40歳を過ぎてめっき工場へ 素人だった4代目が成功させた独自技術
鳥取市の金属加工会社「アサヒメッキ」の4代目・木下淳之さん(54)は、国会議員秘書を長く経験した後、40歳を過ぎて畑違いの家業に転身した異色の後継ぎです。父や兄との考え方の違いを乗り越えながら、カラフルな色を生み出す「ステンレス鋼発色処理」など、独自技術の開発を進め、下請けからの脱却に挑んでいます。
鳥取市の金属加工会社「アサヒメッキ」の4代目・木下淳之さん(54)は、国会議員秘書を長く経験した後、40歳を過ぎて畑違いの家業に転身した異色の後継ぎです。父や兄との考え方の違いを乗り越えながら、カラフルな色を生み出す「ステンレス鋼発色処理」など、独自技術の開発を進め、下請けからの脱却に挑んでいます。
目次
同社は1946年に創業し、機械部品のめっき処理や表面処理を手がけています。従業員は50数人で、年商は約5億円。独立系のめっき工場では大手の規模です。事業の柱は自動車部品の加工で、売り上げの50%を占めます。
4代目の木下さんは「兄が家業の後継者になると思っており、家業に戻ったのは全くの想定外でした」と語ります。
大学生のころ政治に興味を持ち、1990年に国会議員の秘書になりました。仕えていた議員は当時、ホープと目され、国内有数の「マンモス事務所」でした。
ところが、その議員は2000年の選挙で想定外の落選。5人も秘書がいた東京の選挙事務所に、木下さん1人だけ残されました。
「当時の私は31歳。人手も経験も足りませんでしたが、返り咲きに向けて活動の質を落とすわけにはいきません。議員が活躍できる環境を作るため、大先輩にあたる関係者に、生意気なことを言わなくてはならないシーンもありました。常識にとらわれずベストを尽くす姿勢が、この時に身につきました」
木下さんらの奮闘で、議員は03年の選挙で返り咲きました。しかし、09年に再び落選の憂き目に遭います。
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「1回目は、私も若くて結婚しておらず、生活苦にも耐えられました。ところがその時は、42歳で結婚もしていて、家族の生活を考えると、政治の道を諦める決断を迫られ、2年間迷いました」
当時、アサヒメッキの会長だった父からの説得が、家業に戻る決め手になりました。「社長だった兄に後継者がおらず、会社存続のため戻ってほしいと言われました。悔しさは残りましたが、生活の糧を得るために決心しました」
木下さんは11年、アサヒメッキに入社します。現場の目は「会長の息子が40を過ぎて東京から戻ってきた」と冷ややかだったそうです。
「いち新入社員として生産現場に入ることになり、1日でも早く仕事を覚えて見返してやろうと、がむしゃらに働きました。めっきの仕事は、加工する製品を出し入れする単純作業が多く、不慣れな動きの繰り返しで腱鞘炎になってしまいました」。オーバーワークが続き、半年で体重が15キロも落ちてしまいます。
入社当初、父や兄からは、技術を身につけて社員に示しをつけるため、「めっき技能士」という資格を取得するように言われました。しかし、木下さんの考えは異なりました。
「アサヒメッキにはベテラン職人がたくさんいます。40歳を過ぎた私が中途半端に技術を身につけるより、経営者の仕事に集中したほうが、会社のためになると思ったのです。結局、技能検定は取得しませんでした」
家族に反発した結果、木下さんにはプレッシャーがさらに加わったそうです。「製造業のイロハも知らなかった私が、成果を社内に示す方法を考えなければいけない。暗中模索の苦しみがありました」
中小企業大学校広島校で受講した「工場管理者養成コース」というセミナーが突破口になりました。特に生産効率改善のノウハウが印象に残りました。
アサヒメッキの製造現場は、生産管理の発想が根付いていないことに気づかされたのです。
「生産管理の事例を学ぶうち、工程に無駄が多いとわかりました。例えば、すき間の時間に次の作業を段取りしたり、自分の前後の工程の効率性に気をつかって動いたり、といった基本的なことができていませんでした。後継者の自分が会社のためにできることが、明確になりました」
木下さんは12年に専務に就任すると、生産効率に関する様々な改善に着手しました。その一例が、「そろえる」手間の省略です。
「棒状の製品をめっき加工する際は 各工程で『そろえる』という手間が生じていました。しかし、最初からそろえた状態で作業すれば、一手間省けるというわけです」
そのほか、各工程がスムーズに流れるように、加工する部品を整頓しながら作業するなどの改善を、一つひとつ指導していきました。生産管理の思想を根付かせ、以前は当たり前だった深夜残業も無くなったそうです。
定期的に従業員面談も行いました。「熱意をもって会社の未来を語る社員がいました。彼らに改革のキーマンになってもらったのです」
木下さんは「下請け依存」の体質にも気づかされました。既存顧客との取引関係を維持するため、厳しい納期の仕事も引き受けなくてはならず、現場に多大な負担が生じていたのです。
苦境脱出のヒントをつかむため、展示会の見学に出かけます。「父や兄は展示会に価値を感じておらず、会場に行くことすら、ひともんちゃくありました」
ところが、木下さんが足を運ぶと、同業他社は「特許取得済み」「大手自動車会社の仕事を受注」など、多彩な切り口で独自技術をアピールしていました。
「独自技術の開発が、下請け依存からの転換に役立つかもしれない」。木下さんは13年、「アルマイト処理」というアルミの表面処理技術の改良に着手しました。
