「日本酒界のジョブズ」新政8代目「酒へのこだわりはゼロだった」
1852年に創業した秋田市の蔵元「新政酒造」の8代目・佐藤祐輔さん(45)は、従来の常識を覆す日本酒を次々送り出し、「日本酒界のスティーブ・ジョブズ」と称されています。東京大学を出て、ジャーナリストから30代で家業に戻った異色の経歴を持つ後継ぎ経営者に、事業承継をテーマに、オンラインで公開インタビューしました。
1852年に創業した秋田市の蔵元「新政酒造」の8代目・佐藤祐輔さん(45)は、従来の常識を覆す日本酒を次々送り出し、「日本酒界のスティーブ・ジョブズ」と称されています。東京大学を出て、ジャーナリストから30代で家業に戻った異色の経歴を持つ後継ぎ経営者に、事業承継をテーマに、オンラインで公開インタビューしました。
1852年に創業。ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝氏と酒造りを学んだ5代目佐藤卯兵衛が、6号酵母を生み出し、蔵の発展につなげる。今は秋田県産米と6号酵母を用いた、昔ながらの生酛純米造りにこだわり、「No.6」などの名酒を送り出している。
――子どもの頃は、家業にどんな思いを抱いていましたか。
蔵から歩いて5分くらいの場所に住んでいたので、(先代社長の)父が蔵で仕事をする姿は見たことがありませんでした。僕も蔵の中に入った記憶はゼロです。8代目を継ぐ、という意識は一切ありませんでした。
90年ほど前に、すごい酵母(6号酵母)を見つけた人(5代目佐藤卯兵衛)がいたとは聞いていましたが、実感はありません。中高生くらいになると、会社の経営も下り坂になり、普通のサラリーマンの息子という意識が強かったと思います。
――東大を卒業した後、実家には戻らず、フリージャーナリストとしての道を歩みます。その頃、お酒へのこだわりはありましたか。
ゼロです。30歳を過ぎるまで、酒は酔えればいいと思っていました。お金がないから、大手居酒屋チェーンで、安いボトルの焼酎をウーロン茶で割って、友達と朝まで飲んでいました。
――そんな状態から、30歳を過ぎて日本酒に目覚めたきっかけは何だったのでしょうか。
↓ここから続き
ジャーナリストの先輩と、静岡県で1泊の飲み会に参加したとき、静岡の名酒「磯自慢」を勧められました。「日本酒?まじかよ」と思って、口に入れた瞬間、衝撃を受けるほどうまかった。明らかに市販のパック酒とは違うし、ジャーナリストとして好奇心を刺激されました。
帰った翌日には、全国の名酒を扱う東京の酒店から、大枚をはたいて日本酒を買いそろえました。愛知の名酒「醸し人九平次」を飲んだときは、感動して涙が出ました。
酒蔵の息子が日本酒のすごさを知らないくらいだから、大半の人は知らないのでは、とピンときました。週刊誌などに記事を書いていましたが、ジャーナリストとしてもっと得意分野がほしいと思っていた時でした。日本酒なら、父親が蔵元だからインサイダー情報が取れるんじゃないか、強い柱になって食いっぱぐれないなと考えたのもありますね。
――家業を継ぐというより、ジャーナリストとしての興味だったのですね。
中高ではロックに親しみ、大学時代に文学に傾倒していたこともあり、物の見方はリベラルだと思っています。ワインの世界では、環境を意識した自然派ワインがありますし、体への影響や伝統的な技法かどうかが、味より重視されることがあります。しかし、日本酒では、社会的な視点で語る記事は少なかった。どんな酒がおいしいとか、蔵のカタログ的な記事ではなく、日本酒ジャーナリズムみたいな骨太のものを書きたいと思いました。
でも、日本酒をたくさん買って飲んで、書こうと思っても、造りが分かっていないと、批評する以前の問題なんです。そこで、おやじに相談して、東京都北区にあった酒類総合研究所に通って、酒蔵関係者向けの講習会を受けました。
物書きと並行し、夜遅くに記事を仕上げて、寝ないで講習に通うこともありました。授業中ずっと寝ていたり、泊まり込みの授業にも起きられなくて欠席したり。米を持ったり洗ったりする肉体労働も多くて、足手まといでした。新政の顔に泥を塗ったし、プライドもずたずたになりました。黒歴史ですね。
――そんなスタートから、家業に飛び込もうと決意したのはどうしてだったのですか。
