社員が大量離職でも……中華食材卸3代目が気づいた料理店からの信頼
フカヒレをはじめとするたくさんの中華食材を扱う「中華・高橋」3代目の高橋滉さん。家業を継ぐと顧客に選ばれる企業を目指して、安定供給や歩留まりの改善などに取り組みました。社員の4分の1が離職する危機もありましたが、逆に取引先との長年の信頼関係を感じるきっかけになりました。中華料理のニーズの移り変わりを機敏に察知し、新しい事業を次々と打ち出しています。
フカヒレをはじめとするたくさんの中華食材を扱う「中華・高橋」3代目の高橋滉さん。家業を継ぐと顧客に選ばれる企業を目指して、安定供給や歩留まりの改善などに取り組みました。社員の4分の1が離職する危機もありましたが、逆に取引先との長年の信頼関係を感じるきっかけになりました。中華料理のニーズの移り変わりを機敏に察知し、新しい事業を次々と打ち出しています。
目次
中国語が堪能だった高橋さんの祖父・正(ただし)さんは、第2次世界大戦中、日本軍の通訳として中国に赴任していました。そのとき、現地の中国人に大変世話になったそうで、中国人に恩返しがしたいと、終戦後の1953年に高橋商店(後の中華・高橋)を創業。ホタテの貝柱、ナマコ、干鮑、フカヒレなどの中華料理食材を築地の乾物問屋市場から仕入れ、周辺の高級中華料理店に卸す仕事をはじめます。
「祖父はとにかく実直でした。社員のひとりが、高めの値段でお店に卸していたことを知ると、『お客様が困るだろう!』と一喝。取り過ぎた分のお金を返すよう命じるタイプでした」
その実直さから、事業は順調に伸びていきます。父親に代替わりすると、タケノコなどの農産缶詰や調味料、紹興酒、冷凍点心など豊富な中華食材を扱うなど、業容を拡大。祖父の代は3番手であった業界のポジションを、トップにまで成長させます。
フカヒレの仕入先であった、宮城県気仙沼のフカヒレメーカーから事業を譲り受け、製造業にも進出すると、工場の規模を10倍に拡張し、フカヒレ専門店としての存在感を高めていきました。
幼い頃から配達などを手伝っていたそうですが、「将来絶対になりたくない仕事」だったそうです。繁忙期の冬場には朝6時30分から夜中の12時まで働くなど、ハードな勤務体系だったからです。
配達先の料理人から「もっと値段を安くしろ」と言われ、その言葉に服従するしかない。高橋さん曰く「発注・受注者という100対0の絶対的なヒエラルキーを感じていた」ことも理由でした。
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一方で、特にやりたいことがなかったため、家業に入ります。入社後はアメリカに赴任し、パートナー企業で販路を開拓する任務に就きますが、父親の体調が悪化したため1年半ほどで帰国します。
けれども、先述の営業仕事は絶対にしたくありませんでした。そこで、小売事業を1人で立ち上げます。当初は売上が伸びず先輩社員に揶揄されますが、人気テレビ番組で取り上げられたことで、一変します。
「1回の放送での売上が約3000万円。正直、驚きました。小売事業の可能性を感じると共に、その後は小売事業を拡大。大手デパートやカード会社のギフトといった販路も開拓しました」
小売事業を順調に拡大する最中、父親が死去します。絶対にやりたくなかった業務用卸事業に取り組む状況を、受け入れるしかありませんでした。
改めて、従来の業務用卸業務を観察すると、100対0の関係性の原因が見えてきました。どの業者も横並びで扱うのは似た商品ばかり。差別化の要素は値段だけであったため、お店にとって仕入先はどこでもよかったのです。
付加価値をつけ、高橋から買いたいと思ってもらうような体勢に変えることを決めます。はじめに取り組んだのは主力商材であるフカヒレに、「供給・品質」という2つの安定を装備することでした。
「フカヒレの原料は天然のサメであるため、供給が安定しないのが業界の常識でした。ただ裏を返せば、さまざまな種類のフカヒレをいつでも安定的に供給する体勢を整えることができれば、付加価値になるだろうと考えました」
もうひとつ、気になっていたことがありました。フカヒレ製造において原価を大きく左右する歩留まりです。製造工程を細かく見直すことで高めることができるのではないか、と感じていました。ところが、気仙沼の工場長に話すと、どちらの案も有無を言わさず却下されます。
