そう心の中でボヤいたのは、11年前にボストン郊外に家を買った時のことでした。アメリカで不動産売買のクロージング(取引の完了手続き)と言えば、多くの人がローンなどの大量な書類を思い浮かべるでしょう。署名には、全米どの州でも公証人の立ち合いが法律で義務付けられています。関係者全員が肩を寄せ合って、分厚い書類を一緒にめくりながら署名していくのです。
印鑑こそ使わないものの、関係者が直接会って紙ベースの手続きを進めるため、時間もかかります。この点は、日本のハンコ文化と変わりません。証人として特別な資格を持つプロを取引の場に同席させ、正統性を裏付ける「公証」は、アメリカでは植民地時代から根強く続いてきた手続きなのです。
ですが、いま全米各地で、この手続きのバーチャル化が急速に進んでいます。公証人が「3密」環境を避けてサービスを提供できるよう、多くの州がビデオ会議形式の「リモート公証」を合法化し始めています。
不動産取引など重要な書類をつくるとき、アメリカには印鑑証明という制度はありません。その代わりに、米国公証人協会によると、各州から任命された公証人「ノータリー・パブリック(Notary Public)」が、サインした人の身元と、脅迫といった状況でないことを確認します。日本の公証人とは違い、公正証書は作成できません。文書の認証(Notarization)のみを行うことができます。
リモート公証は2012年にバージニア州議会が承認して以来、全米で徐々に採択されてきました。リモート公証の推進派がデジタル処理の利便性や書類ミスの防止効果を強調する一方、従来の公証ビジネスの仕事を奪い、詐欺やハッキングを招くと懸念する声もあり、容易には浸透してきませんでした。
ところが新型コロナウィルスによる感染が拡大するにつれ、緊急法案や州知事命令などの手立てを用いて臨時的に合法化する州が続出。リモート公証が承認されている州の数は、2019年12月末時点の22州(うち、この時点で効力を発揮していたのは19州。情報源:米国土地所有権協会)から5月8日時点の47州(情報源:州務長官協会)へと急増しました。
「(リモート公証の)プラットフォームのプロバイダーは、利用希望者からの問い合わせ殺到で大忙しですよ」と語るのは、米国公証人協会で政府関係業務担当のバイスプレジデントを務めるビル・アンダーソン氏です。というのも、公証サービスは不動産取引だけに使われるものではありません。
州によって法律が異なるものの、遺言書や医療委任状の作成をはじめ、生前信託の設定など多種多様な手続きに公証が必要とされます。コロナ禍で安全な環境を実現できずに公証が困難となり、様々な手続きが滞ったという報道もありました。3月から4月にかけてのひと月で「かなり深刻な問題に発展した」とアンダーソン氏は話します。
リモート公証の具体的な手続きの進め方
リモート公証では、サービスを提供している会社に登録している公証人が、プラットフォームに組み込まれているビデオ会議機能を用いて取引の当事者と画面上で対面します。公証プロセスの重要なポイントである身元確認に、いろいろな工夫が凝らされているのが特徴です。
人気プラットフォームのひとつである「ノータライズ」は、利用者にソーシャルセキュリティーナンバー(社会保障番号)の下4桁を打ち込ませたうえで、さらに過去の住所や以前所有していた車のモデルなど、個人データを基にした質問を5つワンセットで投げかけます。2分以内に回答し、4つ以上の正解がないと、新たなワンセットに挑戦することになり、再度失敗するとロックアウトされてしまいます。続いて、アップロードした身分証明書の写真がソフトウェアによって分析され、本物であることが確認されると晴れて他の参加者と対面できる仕組みとなっています。
また、公証人の立ち合いはリモートで行えても、署名自体はあくまでも紙とペンの利用が必要とされる州もあります。米国公証人協会によると、そうした法律の下ではzoomやマイクロソフトのTeamsといったビデオ会議用のアプリが使われることが多く、当事者が署名しているところを公証人が画面上で確認し、サインされた書類の写しがファックスやメールで公証人に送られるという流れが一般的だといいます。
マサチューセッツ州は「インク署名」の州の一つですが、このほかにも、リモート公証の際に当事者と公証人の双方が物理的に州内にいること、そして当事者は公証人に画面上で身分証明書を展示し、更にその裏表の複写コピーをメールなどの方法で送ることなど、細かい規則が定められています。
書類は専用アプリからアップロードし、スマホ上でも簡単に編集・書き込みができます。同じ情報を複数の空欄に一度に流し込んだり、クリックするごとにデジタル署名が記入されていくなど、プラットフォームによって様々な機能が用意されています。重要な書類にこんなに簡単に署名できてしまって良いのかと思わないわけでもありません。
しかし、「デジタル署名はキャッシュカードの暗証番号を端末に入力するのと変わらない」とアンダーソン氏は説明しています。暗証番号を入力するということは、購入その他の目的に自分の同意を表明する行為であり、事実上の「署名」なのだと言います。
不動産取引のクロージングでは、書類が100ページ以上にも及ぶこともあります。アンダーソン氏は、こうした大量のペーパーワークでのミスを防止し公証人の負担を軽減するという意味でも、自動記入を可能にするリモート公証は有効だと語ります。
アフターコロナでリモート公証の定着は未知数
一方、リモート公証の人気が増すにつれ、プラットフォームを提供する会社への投資も活発になっています。先に述べた「ノータライズ」はボストンを拠点とするベンチャー企業ですが、地元のオンラインビジネス誌である「ボスティノ(BostInno)」の報道によると、4月に3,880万ドルのシリーズB投資ラウンドで2,570万ドルのエクイティー資金を調達したといいます。
ですが、今後こうした需要増加が継続するという保証はありません。最近リモート公証を合法化した州の多くは、これをコロナ禍への緊急対策の一環として臨時的に認めているだけです。シリコンバレーのあるカリフォルニア州では、現在でもリモート公証は認められていません。社会が新しいもの受け入れ、それが定着するには時間がかかるというのが、アンダーソン氏の見解です。果たして、リモート公証が全米でニューノーマル(新しい常識)になるのでしょうか。
「結果がどう出るか、見どころです」
アンダーソン氏は期待感を込めてそう語りました。
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