引き立て役から主役に変化 桐箱店3代目の合わせ技作戦
福岡県古賀市の増田桐箱店は、1929年創業の桐箱製造販売会社です。防虫性や気密性に優れた「桐」の特性を生かした桐箱は、人間国宝の作品や、酒瓶やうつわや着物など、多種多様なものの「入れもの」として重用されてきました。25歳で3代目社長になった藤井博文さん(34)は、創業以来初の自社開発商品「米びつ」をヒットさせ、海外への販路も拡大させました。
福岡県古賀市の増田桐箱店は、1929年創業の桐箱製造販売会社です。防虫性や気密性に優れた「桐」の特性を生かした桐箱は、人間国宝の作品や、酒瓶やうつわや着物など、多種多様なものの「入れもの」として重用されてきました。25歳で3代目社長になった藤井博文さん(34)は、創業以来初の自社開発商品「米びつ」をヒットさせ、海外への販路も拡大させました。
――藤井さんは子どものころ、家業についてどう思っていましたか。
実家から車で15分ほどのところに増田桐箱店があり、母方の祖父が社長でした。父がサラリーマンだったこともあり、家業という意識はありませんでした。祖父母の家に遊びに行くと桐箱店に連れて行ってくれて、そこで釘打ちのお手伝いをするとお小遣いやジュースがもらえるという、行くのが楽しみな場所でした。
――高校卒業後、台湾に留学しました。
一般企業への就職を考えていたところ、両親から「外の世界を見た方がいい」とすすめられ、台湾の語学学校に留学しました。台湾は福岡から近く、語学が習得できて食事もおいしく快適でした。当時は生活費も、東京に出るより安かった気がします。
――1年半の留学後、すぐに家業に入社しています。きっかけは。
留学中、語学を生かした就職を視野に入れていたところに、先代の祖父が取引先を連れて台湾に視察旅行に来ました。その懇親会の場で初めて、祖父から家業に対する思いを聞きました。
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桐箱を作る職人で、経営者でもあった祖父は、他の職人たちに負けないよう必死になるあまり、少し頑固なところがありました。経営の仕事を一人で抱え込んでいたのです。祖父は私に「実は、後継者を育てるのが遅れている」「よければうちに入社しないか」と打ち明けました。同席する取引先の人たちからも「そういう人生もいいと思うよ」と言われ、いわばなりゆきで入社を決めました。
留学中にアルバイトをしていた日本食レストランでは、桐箱に入った日本酒が高値で取引されていました。「おじいちゃんの桐箱がこんなところにも」と親近感を覚えたことも、家業への入社を後押ししてくれました。
――入社後、最初はどんな仕事を手掛けましたか。
社長の孫として20歳で入社し、製造、販売、経営を一通り経験しました。と言うと聞こえはいいのですが、実際のところは忙しい部門のヘルプ要員でした。会社に事業計画や生産管理といった概念はなく、その都度忙しいところを手伝うなかで、徐々に仕事を覚えていきました。
――会社の印象はいかがでしたか。
一部の取引先に対して、品質、価格、納期のあらゆる面で立場が弱いと感じました。いわゆる「下請け体質」です。うちは人間国宝の作品とのご縁もある一方で、それ以外の販路も多く、そのなかには同業の桐箱店に向けた製造販売もありました。うちよりもはるかに歴史のある桐箱店から、価格面でたたかれ、納期も突然電話で「明日までに出さんかい」と急がされるのに、なぜか品質はお値段以上のものを求められるという状態が続いていました。
もちろんそこで鍛えられた面もありますが、「言われるままの下請け的立場を続けなくてもいいのでは」と思いました。うちの職人たちがいいものを作っているのに、なぜこんなに薄利で売らなければならないのかと。言いなりなので、生産計画を立てて注文に備えることもできませんでした。
――なぜ、そのような立場になっていたのでしょうか。
恒常的に、仕事のとり方が悪かったのだと思います。受け身の姿勢だと、そういう厳しい仕事しか来ないのだと実感しました。祖父も社員も、それが当たり前になっていたように思います。
「入れる中身があってこそ」の桐箱ではあります。でも、桐箱がなければ中身も売りにくいはずなのに、なぜかうちだけ立場が弱い。厳しい取引先との付き合いを見直すというよりは、もっと自分たちの価値を高めていきたいと考えました。
――祖父とは、経営改善の話をしましたか。
ほとんどできませんでした。祖父は70歳を超えて高齢だったこともあり、話をする前に「後をよろしく」とあっさり言われ、そのまま私が社長に就任しました。
――25歳での社長就任は、とても若いと感じます。周囲の反応はいかがでしたか。
祖父は会長に就任したものの、ほとんど会社に来なくなりました。長年の取引先は「社長が70代から20代になった。大丈夫か」と心配だったと思いますし、社員たちからも戸惑いが感じられました。就任から10年近く経った現在も、50人ほどいる社員のなかで、34歳の私は若い方です。
――社長就任後、最初に取り組んだことは何ですか。
大きく二つあります。一つ目は、「自社商品の開発」です。就任当初、地元の友人に「社長になった」と伝えても、そもそも桐箱店が何をしているのかを理解されませんでした。「単なるパッケージとしての桐箱だけではなく、桐箱そのものが主役になるような商品があれば、自分たちの仕事が理解されやすいかもしれない」と考えました。
