赤字の酒蔵「このままでは持たない」 6代目が絶えず進めた商品改革
山形県酒田市の楯の川酒造は、1832(天保3)年創業の酒蔵です。6代目の佐藤淳平さん(42)は、父の急逝によって大学生で社長になり、赤字だった家業の立て直しに奔走しました。日本酒全量を純米大吟醸にしたり、リキュールを手掛けたりして、絶えず商品改革を進め、新たなファンを獲得しました。
山形県酒田市の楯の川酒造は、1832(天保3)年創業の酒蔵です。6代目の佐藤淳平さん(42)は、父の急逝によって大学生で社長になり、赤字だった家業の立て直しに奔走しました。日本酒全量を純米大吟醸にしたり、リキュールを手掛けたりして、絶えず商品改革を進め、新たなファンを獲得しました。
ーー子供の頃、家業や後継ぎという立場に、どんな思いを抱いていましたか。
普通のサラリーマン家庭とは違うなとは思っていました。小学5、6年生までは南部杜氏が来ていて、食卓に知らないおじさんがいましたから。
長男でしたが、特に「家を継げ」と言われたことはありません。ただ、手伝いには駆り出されていました。夜や朝に麹室(こうじむろ)の中で、怒られながら米をほぐす作業を行いました。「何で手伝っているのに怒られなきゃいけないんだ」と思いながら(笑)。冬になると酒造りが始まるので、毎年嫌でしたね。
ーー大学は東京農業大学の醸造学科(現・醸造科学科)に進みました。家業を継ぐことを意識したからでしょうか。
高校まで野球に熱中していたので、ほとんど勉強はしていませんでした。東京農大には、酒蔵や焼酎、みそ・しょうゆといった醸造業の後継者に推薦枠があったので、進学しました。家を継ぐことに特に抵抗はなかったです。ただ、漠然と海外で働きたいという気持ちもありました。
ーー大学3年生で社長に就任しました。
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先代の父が亡くなり、名前だけ社長になりましたが、 実際は、専務の母親が社員2人、パート従業員1人と一緒に会社を仕切っていました。学生生活に変化は全くありませんでした。とはいえ、名前だけでも社長になったことで、海外に行くという発想はなくなりました。
ーー2001年の大学卒業後、すぐに実家には戻らず、社長職を背負いながら、神奈川県内の酒問屋で半年間修業しました。
後を継ぐなら流通を知った方がよいとアドバイスされたこともあり、ビールや洋酒がメインの問屋に籍を置かせてもらいました。神奈川や東京の小売店さんを営業で回りましたが、全く売れなくて・・・。日本酒が置かれている状況を思い知らされました。
本当は2年ぐらいお世話になるつもりでしたが、会社の状況が良くなかったので、それより早く戻ることにしました。このままでは、会社が持たないと考え、早めに戻った方が後々余計な苦労をしなくて済むだろうとの判断です。自分の手で、実家の日本酒を売りたいという思いもありました。
ーー当時の経営は、どのような状況だったのでしょうか。
当時は、売り上げが3千万円だったのに、借り入れは3億円くらいでした。大量の在庫を抱え、お酒を新しく造らなくてもいい年が2年くらいあったほどです。
さらに、楯の川酒造本体とは別に、祖父の代からビールの問屋や地ビールの会社も営んでおり、それぞれ毎年数千万円単位で赤字を出していました。早急にバケツの穴を塞ぐ必要があり、この二つの会社を整理しました。最初は八方塞がりで、資金が回らないので、佐藤家の資産を切り売りしました。
ーー事業を整理しつつ、本業である日本酒に力を入れたということですね。
まずは不良在庫の解消に努めました。元々、問屋を通じて地元にしか売っていませんでしたが、首都圏にも出すようになりました。僕が帰った年には、売り上げが前年の3700万円から4400万円になり、黒字転換できました。
ーーこのタイミングで、主力銘柄の名前を「楯の川」から「楯野川」に変えました。狙いは何だったのでしょうか。
元々は、漢字3文字の「楯野川」が創業当時の名前でした。蔵の中で調べ物をしていて偶然知りました。「楯野川」に戻すか、全く違うブランドにするか悩みましたが、一から再出発しようと、創業時の名前に改め、書体も一新しました。
ーー楯の川酒造では、日本酒だけでなく、焼酎なども積極的に展開し始めるようになります。
当時、焼酎ブームが来ていたことが理由です。契約栽培で取れる規格外の米や、自家精米で生じる米の表層部分、酒かすといった副産物を利用できるという目算がありました。
しかし、焼酎はほとんど売れませんでした。そもそもブームだったのは、芋焼酎で、粕取り焼酎(酒かすを原料に造られる焼酎)のニーズはあまりなかったのです。
そこで、05年ぐらいに、焼酎のほとんどを梅酒に転換します。焼酎ブームが終わりそうなタイミングで、梅酒から始まったリキュール果実酒のブームがちらほらと出ていました。
梅酒メーカーとしては後発でしたが、これが売れたので、山形の名産であるラ・フランスや、ヤマブドウのリキュールを展開しました。一番ヒットしたのはヨーグルトのお酒です。その結果、07年にはリキュールで約2億円を売り上げ、日本酒の倍ぐらいになってしまいました。
ーー10年ほど前、日本酒を全て純米大吟醸にすることを決めました。その理由は何だったのでしょうか。
リキュールの売り上げが日本酒の倍ぐらいになり、これではまずいなと思い、もう一度、(祖業の)日本酒に力を入れようと思いました。それまでは、より安価な本醸造や純米酒など、レンジを広くアイテムを作っていましたが、より楯野川のカラーを打ち出そうと考えました。
最初は全量を純米酒にする方向で進めましたが、それでは中途半端で面白くなく、とがってもいません。一段上の純米吟醸と純米大吟醸にしようと思いましたが、ニューヨーク出張で担当社員と話した時、それでもぼやけるから、もっとも高級な純米大吟醸のみにしようと決めました。当時は、全量を純米大吟醸にしている酒蔵はあまり見当たらなかったので、背水の陣でした。
失敗はあまり考えていませんでした。純米大吟醸といっても、晩酌で飲めないような高いお酒しか造らないというわけではありませんので。
ーー20年に、 世界を代表する酒蔵を目指すための「TATENOKAWA100年ビジョン」を公開しました。どのような経緯で生まれたのでしょうか。
「TATENOKAWA100年ビジョン」とは、次のようなものです。
10年前、純米大吟醸にシフトした翌年、ヨーグルトのリキュールの製造工程で、砂糖を入れ忘れる事故があったのがきっかけでした。若手社員のミスでしたが、その後のチェック機能もなかったため、そのまま流通させてしまいました。体に害はありませんでしたが、そのミスをきっかけに、製造メンバー8人のうち5人が退職し、アルバイトの3人だけになってしまいました。
この時、組織運営に関する僕の考え方は、180度変わったのです。
※後編では、佐藤さんが手掛けた組織変革の中身や、同業他社の事業承継、ワインやウイスキーへの挑戦などに迫ります。
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