本格的に造りを勉強するなら、広島県の酒類総合研究所に行く必要がありました。大好きな物書きでそこそこ収入を得て、仲間もいっぱいいる。せっかくここまで来たのに、と悩みました。でも、不完全燃焼で終われない、徹底的に酒を極めたいという思いが勝りました。もし、家業が面白くなければ、ジャーナリストに戻ればいいという気持ちもあり、妻と広島に行きました。広島では寝袋で図書館に泊まり込むくらい勉強しました。
ちょうどその頃、新政酒造の財務資料を見たら、あと数年で債務超過に陥るような状態だったんです。債務超過になれば設備投資もできず、自分の望む酒造りができません。広島で1年半学び、2007年に秋田に帰りました。
――佐藤さんが家業に戻ってから、醸造用アルコールを入れた安価な普通酒から、すべての酒を純米酒に切り替える決断をしました。まさに「第2創業」ですね。
普通酒の売り上げが減る一方、日本酒業界で純米酒が伸びていたのは数字でも明らかで、その流れに乗れば蔵を残せると思っていました。ただ、多くの蔵は純米酒を増やしても、地元向けに安価な普通酒を造り続けています。
でも、普通酒を飲むのは60~70代が中心で、蔵は徹底的にコストを削減しなければいけません。蔵を若手中心にして、やりたい酒を造ろうと思えば、普通酒と純米酒は両立できませんでした。
――2010年、秋田県内の四つの蔵の跡取り経営者と「NEXT5」というグループを作り、切磋琢磨しました。5蔵でイベントを開き、日本酒も共同醸造する画期的な試みでした。
それまで「山内杜氏」と呼ばれる専門集団が、冬の間だけ酒造りを行っていましたが、それでは会社に知識やノウハウが残りません。醸造は通年雇用の社員をメインにしました。
しかし、酒造りや酒米の情報は手に入らなくなり、経営の相談ができる人もいませんでした。そんな時、秋田県の酒造組合で他の蔵と出会って飲み食いしているうちに「みんなでイベントを開いて、日本酒業界を盛り上げよう」と意気投合し、「NEXT5」を結成しました。集まって利き酒をしながら「お前の酒はこうだ」「あそこの酒屋さんは親切だ」など情報交換しました。1人ではできないことも、5人でやると楽しくなってきました。
――悩みを共有できる人がいない後継ぎ経営者は少なくありません。同業のライバルが、よく協力し合えましたね。
伝統産業の組合は高齢化が進み、大々的にPRしたり、通販のECサイトを作ったりするところも限られています。でも、5蔵くらいで団結したことが時代にマッチしてPR効果が出たんです。2011年の東日本大震災の復興支援で、東北の酒が注目され、NEXT5の取り組みが秋田ブランドとして注目されたのも、大きかったと思います。
――当時社長だった父親とは、酒造りや経営について、どんな話をしましたか。
戻った頃は、酒造りより、経営をてこ入れしなければならず、「十何年も社長をやっていたのにそれはないだろう」と、おやじを一方的に責めていました。純米酒に切り替え、新政を出荷する酒販店の基準を全国一律にして、結果的に今までの取引先を足切りする形になった時は、おやじと相当もめました。
おやじは「お酒は地元の人が安く飲めるもの」と思っていました。僕も新政の普通酒を買うファンのお金で養ってもらったのだから、気持ちは痛いほど分かります。でも、僕がおいしいと思えない物を、なんとなく造るのは耐えられませんでした。経営者と造り手の自分が戦っていたといえます。
――家業に戻って5年後の2012年、8代目として社長に就任しました。
醸造の権限は握っていたし、社長になる必要はありませんでした。でも、地元の晩酌で飲まれていた普通酒が、純米酒になって値上げして、クレームの嵐になってしまいました。飲食店からは「店で一番安い本醸造が新政だったから、純米酒で値上げするなら扱えない」と言われることもありました。
会社が大きく変化するときは、社長に説明責任が生じます。おやじに頭を下げさせるわけにはいかない、自分が一人ひとりに説明しなければいけないと思い、最後はおやじが折れて、社長になりました。
――経営方針は、従業員にどうやって理解してもらいましたか。
自分が過度に現場介入してしまう経験が何度もありました。社員が入っては辞めるという繰り返しで、もう少し社員の気持ちに寄り添ってあげればよかったと、今は申し訳なく思っています。
僕は完璧主義者で気性も荒く、2015年には忙しさもあって、メンタルもやられ、倒れてしまいました。自分に足りないところを埋める人間が必要だと思い、今の醸造責任者は自分より一回り若く、性格が逆の人を選びました。仕出屋の息子で舌がいいし、性格が弟に似ているので、いいバランスになっています。
