となる約6500万円が集まりました。田谷さんは他にも三つのプロジェクトを展開し、総額1億5千万円の支援につなげました。
田谷さんが強調するのは「寄付」ではなく「投資」という点です。
「『大変だから助けてください』ということではなく、輪島のものづくりを必ず復興させるという決意を伝え、出資をお願いした形です。他の企業も広がればと、CFのノウハウを銀行に公開しました」
岸田首相に伝えた要望
田谷さんは2月24日、輪島塗メーカーの代表として、岸田文雄首相との車座集会に参加しました。首相に要望した職人のための仮設工房は、国の支援で4月に完成しました。
もう一つ、首相に伝えたのは、長期的な視点での復興策です。
「今までは輪島に来た方が、お土産で輪島塗を買う流れでした。これからは、輪島塗を買う目的で来る方を増やすのが、復興へのビジョンだと思います。自分たちで解決できることはしっかりと担い、行政など外部の力が必要なことはお願いする。そこを明確にしたいです」
米大統領夫妻への贈呈品をプロデュース
車座集会からしばらくして、田谷さんのもとに外務省から輪島塗のコーヒーカップの注文が入りました。3月の初めに、バイデン米大統領夫妻への贈呈品になると聞き、「プレッシャーが大きかった」といいます。
コーヒーカップは2024年4月の日米首脳会談で、バイデン夫妻に贈られました。夫妻のファーストネームが描かれ、青と黒のグラデーションが際立つ色合いは、「能登の夜明けの海」をイメージさせると、大きな反響を呼びました。
田谷漆器店はいまだに自社での製造はできません。コーヒーカップは輪島塗の総力を結集して生まれたものです。
プロデュースと販売は田谷漆器店が担い、製造はグラデーションを得意とする中門漆器店(輪島市)に依頼しました。さらに輪島塗の蒔絵師や呂色師が、つやや光沢を出しています。
分業制の輪島塗は自社の工房が機能せずとも、他社や職人との協業で生産できる強みがあります。「職人の多くは個人事業主です。田谷漆器店の製造機能はダメになりましたが、他店に依頼したり、職人さんが自宅で作業したりして、製造を継続できています」
大統領に贈ったカップは5万9千円(税込み)で一般販売し、3カ月に100個ペースで製造していますが、出荷は2年以上待ちの状況です。
輪島塗のボールペンも大統領夫妻への贈呈品になりました。米国の象徴の白頭鷲と、日本の象徴である鳳凰が仲良く舞うデザインで、日米の友好関係をイメージしたものです。ボールペンも7万円(同)で販売し、人気を博しています。
更地に仮設の「ビレッジ」を
24年6月3日には、輪島市、珠洲市などで最大震度5強の地震が発生。田谷漆器店の工房や店はさらに傾き、更地になることが決まりました。かろうじて立っていた実家も全壊しました。
それでも田谷さんは、工房や店の解体を前向きに捉え、更地に仮設の「ビレッジ」を作ろうと計画しています。
「コンテナやトレーラーハウスを使って、仮設のギャラリー、工房、オフィスを設け、キッチンカーも入れて飲食もできる空間にしたい。自社の建物が再建できれば、この場所は若者たちに自由に使ってもらいたいです」
有事だからこそ「即行動」
震災を機に先々代の祖父は引退、父母や古参の社員とも気軽に会えない状況が続いています。それでも田谷さんは、住まいのある金沢市と輪島市を往復しながら、東京のイベントでの展示販売会などに精力的に出店しています。
「これまで大切にしてきた『即行動』は、震災後も変わりません。恐れずに最初の一歩を踏み出せる人間でいたいし、会社もそうありたいです」
6月には、田谷さん自身が出資し、輪島塗と能登の食材をかけ合わせた商材をプロデュースして販売する新会社を設立しました。「これから時間をかけて、輪島のまちづくりをみんなで進めたい。新しい複合型施設を建てるのが、最終ビジョンです」
田谷さんは多数の支援に感謝しつつ「皆様に『すごいじゃん』と思っていただける輪島にできるよう頑張らないと」と鼓舞します。
「今は有事なのでなりふり構わず行動することで、事例ができます。成功例はどんどんまねして、失敗は笑ってまねしなければいい。それが、一企業にできる復興への近道ではないでしょうか」
※この記事は、ツギノジダイとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。