「若造が何を言っているんだ、これまでの自分のやり方が正しいとの一点張りで、頑として私の提案を受け入れようとしませんでした」
しかし、高橋さんは諦めませんでした。改革を実行しようと気仙沼に乗り込み、若手社員らとともに、加熱する温度や吸水する際の水温や水質、時間などを、今までそうしてきたからではなく根拠のある最適工程を導き出し、歩留まりを高めることに成功しました。
さらに、気仙沼の水揚げだけでは限界があるため、スペインやインドネシアといった海外の港にも出かけていき、現地で水揚げされたフカヒレを冷凍し輸入するなどして、多種多様なフカヒレを安定的に供給できる体勢を整えていきました。
一方で、販売先も多種多様にすることを考え、高級中華料理店だけでなく、尾ビレの約半額の胸ビレなども扱う町の中華料理店や和食店、外食チェーンにまで、販路を拡大していきました。
こうして取引先が2000軒ほどに増える頃には、改革案に反対していた工場長は会社を去っていました。
改革に反対したのは、工場長だけではありませんでした。営業、事務職でも、高橋さんの意見を受け入れようとしなかった従業員も多かったそうです。そのような伏線もあり、あるとき事件が起きます。営業職を中心とした全従業員の約4分の1にあたる15人が、3カ月の間に会社を去り、新設された中華卸業者に移ってしまったのです。
「改革に夢中になっていたこともあり、そのような動きにまったく気づいていませんでした。ただ気仙沼の工場のケースと同じく、残ってくれたメンバーは私のことを信じてくれていましたから、力を合わせて改革を進めていくしかない。改めて、気が引き締まりました」
離職したメンバーは、中華・高橋の顧客先に営業をかけていったそうです。すると「うちはチュウタカ(中華・高橋の愛称)から買うよ」と、ほとんどのお店が取引を継続してくれました。そのときに届いた多くの声が、祖父への感謝だったそうです。
100対0の関係性は表面上のものであり、内実では信頼関係があったのだと、高橋さんは気づくのでした。同時に「より良い商品を信頼してくれるお客様に届けたい」と、改めて強く思います。
「結果としてフィルターがかかってよかったと思っています」と高橋さんは当時を振り返ります。
販路先を2000以上に広げたことは、リーマンショック対策にもなりました。高級部位である尾ビレの需要は激減しましたが、胸ビレなどリーズナブルな部位の需要は逆に増えたからです。
後述で補足しますが、リーマンショックの予兆を感じていたため、事前に胸ビレを通常の3倍仕入れていたことも、需要に対応できた理由でした。
事業を継続してから10年ほど経つと、フカヒレの売上構成比は父親時代の19%から、47%にまで増加。利益に関しては57%までにアップするなど、フカヒレと言えば高橋という付加価値が、確実に醸成されていました。
しかし、高橋さんは、フカヒレ専門業者として将来に不安を持っていました。リーマンショックを予測したのと同様、世間のトレンドをふだんからチェックしていたからです。
「若い人は高級店ではなく、気軽に美味しいものを食べたいとのニーズが見えていました。そうなればディナーレストランは衰退し、必然的に高級フカヒレの需要も減っていくだろうと。同時に世界的にサメ保護の論調も高まっていましたからね。原点回帰ではないですが、改めて中華全般に力を入れよう。そしてここでも付加価値をつけるために、自社で商品開発をしていこうと考えました」
高橋さんは、2000軒以上の取引先にいるシェフたちとのつながりこそが自社の強みだと考え、レシピの提供を受けるなど、彼らのノウハウの活用を軸に事業を組み立てていきます。
ホテルやレストランで深刻化し始めていた、人手不足の解消。自社ECなどのD2Cを想定し、まずは冷凍惣菜の開発に注力しようと、開発用のキッチンと工場を併設したビルを建設し、その分野に強い人材をヘッドハンティングします。
ところが冷凍惣菜ができあがると、多くの取引先のお店から通販やお土産用などで扱いたいと、OEM依頼が舞い込むようになり、事業はさらなる広がりを見せます。