――新政は、秋田県産の酒米と自社で採取した「6号酵母」にこだわり、手間のかかる生酛純米造りを貫き、全国のファンをうならせるブランドとなりました。
日本酒を好きになった時、「隠れた宝物が日本にあった」と感動しました。科学技術が発達していない時代から、職人が複雑な工程で仕込み、とんでもない発酵技術を駆使して、日本酒は引き継がれています。
だから、地域性や伝統を勉強し、自分なりにかみ砕いて、お酒に具現化したい一心でした。日本酒の魅力を高めたかっただけで、ブランド戦略のようなものはありません。
――佐藤さんは、なぜ変革を貫くことができるのですか。
僕が思うのは「伝統とは何か」ということです。お客さんは「知っている製品が変わらなければいい」と思っていますが、それでは会社はつぶれます。その世代しか相手にできなくなるからです。
普通酒をやめた時、「お前は伝統を破壊した」と言われ、好き勝手にモダンなことをしていると捉えられていました。でも、今の製法はむしろ生酛純米造りという江戸時代のものに戻っていますし、酒米も(全国の蔵が使う)山田錦ではなく秋田県産にこだわり、新政酒造の蔵が発祥となった6号酵母しか使いません。
僕は純粋な造りにあこがれています。お酒の味や瓶のラベルは、例えるなら花です。咲いて散って、また次の年に咲くものです。もっと大事なものは、日本酒の伝統技法を継続していくことではないでしょうか。それは植物で言えば、種にあたるものなのです。
――世間の考えと自分の方向性が違っていた場合、経営者はどうすればいいのでしょうか。
うちは今、木の桶を大量に仕入れて日本酒を造っています。木の桶は古くて廃棄している蔵も多く、木のにおいが酒につくのは良くないと言われています。でも、世間一般の常識みたいなものを変えたいと思い、導入しました。僕は酒にフッと香る木のにおいが好きだし、木の桶で仕込むのは日本酒の歴史としてもリアルです。
同じことをしたら、同じ物しか造れません。大手のコンビニなら日本人全員を意識しなければいけないかもしれません。でも、理解してくれる人に分かってもらえれば成り立つくらいの経営規模なら、自分が客観的に見て妥当だと思えば、それにかけるべきではないでしょうか。第一人者になれるし、多様化は業界のためにもなるはずです。
――佐藤さんのように、悩みながら前に進もうとする後継ぎ社長に向けたメッセージをお願いします。
何代にも渡って事業承継した企業は、伝統産業と呼ばれます。「伝統とは燃える炎である」という言葉があります。
伝統にこそ、絶えずリニューアルさせるための若い力が必要です。子どもの頃から何となく家業を継ぐと思っていたら、継いでも何も変化しません。「こんな会社は継ぎたくなかった」と思う後継ぎの方が成功します。
事業承継はハードランディングです。あえて会社を壊すくらいじゃないとうまくいきません。僕は日本酒なんて知らなくてよかったです。昔から変に親しんでいたら、炎は燃えなかった気がします。
地方の中小企業が個性を生かし、燃えさかる炎になるような産業構造にしていかないといけません。大企業では無理なことでも、地方の中小企業なら、自分の采配一つでファーストペンギンとして可能性を開けるかもしれない。それこそが経営の醍醐味です。迷っている人には、飛び込めるなら飛び込んだ方がいいと伝えたいです。
(続きは会員登録で読めます)
ツギノジダイに会員登録をすると、記事全文をお読みいただけます。
おすすめ記事をまとめたメールマガジンも受信できます。
おすすめのニュース、取材余話、イベントの優先案内など「ツギノジダイ」を一層お楽しみいただける情報を定期的に配信しています。メルマガを購読したい方は、会員登録をお願いいたします。
朝日インタラクティブが運営する「ツギノジダイ」は、中小企業の経営者や後継者、後を継ごうか迷っている人たちに寄り添うメディアです。さまざまな事業承継の選択肢や必要な基礎知識を紹介します。
さらに会社を継いだ経営者のインタビューや売り上げアップ、経営改革に役立つ事例など、次の時代を勝ち抜くヒントをお届けします。企業が今ある理由は、顧客に選ばれて続けてきたからです。刻々と変化する経営環境に柔軟に対応し、それぞれの強みを生かせば、さらに成長できます。
ツギノジダイは後継者不足という社会課題の解決に向けて、みなさまと一緒に考えていきます。