目次

  1. 東京での大学生活で「能登」を意識
  2. 「急に自分が傘を差さなくてはいけなくなった」
  3. 地域ごとに変わる店舗戦略 金沢では「専門性」
  4. 地震で販路を失った生産者の商品を販売
  5. 今後も地域で愛されるスーパーへ

 石川県能登エリアを地盤とするスーパーマーケット「どんたく」を展開する株式会社どんたくは、1963年、七尾市に能登地方で初となる食品スーパーマーケットを開店しました。

 先代社長の山口成俊氏が七尾市から能登地区、金沢市への出店など事業を拡大、当初3億円程度だった売上を、年商140億円規模へと成長させました。

 高級でも激安でもなく、新鮮な魚や地域の食材など品揃えの質がいい「高質型店舗」で成長してきた「どんたく」。「博多どんたく」から命名され、「人が『どん』と『たく』さん集まり、にぎやかで活気のあるお店」になってほしいという思いがこめられています。

 ハイパーローカル(超地元密着型)で大手スーパーマーケットと差別化を図り、ファンを増やしています。

 代表取締役社長を務める山口宗大さん(41)は、3代目。事業を拡大した先代の父が、実質的な創業者だといいます。子どものころ、家業への意識は薄かったと振り返ります。

 「先代の父は仕事が忙しく、家にいないのが当たり前の感覚でした。子どもの頃から周囲からは『どんたくの息子』と見られていましたが、父から仕事の話をされたことはなく、自分が『後を継ぐ』という気はまったくなかったです」

 そんな山口さんの意識が変化したのは、大学時代。東京での学生生活に充実感が得られず、「早く社会に出たい」という気持ちが、家業を継ぐ意思につながります。

 その後、家業に入った山口さんは、修行のため築地で仲卸を3年、福岡県のスーパーで鮮魚部門を3年担当し、経験を積みました。

 「築地には、日本全国からいろいろな魚が集まるので、魚の流れを知ることができ、とても勉強になりました。また売るのも買うのも、やはり人を介することなので、いろいろな人と関わることで人間関係や信頼関係の大切さを学びました」

野々市中央公園店の外観
野々市中央公園店の外観

 山口さんが家業に入って数年経った2016年3月、先代が急逝。「青天の霹靂」で山口さんは32歳で社長に就任します。

 「それまでは、先代の傘の下で守ってもらっていたのが、急に自分が傘を差さなくてはいけなくなった。マインドは大きく変わりましたね」

 先代社長は、カリスマ性があり、何事も即断即決のいわば「スーパートップダウン型」でした。山口さんは「次世代の経営幹部候補となる30~40代社員を育成する必要がある」とコンサルティング会社の経営幹部養成スクールへ次々と派遣、さらにはジュニアボードを開催し、トップダウンではなく、役員をはじめとする幹部・社員皆の知見を活かす組織経営を目指しました。

 「最終的に判断し責任をとるのは自分ですが、いろいろな人に意見も出してもらったほうが良い。社員たちに主体的に動いてもらうことが、会社が組織として強くなるためには必要な要素だと考えました」

 このときの判断により、各地域で独自色のある店舗展開ができる下地が作られます。

どんたくの代表取締役社長の山口宗大さん
どんたくの代表取締役社長の山口宗大さん(筆者撮影)

 地方スーパーマーケットは、大型スーパーチェーンや食品も扱うドラッグストアの台頭、物価高の影響などもあり、経営環境は厳しさを増しています。
その中で、どんたくを成長させてきた先代について、山口さんは「先見性があった」と言います。

 「先代がまず力を入れたのが、ドミナント化。七尾市を中心に出店することで、その地域での高いシェアを実現しました。その後、第2フェーズとして、奥能登へエリアを拡大。さらに、奥能登は人口減少でマーケットの減少が予想されることから、金沢にも出店。それが第3フェーズで、現在にいたります」

 山口さんは承継後、店舗経営の部分では、プライス分のクオリティー(Quality/Price)の最大化を目指す「高質化」に先代から取り組んでいます。

 「地域性」「専門性」「話題性」の3つの柱を掲げ、それぞれを高めることで、独自の高質を目指しました。

 「能登地区と金沢地区では、戦略は異なります。能登ではマーケットリーダーを目指しますが、弊社より巨大資本の店がたくさんある金沢では、専門性を大事にしたいと考えています」