コロナ禍の今では、一般消費者市場が活況のため、中華惣菜を製造する工場の稼働率は前期比200%以上に。受注は300%を超えるため、外部の協力工場にお願いしているほどの盛況で、ECによる売上も前期比250%にまでアップしています。
なぜ、高橋さんは先を読んだ手を打ってこられたのでしょうか。
「情報収集は、新聞や雑誌など、人並みだと思います。ただ情報を得る際に、そのとき自分が抱えている経営課題と常に重ね合わせることを意識しています」
たとえば牛肉のBSE問題が世間を賑わしたとき、フカヒレ業界にも同様のインシデントが発生したらどうなるかを考えながら、ニュースを見ていたそうです。フカヒレ一本での勝負はリスクが高すぎる、と。その結果、先述の中華惣菜事業に着手したというのです。
課題においては、頭の中に絶えず置いておくのが高橋さん流です。疲れないのかと聞くと、課題は常にスリープモードになっていて、課題解決の糸口となりそうな情報が五感に触れると、それがオンになるような感覚で動き出し、あらゆる情報との掛け算が始まって考えうる最適解が、シナリオとして描き出されるそうです。
15人が会社を去った後も、人の入れ替わりが激しいままでした。朝早くから夜遅くまで、交代制でときには日曜出勤もしている労働環境が理由だと考え、こちらも改革に着手します。
業務内容を分析すると、原因は電話・FAXによる受注対応に多くの時間を取られていたことだと分かりました。そこでスタートアップが開発した「TANOMU(タノム)」という、スマートフォンで簡便に受注が行えるシステムを導入します。
受注方法の変革に併せて、朝一番の配達に向けて夜中に出勤して行っていたピッキング業務も、朝からとしました。当初は配達が遅れ、顧客に迷惑がかかるのではないかとの反対意見もありましたが、「まずはやってみよう」と、高橋さんは改革を牽引します。
実際にやってみると、コロナ禍で出荷量が少なかったことも幸いし、特にトラブルはなし。深夜勤務のコスト軽減にもつながりました。コロナ禍でお店が忙しくなかったことが幸いし、多くの顧客でスマホ発注システムの導入が進み、全体の75%を占めていた電話・FAXでの受注が、たった3カ月の間に25%にまで激減しました。「まずはやってみることが大切ではないでしょうか」と、高橋さんは言います。
2020年5月からは土曜日も休日とし、完全週休2日制を実現します。年間の休日数は121日となり、求人広告の応募数はこれまで10~20人ほどだったのが200人以上と、20倍規模に増えました。
「以前は数が最優先でしたが、今では業務に適した人材を的確に採用することができています。デジタル改革をさらに推し進めるために、デジタル分野に強い人材も採用していますが、その際も完全週休2日制は大きな武器になっています」
全体の売上はコロナ禍の影響でやや下がっているそうですが、「羊名人」という大ヒットスパイスも開発するなど、自社開発品の売上割合が増加したことで、全体の売上利益率はここ5年で14%から22%にアップしました。
業界全体が活性化することが自社の業績アップにつながるとの考えから、収益事業以外にもさまざまな取り組みをしています。
メディア事業では、自社運営メディア80C(ハオチー)を運営。中華好きの消費者や地方の中華料理店に専門情報を届けると共に、両者のコミュニケーションを醸成するSNSも活発に行い、フォロワーも5万人を超えています。
料理人の育成を考え、自社惣菜の開発スペースを若手料理人に開放し、1日料理長をやってもらう「わかば食堂」。顧客の状況をより親身になって知りたいとの考えから、飲食店も運営しており、実際にコロナ禍における各種対応のヒントを、まさに肌感で顧客に共有しているそうです。
「食材だけでなく調理する道具、器、美味しい情報。美味しいを体験したり購入できたりするお店など、すべてそろっての中華ビジネスだと考えています。そのすべてを自社サービスで提供することで、中華の魅力を改めて感じてもらい、1人でも多くの人が中華のファンになってもらう。その結果、業界全体が活性化する。このような未来を描いています」
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