目次

  1. 中学から実家を離れて修業
  2. 阪神・淡路大震災で廃業寸前に
  3. 弟妹を説得して呼び戻す
  4. 家族だからこそ力を合わせて
  5. 危機を救った「かまどさん」
  6. ヒットにつなげた仕掛け
  7. 陶器の「パーツ販売」に着手
  8. 作り手は真の使い手であれ
  9. 初心に戻ってテコ入れ
  10. 伝統産業で続ける変化

 5世紀前後の発祥とされる伊賀焼の郷・伊賀市には、今も約50軒の窯元があります。長谷園は1832(天保3)年創業。長谷さんは4人きょうだいの長男として生まれ、物心ついたときには「後継ぎ」と自覚していました。

 「長谷の坊ちゃんとして甘やかされて育ったら、ろくな大人にならん」。そんな両親の教育方針で、中学校から実家を離れ、高校からは東京に出されました。

 「トイレ共同、風呂なし4畳半のアパートでの一人暮らしでした。いろいろ大変でしたが、両親に恩返しして家業の役に立ちたいという思いは常にありました」

創業時から昭和40年代まで稼働していた16連房旧登り窯は、国の登録有形文化財です

 長谷さんは子どもの頃から「うちはモノづくりの力はあるけど、世に出す力は弱い」と思っていました。流通を学び、ユーザーの声が直接聞ける仕事に就こうと、大学卒業後の1993年、東京の百貨店に入社。希望を聞かれても「食器売り場」としか書かず、配属を勝ち取ります。

 バイヤーとして全国の陶器の産地を回り、家業を継承するときに力をつけておきたい。そんなプランを描いていましたが、予想より早く、伊賀に戻ることになりました。

 入社2年目の95年、阪神・淡路大震災で家業が大ピンチになったのです。

 当時の長谷園は食器や鍋の製造のほか、建築用タイル事業を手がけていました。一時は会社の売り上げの7割を占め、7代目の父・優磁さんの時には、東京の野球殿堂博物館のタイル壁画なども手がけ、従業員100人以上を抱えるほどでした。

 しかし、阪神・淡路大震災で一転、「重たいタイルは地震に弱い」というイメージが広がりました。施工のキャンセルが相次ぎ、18億円もの借金を抱え、倒産寸前に追い込まれました。

土鍋を中心に製造している工房。日常食器や調理道具の製造と、陶芸品の2部門があります

 震災から2年後、長谷さんが百貨店を辞めて伊賀に戻ると、家業はどん底でした。「倉庫は在庫の山で、考えていた以上に深刻でした。スーツケースに食器を詰め込み、全国の販売店に営業をかけましたが、知名度のない伊賀焼は、門前払いでした」

 長谷さんは「まず、伊賀焼のネームバリューをあげたい」と考えました。

 「うちの職人たちは技術が高く、良いものをつくっている自信はありました。しかし、伊賀焼の知名度が低いために、信楽焼や清水焼の下請けに甘んじていたのです。私は自然に囲まれた伊賀のロケーションは大きな財産と気づき、全国から人が集う焼き物の郷にしたいと考えました」

長谷さんは東京から戻り、伊賀の豊かな自然の良さを再確認したといいます

 当時の長谷園は、企画を立てたり、情報発信をしたりする人材はほとんどいませんでした。長谷さんは「多少の無理を言えて、信頼できる人材が欲しい」と、弟と妹を呼び戻すことにしました。

 それぞれ県外で違う業種に就いていたため、最初は断られましたが、家業の危機を伝え、1人ずつ説得。「最後は長男の言うことをみんな聞いてくれました」。3人の弟妹には、キャリアを生かした仕事を任せました。

 長女・章代さんは、美術系の学校を出て百貨店で商品開発をしていたため、パンフレットの作成や企画を担いました。コンピューター関係の学校を出ていた次男・啓史さんは、ホームページづくりや生産管理を担当。無印良品に勤めていた末っ子の伊佐子さんは、店舗の経営やディスプレーを手がけました。

 当時はホームページやネット通販、リーフレットなど、今では当たり前の販促ツールが何もなく、必死で整えました。 

 「きょうだい4人で仕事をするのは難しいのでは」。長谷さんはよく聞かれますが、「それは逆です」と言います。

 「家族だからこそ、大変なことも力を合わせて頑張れました。自分の家のことなので、それが当たり前なんです。それぞれ専門分野が違うので互いに口出しせず、任せているのもうまくいっている理由だと思います」

 長谷さんは父と、会社を復活させる商品の開発に着手しました。

 「ただモノをつくって売るのではなく、楽しさやおいしさ、経験を伝えたい」。子どもの頃から食べていた土鍋で炊いたご飯のおいしさや、家族で食卓を囲んだ幸せな空気感を伝えられれば、多くの人が土鍋を使ってくれると考えました。

2000年発売の「かまどさん」(長谷園提供)

 土鍋を使ってもらうためには、火加減の手間や、炊き方の難易度を解消する必要がありました。試作を重ねること4年。千個以上を試した末、2000年に「かまどさん」の発売にこぎつけました。

 伊賀焼に使われる古琵琶湖地層の土は細かな気孔が多く、熱を蓄えることに優れています。「かまどさん」は、通常の鍋と比べて倍以上となる1センチ以上の厚みにすることで、よりじっくり熱が伝わる構造にして、火加減調整の手間を減らしました。