 どんたく全店舗でのこだわりは、「地産地消」。同じ石川県内でも、地域によって食文化は異なるといい、店舗ごとの地域性を大切にしています。

 「能登と金沢の食文化は違う。能登の中でも、地域によって食文化は異なります。例えば、日本海側の砂浜に近いエリアでは、カレイやキスがよく食卓に並びますが、七尾地区は、海の魚を好んで食べます。また、店舗がある地域の地酒や和菓子のコーナーを設けています。生産者コーナーは、各店舗の地元の農家さんに直接持ってきてもらっています。店舗がある『地域』を深堀りし、より地域と密着できるようにと考えています」

 地域性を際立たせることで、離れたエリアからでもわざわざ訪れる買い物客の確保にもつながっています。

 「ハイパーローカル(超地元密着)ならではの品を置くことで、店舗がある地域の食文化を発信したい、と思っています。イートと、エンターテインメントを融合した、イーターテインメント型店舗を作っていこうと。生活の中で、買い物をすることは手間だと感じる人もいると思いますが、どんたくで買い物をするのは「楽しい」と思ってほしいですね」

各店舗スタッフが作るオリジナル「自家製チーズケーキ」のPOP
各店舗スタッフが作るオリジナル「自家製チーズケーキ」のPOP

 店内のPOPはそれぞれの店舗スタッフが作っているのも「楽しい」と生み出す仕掛けの一つです。手作りPOPでアピールし、来店客の購買意欲につなげることが狙いです。

 「食のプロが来ても満足できるような品揃え、さらにトレンドを意識してしっかり情報を仕入れ、地域のお客様に届けたい。話題づくりも意識しています」

地震の被害を受けた生鮮市場和倉店レジ前
地震の被害を受けた生鮮市場和倉店レジ前

 2024年1月1日に起きた能登半島地震では、どんたくの店舗や従業員も大きな被害を受けました。

 高浜店は天井と壁は崩落。特に被害が大きかった穴水店は、ほぼ全壊で営業不能状況となりました。高浜店は4月末まで、穴水店は7月まで休業を強いられました。被災直後は断水が続き、2月までミートセンター、惣菜センターの稼働ができませんでした。主力である地魚を使った刺身等が販売出来ず、売上、利益にも大きく影響しました。

 地震では、従業員の多くが被災者となりました。家が半壊以上となったスタッフは多く、津波で家が流されたスタッフもいました。県外への二次避難などでやむなく退職するスタッフもいましたが、金沢やかほくへ二次避難した従業員は、金沢、野々市、かほくの店舗で仕事を続けることができているほか、能登地区では、仮設住宅に住みながら「どんたく」で働くことを優先している従業員もいるといいます。

 山口さんは振り返ります。

 「今後、どうなるんだろうという思いはありました。我々も被災者。働きたくても働けないスタッフもいましたし、退職するスタッフもいました。そんな中で、お客様が『いつお店を開けてくれるの』と言い続けてくださって、地域で必要とされている、と心の支えになりました」

生鮮市場和倉店の鮮魚部門の様子
生鮮市場和倉店の鮮魚部門の様子

 どんたくでは、一早く「能登マルシェ」を企画し、販路を失った生産者の商品を金沢、野々市の店舗で販売し、地域の復興に尽力してきました。

 「能登のものは、金沢で非常に応援してもらえました。能登の製造者さん、生産者さんの中には、商品は作れても、売り先がないという方がいた。能登を応援してくれるという機運の中で、金沢でも販売できた。取引先でも喜んでくださったので、小売業が目指す、買い手・売り手・地域の『三方良し』という方針でやれました」

 震災から1年が経った2025年3月には、創業店でもある七尾市内の「どんたく新鮮館」を閉店。62年間親しまれてきた1号店だけに、常連客からは閉店を惜しむ声が出ましたが、市内にあるほかの5店舗に人員や商品を集中させることにしました。

 同時に、店舗に足を運べない利用客への移動販売、能登の酒や食材を扱うEC販売など、多様な事業の展開を考えています。

3月に閉店した創業店の「どんたく新鮮館」。本社としての機能は継続
3月に閉店した創業店の「どんたく新鮮館」。本社としての機能は継続

 今後も「高質化」と「イーターテイメント型」に磨きをかけていきたいと、山口さんは言います。

 「これからは食品スーパーとしてだけでなく、地域から多様な価値を求められ、問われていく時代だと思っています。これまでも取り組んできた『専門性』、『話題性』、『地域性』の高質化をさらに磨き、店舗ごとに、コンセプトを明確にしていきたい。お客様のニーズと期待に応えながら、『地域支援業』として地域を盛り上げ、会社としても成長していきたいです」