造船古材がアンティークに 人材獲得も見据えた創業家部長と妻の新規事業
愛媛県今治市の造船会社が地元企業などと協力し、焼却処分していた足場板をアンティーク家具に再生しました。環境保護の姿勢を打ち出して「3K」のイメージを少しでも変えることで、人材獲得にもつなげようとしています。企画を進めたのは、家業に戻った元記者の夫と、ファッション誌編集者の妻でした。
愛媛県今治市の造船会社が地元企業などと協力し、焼却処分していた足場板をアンティーク家具に再生しました。環境保護の姿勢を打ち出して「3K」のイメージを少しでも変えることで、人材獲得にもつなげようとしています。企画を進めたのは、家業に戻った元記者の夫と、ファッション誌編集者の妻でした。
造船の高所作業に必要な足場板を再生した家具は「瀬戸内造船家具」と名付けられました。商品はダイニングテーブルや、学習机、棚、ビンテージミラーなどで、価格帯は1万円台から20万円近いものまで様々です。作業に使われた国産杉を原料に、あえて無塗装にしたり、塗装作業でついたペンキを残したりして、リアルなビンテージ感を漂わせています。
今治市の浅川造船が足場板を無償提供し、家具の設計・製造・販売は松山市の真聖建設が担当しました。浅川造船は1947年創業で、ケミカルタンカーの製造を手がけてきました。そんな造船の町・今治を代表する企業が、なぜ一般消費者向けの家具製作に協力したのでしょうか。担当者で同社の東予製造部部長の村上賢司さん(37)は、コスト削減と世界的な持続可能な開発目標(SDGs)の流れを挙げます。
「今までは工場内の焼却炉で足場板などを処分するのに、年間2000万円のコストがかかっていました。しかし、造船業は温暖化防止や環境保護に向け、窒素酸化物や硫黄酸化物の排出を減らす仕組み作りが世界的に進んでいます。環境問題に取り組む造船所だからこそ、ごみ問題を放置できないというのが、瀬戸内造船家具誕生のきっかけでした」
賢司さんの妻の亜耶さん(38)も、プロジェクトのエディターとして関わっています。「経年変化で生まれた古材のリアルな風合いが、家具に出ているのが特徴です。古材をほしい人はたくさんいても、市場には流通しておらず、届ける手段がありませんでした。でも、浅川造船の工場には、ほしかった古材が山のようにあって驚きました」
高所作業で使われる造船現場の足場板は、通常のものより厚い50ミリの太さがあります。木は一度洗って乾燥し、職人が古材の風合いを損なわないよう、微妙な調整を加えながらかんなをかけて、丁寧に家具を作り上げていきました。6月下旬からネットなどで販売が始まり、オーダーメイド家具を中心に、注文が入っています。
単なる足場板のリサイクルではなく、価値ある家具に生まれ変わらせるアイデアは、賢司さんと亜耶さんがマスコミで歩んできた異色のキャリアとつながっています。どんな経験が生かされたのでしょうか。
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浅川造船は、賢司さんの曽祖父らが1947年に創業し、祖父や父も働いていた「家業」です。長男の賢司さんは法政大学文学部に進学し、学内のマスコミ志望者が集まる自主講座で、記者の仕事に興味を持ちました。「自分が考えた企画が署名入りで週刊誌にも載ったことで、面白さを感じました。実家からは、しょっちゅう帰ってこいと言われましたが、当時は戻るつもりはありませんでした」。大学卒業後、フリー記者として、女性週刊誌を中心に芸能、社会、スポーツなどの取材を手がけ、充実していました。
長野県出身の亜耶さんは、同じ法政大学のマスコミ講座で、賢司さんと知り合い、交際をスタートしました。卒業から1年後、高校時代からのあこがれだった宝島社に入社。雑誌「steady.」の編集者として、ファッションやビューティーを担当しました。「仕事の中で、撮影現場で使う古道具を借りに行くのが一番好きでした。いつかアンティークの仕事に関われたらいいなと、漠然と思っていました」
東京のマスコミで活躍していた2人でしたが、10年前に人生の大きな転機を迎えました。賢司さんの父が脳梗塞で倒れたのです。
賢司さんは家業に入る決意をしました。「東京に10年いて、ある程度色々な記事も書けました。大学に入って好きな仕事をするために東京にいられたのも、浅川造船という会社があったからです。恩返しと言えばおこがましいけど、何とかしたいという気持ちが芽生えました」
亜耶さんは結婚して、縁もゆかりもなかった今治に行く決心をしました。「夫は交際中、家業に戻るつもりはないと言っていましたが、親をすごい大事にしているから、いつか帰ることになるだろうと心の中で思っていました。決断したのはこの人だから、私はついて行こうと決めました」。2010年に結婚し、翌年に2人で移住しました。
亜耶さんは嫁いで会社を辞めると告げると、周囲からは「あなたは、なんて昭和気質なの」という反応もあったそうです。でも、亜耶さんは夢をあきらめたわけではありませんでした。「迷いも葛藤もありましたが、周囲でもフリーランスで編集の仕事をしている方は多く、愛媛でも仕事はできるという展望はありました。今も出版社の仕事を請け負っていますし、周りにも地方や海外に住んでいる編集者は増えています」
賢司さんは現場に配属され、船や機器の名前を一から勉強しました。このとき、記者経験が生きました。「人とのコミュニケーションを取るのが仕事だったので、新しい人と知らないジャンルの話をするのに、苦手意識はありませんでした。分からないことは、『教えてください』と言って仕事を覚えました」
結婚生活を始めた2人には、ビンテージ好きという共通点がありました。浅川造船の足場板を近くの家具屋さんに持っていき、テーブルやテレビ台を作りました。東京から友人が遊びに来ると、「この木材はどこで買えるの?」と言われ、口コミで広がっていきました。これが、瀬戸内造船家具の原点になりました。
亜耶さんは編集経験を生かし、地元出版社と、ローカルで暮らす豊かさを追求した女性ライフスタイル誌「エノン」を立ち上げました。その縁で真聖建設が運営するインテリア雑貨店「ConTenna」とつながり、瀬戸内造船家具の誕生につながりました。
賢司さんは、記者時代から付き合いがあった東京のPR会社・オズマピーアールにプロジェクトの企画や情報発信を依頼しました。その成果もあり、地元メディアに取り上げられ、経済紙やテレビ局からの取材オファーも入っているといいます。
瀬戸内造船家具が、浅川造船の事業の柱になるわけではありません。しかし、企業として大きなメリットがあると賢司さんは言います。「就職活動に臨む学生から、環境への取り組みについて聞かれるケースが増えてきました。今治市は造船の町ですが、今治造船や新来島どっくという造船大手の就職希望者も多く、地元の大学生は就職で県外に流れる傾向もあり、簡単に人材が獲得できる状況ではありません。環境保護に前向きな姿勢を見せることで、先々の人材確保につながればという思いがあります」
浅川造船は創業から70年を超えましたが、賢司さんはさらに先を見据えています。「100年企業にするために、SDGsやCSRは大切なテーマです。経験や人脈を生かせたらと思っていましたが、瀬戸内造船家具を形にできたことで、異業種から家業に入った私の存在意義を出せたかなと思っています。造船業はいまだに3Kのイメージが強いですが、柔軟な取り組みをしている会社だと広めていきたいです」と話しています。
異分野で培った経験、そして妻と作り上げたアイデアが、企業価値を高め、家業への恩返しにつながっています。
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