 さらに、二重蓋にして、穴のあいた中蓋を入れることで圧力鍋のような状態をつくり、吹きこぼれを防止。手軽においしいご飯が炊ける土鍋になったのです。

 「妻や妹たちも一緒に開発していたので、女性の目線が入ってきたのはよかった。土鍋で何度もご飯を炊いてくれて、機能的な面だけでなく、手入れのしやすさ、収納のことなど、我々では気づかない部分を指摘してもらえました。家族や従業員みんなで、『同じ鍋の飯』を食べ続けて結束力も高まりました」

 「かまどさん」は大ヒットして、長谷園を倒産の危機から救いました。累計販売数は、発売21年で100万個を突破。倒産寸前のころは3億円まで落ち込んだ売上高も、今は6億円程度まで回復しました。

 そんな「かまどさん」も、発売後は苦戦しました。日常生活で土鍋を使ってもらう仕掛けとして、土鍋料理教室の開催、レシピ本の発行、ホームページでレシピ公開などの手を打ちました。通信販売ではこだわりの食や暮らしをしたい人をターゲットにした媒体を選びました。

伊賀市の直営店には「かまどさん」のほか、調理器具や食器が並びます

 発売から約1年たった頃、料理研究家がテレビ番組で「かまどさん」で炊いたご飯のおいしさを話してくれたのをきっかけに、注文が殺到しました。「問い合わせで電話回線がパンクしたほどです。以前、門前払いされた営業先から扱わせてほしいと言われたときはうれしかったです」

 口コミも取材も増えて「かまどさん」は安定的に売れるようになり、04年には東京・恵比寿にアンテナショップも出しました。

長谷園のアンテナショップ「東京店 igamono」。大きな台所を構え、料理教室やワークショップも開いています(長谷園提供)

 ヒットの裏側で、長谷さんは購入後の使われ方が気になりました。アンケートを取ったところ、9割は好評でしたが、1割からは「使い方がよく分からない」、「部品が破損して使えなくなった」という声がありました。

 取り扱い説明書を改良し、いつでも見られるようにホームページにも掲載。06年からは陶器業界では珍しい「パーツ販売」に着手します。欠けたり、割ったりした場合、上蓋、中蓋、本体の土鍋と、必要な部分だけ買えるようにしました。

 大きな産地は、一般的に生地屋、窯屋、販売の分業制で生産されることが多く、陶器のパーツ販売はコストに見合いません。ユーザーは部品が壊れたら、製品を丸ごと新調するしかありませんでした。

 しかし、伊賀焼は生産から販売までひとつの窯元が行うので、パーツだけを製造して届けることが可能でした。

「かまどさん」の側面を削り凹凸をつける工程

 パーツ販売は最初、従業員から大反対されたといいます。

 かまどさんの製造工程の多くの部分は手作業です。焼くことで収縮する陶器のサイズは一定ではなく、ユーザーに手持ちの鍋の直径を測ってもらったうえで、それに合うパーツを探したり、つくったりする必要があり、かなりの手間が予想されました。対応するための事務スタッフの増員も必要でした。

 長谷さんは「うちのモットーは『作り手は真の使い手であれ』です。自分が使う立場だったらどうかな? 蓋だけ買えたら嬉しくない?と従業員を説得しました」。

 パーツ販売で愛用者をさらに増やした長谷さんは、07年、37歳で8代目社長に就任しました。

「かまどさん」の取っ手をつける工程

 「かまどさん」販売から10年を過ぎた頃、突如売り上げが下がりはじめました。人気が出過ぎて、製造が追いつかなかったのが一因でした。

 「出荷することに必死で、使ってもらうための仕掛けにまで手が回らず、流れ作業のような、受け身の姿勢になっていました」

 2年連続売り上げが下がったことで、テコ入れを開始。長谷さんが指揮をとり、ウェブレシピの更新頻度をあげたり、専門家にレシピを依頼したりして、丁寧な情報発信に力を入れました。東京のアンテナショップを中心に、料理教室やワークショップも継続的に開きました。

 ユーザーアンケートをいま一度見返し、サイズのバリエーションを増やしたり、電子レンジで使えるタイプの陶珍かまどを開発したり。時代に合った製品づくりや、ユーザーの声に寄り添うことで、じわじわと復調しました。この頃から本格的に、米国への販路も広げました。

 長谷さんは25年前から、自身が発起人となって自社敷地内で「窯出し市」と銘打った陶器祭を始め、毎年約3万人が訪れる一大イベントになりました。伊賀に戻ってきたときに描いた、全国から人が集う窯元が実現したのです。

長谷さんは伊賀に戻った後、長谷園に駐車場、展示室、展望台などを整備しました

 長谷園にも、コロナ禍の影響はありました。「窯出し市」が20年から2年連続で開けず、売り上げで大きな痛手を負いました。百貨店の催事もなくなり、早い段階で通信販売の充実にかじをきりました。

 「家で過ごす時間が増えた結果、調理器具の購入が増えました」。巣ごもり需要を見越して、生産計画を変更、家族で食卓を囲める土鍋や調理道具をそろえて、危機を乗り切ろうとしています。

長谷さんはこれからも変化を恐れず、走り続けます

 「私たちが大切にしてきた、家族の団欒や笑顔につながる道具が、今の時代にマッチしました。8代も伝統産業の家業を続けてこられたのは、時代の流れや環境の変化に対応してきた結果です」

 長谷園の9代目には、すでに長谷さんの長女が手を挙げているそうです。古くから伝わる日本文化を大切にしながら変化を重ねることで、伊賀焼を次の時代につなぎます。