目次

  1. 中国人に恩返ししたいと祖父が創業
  2. ハードな勤務・絶対的ヒエラルキー 継ぎたくない仕事だった
  3. 付加価値で勝負しようと提言するも工場長が拒否
  4. 全従業員の4分の1が離職 気づいた取引先との信頼関係
  5. 取引先が2000社 リーマンショックを乗り切れた
  6. 中華惣菜も自社で製造するように
  7. 経営課題と社会のトレンドを重ね合わせて考える
  8. 完全週休2日制にしたことで求人応募数が約20倍に
  9. 中華に関するすべてを網羅したい
サメの尾ビレを原料に中華・高橋が製造する最高級品のフカヒレの姿煮(同社提供)

 中国語が堪能だった高橋さんの祖父・正(ただし)さんは、第2次世界大戦中、日本軍の通訳として中国に赴任していました。そのとき、現地の中国人に大変世話になったそうで、中国人に恩返しがしたいと、終戦後の1953年に高橋商店(後の中華・高橋)を創業。ホタテの貝柱、ナマコ、干鮑、フカヒレなどの中華料理食材を築地の乾物問屋市場から仕入れ、周辺の高級中華料理店に卸す仕事をはじめます。

 「祖父はとにかく実直でした。社員のひとりが、高めの値段でお店に卸していたことを知ると、『お客様が困るだろう!』と一喝。取り過ぎた分のお金を返すよう命じるタイプでした」

 その実直さから、事業は順調に伸びていきます。父親に代替わりすると、タケノコなどの農産缶詰や調味料、紹興酒、冷凍点心など豊富な中華食材を扱うなど、業容を拡大。祖父の代は3番手であった業界のポジションを、トップにまで成長させます。

 フカヒレの仕入先であった、宮城県気仙沼のフカヒレメーカーから事業を譲り受け、製造業にも進出すると、工場の規模を10倍に拡張し、フカヒレ専門店としての存在感を高めていきました。

改革の日々を振り返る高橋さん

 幼い頃から配達などを手伝っていたそうですが、「将来絶対になりたくない仕事」だったそうです。繁忙期の冬場には朝6時30分から夜中の12時まで働くなど、ハードな勤務体系だったからです。

 配達先の料理人から「もっと値段を安くしろ」と言われ、その言葉に服従するしかない。高橋さん曰く「発注・受注者という100対0の絶対的なヒエラルキーを感じていた」ことも理由でした。

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