「江戸時代みたい」家業に戻ったときに思わず……

 「江戸時代みたいな会社」――2000年に家業の靴下製造会社に入社したとき、思わずそう口にしてしまったという西村さん。「当時社長だった母にいまでも叱られるんです」と苦笑します。

 しかし、海外留学を経験し、コンサル会社や大手IT企業などを一通り見て戻った後継ぎ娘の目に、家業や業界の体質が「古い」と映ったことは間違いありません。

初代西村信次郎氏(左)と旧工場

 実際に歴史も古く、120年近く前に母方の曽祖父、西村信次郎氏が東京・文京区で興した靴下工場「西村商店」(後に「西村靴下工業」へ改組)がアイ・コーポレーションの原点です。

 当時の靴下は、手回しの機械で一足一足ていねいに編み上げる貴重品でした。「職人の腕と経験に頼るところが大きく、業界の雰囲気は良くも悪くも“職人気質”。私が入った頃も、それがまだ普通に残っていました」と、西村さんは振り返ります。

 高度成長期には岩手県内に子会社を新設し、パンティストッキングの製造にも進出。その東北工場を一から立ち上げたのが、工場長だった西村さんの父です。

西村さんの父が岩手県内に立ち上げた工場。昭和50年代の作業風景

 自然豊かな岩手の地で三人姉妹の次女に生まれた西村さんは、どうしても男の子が欲しかった父に“息子”として育てられました。物心がついた時の誕生日プレゼントは何とバットとグローブだったとか。しかし、そんな父が42歳の若さで急逝。西村さんが中学に上がったばかりの春でした。

承継への思いを決定づけた母の涙

 「うちは女系家族で、二代目の祖父も父も婿養子。祖父は後継ぎとして父にとても期待していただけに、亡くなったときはもう会社をやめると言い出すほど落胆したそうです」

 失意の祖父に、信頼できる番頭をつけてくれるなら後を継いでもいいと申し出たのは実の娘。つまり、西村さんの母、静枝さんでした。専業主婦の経験しかなく、工場のこともほとんどわかりません。

 それでも母は、当時まだ社長を務めていた祖父に事業を学び、50歳で社長に就任。岩手と東京の本社を行き来しながら、亡き父がつくった工場を必死で切り盛りしました。西村さんの脳裏には、この頃の思い出が強く刻まれています。

西村京実さん(右)と母の静枝さん

 「厳しかった母が会社に入ってしばらく、毎晩家で泣いていました。子ども心にも、つらいんだろうなと。その姿を見て、将来は家業を手伝おうと思うようになったんです」

 1998年には本社と東北の子会社が合併し「ウエスト」に商号変更。その2年後に先述のキャリアを経て入社した西村さんは、早くも研修の段階から、かつて母が流した涙の意味を知ることになります。

 職人の世界は思った以上に厳しく、実際に作業を経験しながら各工程を学ぼうとした西村さんを、一部では邪魔者扱いする空気さえありました。

 「旧態依然とした雰囲気が衝撃で、つい『江戸時代みたい』なんていってしまったんです。どう見ても問題が山積していましたから。ただ、問題を指摘できても、解決できるわけじゃない。当時の私は本当に口だけで、母と衝突してばかりでした」

いいものを作るだけの限界に直面

 大手靴下メーカーの下請けとして長く製造を続けてきたウエストにとって、当時、最大の懸案は中国の業者との厳しい価格競争でした。

 取引先は「いいものをとにかく安く」の一点張り。いいものを作るのはもはや当然で、それだけでは勝ち目がなかったのです。そこで、西村さんがまず手がけたのは、下請けからの脱却を図るために企画担当者とデザイナーを雇い、「自ら提案できる工場」をアピールすることでした。

 しかし、そんな試みも、現場を仕切る職人には「お嬢の道楽」としか映りません。「言われたものを言われた以上のクオリティで仕上げるのが職人の誇りで、それがどれだけ安く買い叩かれているかは問題ではなかった」からです。そして、決定的な出来事が――。

 中国へ工場視察に行った母が現地の勢いに圧倒され、帰ってくるなり工場を閉鎖すると宣言したのです。ずらりと並ぶ最新の機械に、月給7000円という激安の人件費。「勝てっこない」は母の偽らざる実感だったのでしょう。

工場閉鎖のつらい記憶を忘れない

 着手したばかりの改革に未練はあったものの、「やめるならお金があるうちに。従業員にきちんと退職金を支払わないと」という母の経営者としての意志には逆らえません。未熟は百も承知で、西村さんは自ら工場閉鎖の陣頭に立ちました。

 「工場には父との思い出があり、長年苦楽を共にした職人も大勢いたので、母は行くたびに泣いてしまうんですよ。じゃあ、しがらみのない私の方がやれるのでは、と。甘かった。想像を絶する戦いでした」と振り返る西村さん。