アルマイト処理は通常、猛毒のフッ化水素酸が使用されるため、自然や人体への悪影響が懸念されています。木下さんは、フッ化水素酸を使用しないアルマイト処理の確立を目指しました。「環境負荷や労働環境の改善、工期・工程の短縮などを狙いました」
ただ、木下さんは自社の開発リソースに不安がありました。社外も交えた開発チームを立ち上げることにして、評価機関の機能を持つ鳥取産業技術センターと、日頃から表面処理の薬液を提供してくれている奥野製薬工業(大阪市)に声をかけました。
「当社の技術部長は通常業務と開発業務の同時並行で、大変だったと思いますが、よく頑張ってくれました。技術部長も展示会に同行して独自技術の必要性を理解してくれていたので、気持ちを込めて仕事をしてくれていたと思います」
17年、「フッ酸フリーアルミ表面処理技術」を完成させ、特許を取得しました。18年には、経済産業省の「ものづくり日本大賞」で中国経済産業局長賞に輝き、全国区の企業に躍進するきっかけになりました。
18年には「ステンレス鋼発色処理」という新技術の開発に成功しました。
これはステンレス鋼の表面にナノ単位の膜を張ることで、発色させる技術です。塗装のように経年劣化で表面が剝がれないため、美観の維持に強みがあるとされています。
同社の技術は、色ムラが少なく美観に優れており、20種類ものカラーバリエーションが特徴です。平面だけでなく、曲面や立体などあらゆる形状に対応できるため、アート作品への応用も可能です。
ステンレスは生活に溶け込んでいますが、ほとんどの色がシルバーです。特に、医療現場では衛生維持の観点からステンレスが多用されるため、空間が冷たい印象になってしまいがちといいます。
「色が長持ちするステンレスが普及すれば、日常の風景が一変すると考え、色ムラの激しさや色数の乏しさを、新技術で解決することにしたのです」
木下さんは同年、ステンレス鋼発色処理の企画を担う別会社「オロル」を設立しました。「下請け依存からの脱却を目指し、提案力を武器に、新技術を世に広めようと考えました。それには、業界の常識に染まっていない新会社が必要でした」
20年には、大型ステンレスにも対応できる新工場が完成。医療器具、自動車内装、住宅建材など多様な用途で、世界から引き合いが来ているそうです。
技術開発でハードルになったのは、資金力とPRの不足でした。木下さんは、国の補助金制度に目をつけました。
アルマイト処理には、経産省の「戦略的基盤技術高度化支援事業(サポイン事業)」を、ステンレス鋼発色処理には、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の「中堅・中小企業への橋渡し研究開発促進事業」を活用しています。
「資金の獲得だけではなく、助成金に採択されることで国のお墨付きが得られるという点に着目しました。産業界では難関で知られるNEDOの補助金獲得で、大手企業やマスコミの目を、山陰地域の中小企業の技術に引き寄せました」
補助金を獲得するためには、事業の意義や実現性について、説得力のある資料が必要です。木下さんはマーケティング調査に力を入れました。
例えば、ステンレス鋼発色処理の技術開発では、医療関係の顧客にヒアリングしたほか、東京の時計店に飛び込みで意見を聞かせてもらうことまでしたそうです。
プロジェクトに、トップレベルの研究者を巻き込んだのもポイントです。ステンレス鋼発色処理では、産業技術総合研究所の廣瀬伸吾氏に協力を依頼しました。
「技術の精度を評価するうえで、一流の研究者の知見が欠かせませんでした。共同研究者との出会いは相性が大事ですが、情報は世間にあまり出回っていません。議員秘書時代の人脈を活用して大学教授や経営者に相談し、ベストな共同研究者に巡り合えました」
木下さんは20年、会長になった兄から事業承継し、4代目社長に就任しました。就任後は、水素のタンクや配管の耐久性向上に、ステンレス鋼発色処理を役立てようとしています。
この応用技術は、電気通信大学の田村元紀教授と開発しました。水素は次世代エネルギー源として注目される一方、タンクや配管に利用されるステンレスを著しく劣化させる性質を持っている点が、課題とされています。
「田村教授は、ステンレス鋼を発色させる際に形成される膜が、水素脆化の予防に役立つ可能性を見いだしてくれました。持続可能な開発目標(SDGs)の視点で、水素ステーションの整備などが模索されており、我々も裏方で貢献できるかもしれないと考えています」
コロナ禍で、同社も営業活動の見直しを迫られました。「発色したステンレスが溶け込んだ日常は、多くの人にとって未知の光景です。ぬくもりのある空間をイメージしてもらうため、プレゼンテーションは欠かせません」
21年10月には、VR対応したバーチャルショールームをリリースしました。「現物を見なくても、発色したステンレスのある未来を想像していただければと思います」
議員秘書から転身して10年。木下さんは「40歳を過ぎて家業に戻った私は、製造業の素人です。だからこそ、業界の常識にとらわれない改革ができたのではないでしょうか」と語ります。
「ステンレスに色をつけるという素朴な発想は、逆にめっきのプロである父や兄は見逃してしまうアイデアです。発想を変えてみれば、問題解決のヒントがあるように思います」
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