二つ目は「とにかく仕事を取ってくる」ことです。ただでさえ社長が突然20代になって戸惑う社員、特に職人たちのことを考えました。うちは職人集団で、企業理念や事業計画もなく、「皆で知恵を出し合って、いい会社を作っていこう」という雰囲気ではありません。職人たちにとってハッピーなのは、やったことのない営業や経営のことを考えるよりも、「自分たちがやりたい仕事が、目の前におなかいっぱいになるほどある」状態が続くことだと思いました。
――初の自社商品は、米びつですね。商品化はスムーズに進みましたか。
全くスムーズではありませんでした。桐箱の最大の特徴である「防虫性」が生かせて、日々の生活で使えるものとして「米びつを作りたい」と職人に話したところ、「なぜ桐箱屋が、そんなものを作らないといけないのか」と言うのです。
――反発を受けたのですね。
ショックでしたが、すぐに気持ちを切り替えました。古賀市の商工会で紹介されたデザイナーに、デザイン性が高くて実用性もあり、うちの職人が作りやすそうな米びつをデザインしてもらいました。いいものができたので、あとは職人たちが驚くぐらい注文を取ってくるぞと腹を決めました。
――市場のリサーチはどのように行いましたか。
全国のデパートで販売されている、米びつの価格を調べました。当時の相場が1万円ほどだったので、そこに3割安いものを投入すればインパクトがあるぞと思い、「6800円で売ろう」と決めました。その価格で利益を出すためには、それなりの量が必要だということもわかってきました。
――営業先はデパートが中心ですか。
東京のデパートやセレクトショップへ営業しました。当初は地元福岡のデザインショーに出展したものの、「福岡で売るのなら、もっと安くしないと厳しいのでは」と辛口の指摘を受けました。「これは東京で価値を認めてもらって、ブランド化しなければ」と、東京で営業攻勢をかけたところ、1年で1万個近くの注文が取れました。
――職人たちもびっくりですね。
「どうしよう。注文を取りすぎちゃった」と職人たちに報告すると、「受けた注文ば、責任持って作らんといかん」と動き始めました。いい意味で、職人たちのハートに火がついた瞬間でした。
――米びつのヒットで、会社の雰囲気は変わりましたか。
激変しました。それまでは、うちの桐箱はデパートやセレクトショップの商品棚の下にありました。ものが売れて初めて棚の下から桐箱が出てきて、商品が入れられて、「はいどうぞ」と渡される流れです。
米びつが売れたことで、社員から「家族に初めて、自分たちの商品を紹介できた」「三越で売れるなんて、おかしなものは作れない」といった声が聞かれました。
営業の内容も、提案型になっていきました。特に好評だったのが、「米びつを箱に見立てて、中にご飯茶わんを入れてギフトとして売る」というもので、うつわとの合わせ技です。米びつは福岡にも逆輸入されましたが、価格を指摘されることはありませんでした。
米びつのヒットとともに会社の認知度も上がり、通常の桐箱の注文も増えました。米びつが、最高の営業マンになってくれたのです。
――米びつは輸出もされました。きっかけを教えてください。
東京のギフトショーに出展したときに、たまたま台湾のセレクトショップのバイヤーが来たのがきっかけです。台湾への留学経験のおかげで言語対応も問題なく、商談は盛り上がりました。台湾のセレクトショップは、卸と小売りの両方の機能を持っていることが多く、そこからデパートなどに販売されることもあります。
――輸出にあたり、気を付けていることはありますか。
代金の回収です。輸出を開始した2016年当時、日本国内の取引先との決済は手形が主流でした。桐箱業界の古い商習慣が残ったままだったのです。手形決済は現金化されるまで数カ月かかる上に、万が一、不渡りが出ると現金を回収できなくなるリスクもあります。そこで輸出では、前払いに徹底的にこだわりました。幸い、「お金がないので前払いでお願いします」と言うとだいたいOKでした。
――輸出向けの商品コンセプトは何ですか。
「日本の職人が作る高品質の商品なのに、だいぶお手頃価格です」というコンセプトで売っています。もともとの、うちの強みと同じです。最初に日本国内の値付けを頑張ったので、米びつにかけられる関税や、輸出入の費用などを反映すると、競合との価格差はさらに広がっていると感じます。たとえばアメリカ向けだと、現地での店頭価格は日本の約2倍になります。日本で1万円の米びつが約2万円になるのに対して、7千円の米びつでは約1万4千円になるのです。
――台湾やアメリカの他にはどこに輸出していますか。
欧州に輸出しています。展示会や、うちのウェブサイトを見たというバイヤーからの問い合わせがきっかけです。
商品名を「米びつ」ではなく「フードストッカー」にしたところ、スムーズに売れました。桐箱本来の機能である気密性や防虫性を前面に出した、「食品の保管に最適な日本のプロダクト」という位置づけです。サイズは米びつのままで、あとはお客さんの好きなように使ってもらう。販促素材の写真も、米ではなく、ナッツやシリアルを入れた写真にしました。
――日本の伝統産業が世界で勝負するためには、どんな視点が必要ですか。
「手に取ってもらえる価格設定」と「お客さんの用途に合った商品提案」、この2点に尽きると思います。いくらいいものを作っていても、手に取ってもらえなければお客さんには届きません。自分たちの伝統や価値を押し付けるのではなく、買う側の立場で、用途に合ったものを提供できるかが何よりも重要です。
※後編では、ユニークな「木製オセロ」を生んだ発想、コロナ禍で決断したM&Aなどに迫ります。
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