 全員解雇を告げられた従業員の不安が現場中に広がり、渦巻いているのが工場に一歩足を踏み入れただけでわかったといいます。

 「一番の後悔は、すでに受注していた商品の生産を『最後まできちんと納めなくては』と、私の勝手な正義感で無理に進めてしまったことです。仲間の工場に頼ればよかった。従業員にしてみれば、先々の不安で仕事など手につきませんからね。従業員に申し訳ないことをしました」

 上がってくるのは、はたして不良品ばかり。何とか納め切ったものの、内外に多大な迷惑をかけてしまいました。工場閉鎖という修羅場を潜り抜けた記憶とともに、父の工場を支え続けてくれた従業員に対する自責の念が、西村さんの心から消えることはありません。

“私”を軸にしたブランドづくり

 「靴下づくりの未来は厳しい」という母の判断で、工場閉鎖後は家業そのものからも徐々に撤退する予定でしたが、西村さんは程なくして再起を図ります。

 猛反対する母を説得、製造以外の靴下事業を販売子会社のアイ・コーポレーションへすべて移管した上で、2009年に同社代表に就任しました。若い頃に訪れたヨーロッパで、スーツ姿の男性の美しい足もとに魅了されて以来の夢だった高級靴下ブランドを立ち上げるためです。

 「既存の市場に挑んでも勝ち目はないので、まだ世の中にないけれど、あれば欲しいと思われるものを探り、商品化しようと考えました。3足1000円の商品でいいという需要ばかりではなく、ラグジュアリーブランドがニットに使うような贅沢な糸で靴下を編めば食指が動く層もいるはずだと。なぜなら、私が欲しいから。少なくともここに一人、確かな需要があるからです」

 西村さんは事業の再開にあたり、自分が理解・共感できることしかしないと決めました。「おままごと経営」と揶揄する向きもありましたが、商品のペルソナ(顧客像)を“私”に設定したのも、自分と同じような価値観を持つ女性が共感できるブランドならば自分にもつくれるし、経営の軸がブレないと考えたからです。

勝負靴下として選ぶリピーターも

 そうして生まれたのが、自社ブランドの「idé homme」(イデ・オム)。紳士靴下ですが、ブランド名は“女性から見た理想の男性”の意味で、本物を知る男性への贈り物として、女性にも選ばれることを想定しています。

自社ブランドの「idé homme」(イデ・オム)。贈答用(右)は特製の桐箱入り

 ブランドの顔はカシミア100%の逸品。1キロ3万円もする極上の糸を調達するのも大変でしたが、それを編んでくれる工場を探すのはさらに困難を極めました。

 「何かあったら責任が取れないと断られたり、批判されたり……。旧態依然とした業界で、新しいことに挑戦する難しさを改めて思い知らされました。引き受けてくれた工場には感謝しかありません」

 2019年4月には、東京・銀座のGINZA SIXでブランドのお披露目会を開催。ユナイテッドアローズ創業者で名誉会長の重松理氏をはじめ、メンズファッションビジネスに携わる約100人が集まるなど盛況を博しました。イデ・オムは、重松氏が個人で手がける和と美の専門店『順理庵』でも販売されています。

お披露目会のトークセッションに登壇した元アップル日本法人代表取締役の前刀禎明氏(右から2番目)と、英国イギリス室内管弦楽団国際招聘指揮者(Orchester AfiA芸術監督)の村中大祐氏(左から2番目)

 「『株主総会や経営方針発表会の日に“勝負靴下”として履いている』という経営者の方がいらっしゃいます。ようやく売り上げも安定して右肩上がりになりましたが、そういう声が届くと、数字以上に嬉しいですね。工場はなくても、当社の創業精神である『本当に必要されるものづくり』を、私なりに形にできているのかなと」

「価値を伝えきれていない」考え巡らせる日々

 現在はイデ・オムのほかに、ストッキングの「LISOIR」(リソア)、保温保湿靴下の「かかと工房」と3つのブランドを展開。社長自ら飛び込み営業で販路を開拓する一方、ECにも力を入れています。

 それでもなお、「いいものはできたけれど、その価値を伝えきれていないのがもどかしい」と話す西村さん。自社がそうであっただけに、工場や職人が減り、技術まで失われつつある業界の現状にも危機感を隠しません。

 「工場を閉鎖してから、大手メーカーの人に『おたくは技術があったね』とよく言われるんです。それなら、もっと高く買ってほしかった。アイ・コーポレーションは工場に生産を委託するとき、値切りは一切しません。技術の大切さがわかっていますから」

 日本のものづくりのすごさをより広く、深く知ってもらうにはどうすればいいのか、自分に何ができるのか、考えを巡らせる毎日です。