税理士が伝えた赤字「1億5千万円」

 やまとは、小林さんの祖父が鮮魚店として大正元年に創業し、その後スーパーに転じました。小林さんは幼いときから「おまえは跡を取るんだ」と言われ、店を継ぐこと以外に選択肢も迷いもなかったといいます。

 大学卒業後は他のスーパーに1年勤めたのち、やまとに入りました。明るい未来が暗転したのは小林さんが専務だった2001年。顧問税理士に2000年度の決算が1億5千万円の赤字と告げられたときでした。

 当時、やまとの収支管理はどんぶり勘定のようなものでした。就業規則や残業手当などもなく、多店舗展開する企業の体をなしていませんでした。競合店の出店で売り上げが悪化し、銀行からの借り入れはいっぱい。当時社長だった叔父は経営の悪化に気がついていなかったといいます。

倒産が報道された日のやまとの店舗。須玉店には閉店を確かめに来る人が絶えなかった(2017年12月7日、山梨県北杜市)
倒産が報道された日のやまとの店舗。須玉店には閉店を確かめに来る人が絶えなかった(2017年12月7日、山梨県北杜市)

 「店が潰れてしまう……」。やまとは昔からの「番頭」社員が経営を握っていて、小林さんは専務でしたが店の現場に忙しく、経営について何も知りませんでした。漫画で決算書の読み方を勉強し、銀行員の友人や税理士から助言を受けました。専門家の助言を聞こうとしない叔父の社長は、説得して会長に退いてもらいました。

コストカット、創業本店の閉店も

 38歳で社長に就任。立て直しの柱は①利益率のアップ、②無駄の削減、③身内社員の一掃でした。当時、売り上げを上げるために卵1パック10円といった無理な安売りをしていましたが、質のいいものを適正な値段で並べるようにすると、売り上げは減っても利益が増えました。「やまとは高くなった」と客離れもありましたが、一時的なものだったといいます。

 コストカットはあらゆることに手をつけました。チラシは自社製作に変え、新聞折り込みの地域も絞りました。仕入れ先を見直して、昔からの問屋を、より安い問屋に変えました。家賃、電気代、アルバイトの支出だけでなく、きわめつけは創業本店の閉店。赤字の店を維持する余裕はありませんでした。

 売り上げや商品を懐に入れていた身内の社員たちを2年かけて辞めさせました。親族社員がいなくなったことで、それまで目立たなかった社員が活躍するようになります。

 赤字は、小林さんの社長就任から2年で黒字に転換しました。

「買い物難民を出さない」居抜きで拡大

 その後、小林さんは店舗数を増やします。つぶれた他のスーパーの建物にそのまま入る「居抜き」です。

 2012年、やまとは最多の16店舗を展開しましたが、そのうち10店舗が居抜きの店でした。

 しかし、同業者が撤退した地域で大きな売り上げが出るはずがありません。それでも小林さんが出店攻勢を続けたのは、小林さんの信条でもある「地域貢献」でした。

社長の時には山梨県の教育委員長も務め、県内各地で講演や授業をしていた(小林さん提供)
社長の時には山梨県の教育委員長も務め、県内各地で講演や授業をしていた(小林さん提供)

 小林さんが大学生だった1980年代、創業店舗の駅前に全国展開する大型スーパーが出店しました。その時、やまとも苦しみましたが生き残り、20年後に大型スーパーが撤退しました。

 「地域に守ってもらってやまとは残った」。この経験から、小林さんは「地域に尽くす」と心に決めました。大きな利益の見込めないエリアの居抜き店舗も、スーパーがなくなると困る地元住民のためが大きかったのです。

 小林さんは次々に行動します。シャッター商店街に出店したり、過疎地域に移動販売車を走らせたり。店先で家庭の生ゴミをポイント還元で集め、堆肥にする取り組みは全国から注目されました。

 「やまとは変わった。地域のためにがんばっている」。やまとのイメージが上がっていきました。

地域の人口減少、再びの赤字

 2008年6月期には売上高64億円に成長したやまとにも、再び陰りがきます。全国チェーンのコンビニやドラッグストア、店舗を広げる県内競合スーパー、安売りのディスカウントショップの出店が増え、客を取られました。居抜きで入った店舗も、引き継いだ設備が古くなり費用がかさむように。加えて地方の人口減少で、地域そのものが衰退していました。徐々に売り上げが減り、再び赤字に。2014年6月期の売上高は約48億円に縮小し、債務超過に陥りました。

 小林さんは再び赤字になっている店舗の閉店を決めます。住民が買い物難民にならない地域の店舗を選びました。赤字は徐々に改善。銀行とは返済計画を綿密に話し合い、問題なく進んでいるように思われました。

講演する小林久さん(2020年7月1日、東京都新宿区)

 しかし、やまとの経営が思わしくないと知った問屋たちが態度を硬化させます。問屋は店舗を閉鎖するごとに取引を縮小。仕入れれば売れるはずの商品が入らないばかりか、支払いの取り立てや急な呼び出し、資金繰りの状況を確認する連絡………。これは倒産するまで3年以上続きました。

「つぶれる」止まった商品の納入

 2017年の年末のかき入れ時を前に、経営状態は改善し、黒字に戻っていました。しかし、問屋や様々な商品の卸し先に「やまとが潰れる」という話が広がったようでした。12月6日、急に商品の納入が止まりました。

 主要な取引先の社長たちが本社を訪れ、「やまとが年末年始に倒産すると、連鎖倒産が出る。決断するなら今だ」と言われました。小林さんは営業停止を決めざるを得ませんでした。取引先や銀行に対する負債総額は16億6900万円。105年の店を倒産させることになるなど、この日まで思いもよりませんでした。

倒産の当事者だから話せる

 それでも、地域に尽くしてきた小林さんの姿勢は響いていたようでした。住民や一部の取引先から、これまでの感謝や激励の言葉が寄せられました。破産手続きの費用はカンパでまかなうことができました。その年のうちに180人の従業員の再就職先もほぼ決まりました。

 小林さんは今、全国各地を回って失敗談を語っています。倒産までの経緯をつづった著書の出版をきっかけに、声がかかるようになりました。

小林久さんが会った人に配っている自分の似顔絵入りのシール
小林久さんが会った人に配っている自分の似顔絵入りのシール

 自分の似顔絵を印刷した金色のシールを名刺代わりに配り、いつも冗談を飛ばす明るい性格。倒産・自己破産という深刻なテーマを扱いながらも、講演は笑いが絶えません。2020年9月には最初の著書を加筆編集した「続・こうして店は潰れた」も刊行しました。

 倒産の経緯を詳細に書き起こしても、自分と同じような境遇にある経営者に「こうすれば大丈夫」とは言えません。「倒産はローカルスーパーのやまとの運命だった。がんばっていても、地方の中小企業が昔からの形で生き残るのは難しい」と振り返ります。

 自分がやれることは、ただ自分にあったことをそのまま伝えることだと思っています。「コンサルじゃない、倒産の当事者だからこそ意味がある。店を潰しておいて、何をえらそうにって自分でも思うけどね」

 資金のやりくりや倒産後の対応についての相談は絶えませんが、一つひとつ丁寧に答えています。「自分がこうやって生きている。やれるところまでがんばろう」。コロナ禍で苦しむ経営者には「じたばたして弱音を吐いて助けを求めよう。ダメなら胸張って終わりにしよう」と伝えたい。変わらぬ明るさで、経営者を励まし続けています。