目次

  1. 酒蔵から地元の名家に
  2. 酒蔵も旧家も無くなる不安
  3. 歴史を無くしてはいけない
  4. 蔵より先に「敷嶋」を復活
  5. 動き出した酒造免許取得
  6. 亀崎での復活にこだわる
  7. 融資を受けて前向きな投資
  8. 委託醸造でファンが支えに
  9. 世界に誇れる日本文化発信の地に

 伊東家が経営していた伊東合資会社は、天明8(1788)年に創業。銘酒「敷嶋」を醸していました。昔は敷地内の船着き場から江戸に酒を出荷し、ピーク時は約8千石(一升瓶で80万本)の年間生産量を誇りました。

大正時代の伊東合資会社の全景図。現在は旧家、旧酒蔵、製造工場を含む約1万平方メートルが残っています

 みそ、しょうゆの製造販売、薬屋、銀行、保険、不動産なども営む名家となり、地元に広大な土地を保有していました。

 しかし、2000年、清酒需要の低下や他事業の不調のため、伊東さんの父親の代で酒造業を廃業し、酒類製造免許も返上。その後は不動産の売却益や、駐車場経営の収入で生計を立てていました。

 伊東さんは子どものときから名古屋市のマンションに住み、「家業や亀崎の実家のことはほとんど知りませんでした。酒蔵を廃業したときは中学生で、生活にも変化がなかったので、どこか人ごとでした」と言います。

 大学卒業後、NTTドコモに就職。東京で働いていましたが、伊東家の長男として実家のことも気になり、6年目で希望して東海支社に異動します。この頃から少しずつ家業のことを周囲に聞くようになりました。

 誰も住んでいない旧家の固定資産税だけで、家は毎年数百万円を払っていたといいます。「このままだと、酒蔵も伊東家の旧家も全部無くなるのでは」と不安を感じました。

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