鍵屋15代目が花火修業で鍛えた貪欲さ コロナ禍も「来たか」と動じず
花火の「かぎや~」のかけ声で知られる「宗家花火鍵屋」。のれんを約360年間掲げる老舗の15代目を務めるのは天野安喜子さん(51)です。大学卒業後、家業に入り、他社の花火工場で修業して職人との信頼を築きました。柔道の国際審判員としても活躍する天野さんは、安全性を追求した花火のプロデュースでコロナ禍も乗り越えようとしています。
花火の「かぎや~」のかけ声で知られる「宗家花火鍵屋」。のれんを約360年間掲げる老舗の15代目を務めるのは天野安喜子さん(51)です。大学卒業後、家業に入り、他社の花火工場で修業して職人との信頼を築きました。柔道の国際審判員としても活躍する天野さんは、安全性を追求した花火のプロデュースでコロナ禍も乗り越えようとしています。
目次
鍵屋の創業は江戸時代の1659(万治2)年。初代がアシの管に火薬を練り込んで玉を作り、現在の日本橋横山町で売り始めました。
天野さんは3姉妹の次女として生まれ、子どものころは「お父さん子」でした。14代目の父・修さんが花火の現場を仕切り、柔道場を開いて「館長」と呼ばれる姿にあこがれ、小学校2年生のとき「父と同じ道を歩みたい」と思うようになりました。
初代から14代の間に女性当主はいません。「火を扱う危険な現場で、女性が継ぐということは、代々許されていなかったようです」と天野さん。
ただ両親は「この子でもいいんじゃないか」という柔軟な考えで、天野さんが15代目となる方針が定まりました。
天野さんは修さんが1977年に開いた「天野道場」に姉と入門し、柔道着に袖を通しました。「天野家は父の一言が絶対なんです。『やれ』と言われたら『はい』みたいな。『なんで?』と疑問に思うことはなかったです」
高校1年だった86年、「女三四郎」と呼ばれた、後の五輪銅メダリスト・山口香さんに背負い投げで一本勝ちし、同年の福岡国際女子柔道選手権48キロ級では銅メダルに輝きます。ただ、五輪には手が届きませんでした。
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日本大学を卒業すると同時に、父から「柔道をやめてもいい」と言われ、家業に入ることになりました。
「最後はその言葉を待ちながら練習していました。言われるまでは柔道を続けないといけない。もしそこで期待を裏切ったら、花火の当主を譲ってもらうチャンスも逃すと、勝手に思っていました」
鍵屋では85年から安全対策のために、電気点火器を使った遠隔操作で花火を打ち上げていました。天野さんも大学時代から花火の現場で、配線の手伝いに携わっていたそうです。
学生のころは職人たちが「アッコちゃん」とかわいがってくれ、花火のことを教えてくれました。しかし、家業に入り正式に花火師として現場に出ると、態度が変わったと振り返ります。
「花火は知識と経験がなんぼという世界です。15代目を継ぐかもしれないけど、『だから何なんだよ』と。花火師としての立ち位置が(他の職人と)同じになり、私の人間性が問われていたと思います」
当時は、周りに認めてもらいたいという一心で仕事をしていました。
鍵屋は花火の打ち上げだけでなく、主催者との交渉や演出方法など、花火大会の全体をプロデュースします。中でも仕事の7割程度を占めるのが、製造現場との打ち合わせです。
天野さんは入社早々「製造を知らなければ、お飾りだけの15代目になってしまう」と思い、父に「花火工場へ修業に出たい」と申し出ました。
父からは「危険な現場だから」と猛反対されましたが、天野さんは初めて自分の意見を貫き通しました。
最終的に父が折れ、「それまで取引がなく、安全対策がしっかりしている」という理由で、甲州花火で知られる山梨県の齊木煙火本店で2年間、製造現場を学ぶことになりました。
修業先では「貪欲になることに、目覚めました」と言います。当初は齊木煙火本店の職人に質問しても、「鍵屋なら分かるだろう」という態度を取られたそうです。
そこで天野さんは思いました。「教えてくれないなら技術を盗めばいい」
職人が花火玉に火薬粒を詰める様子を見て、部屋に戻るとノートに書くことを繰り返しました。返事がかえってこなくても、職人へのあいさつは続けました。
天野さんには、実家と柔道生活で教え込まれた心構えが根付いていました。
「家を出たら360度鏡があると思って生活しなさい、という教育を受けて育ちました。裏表のある人間になってはいけないという意味です」
貪欲で誠実な姿勢は、工場長の心を動かしました。「安喜子は何に対しても一生懸命だから、俺が教える」と認められ、修業を終える頃には「5年、10年かかる内容を、すごく短い時間で吸収した」とほめられました。
家業に戻ると、職人たちの目線が変わりました。
修業前、演出を担う天野さんがたとえば「夏の絵日記をテーマに、ソフトクリームの形をした花火を作れますか」と尋ねても「難しいなぁ」の一言だけでした。
修業を経て、花火製造の知識がつくと「こういう星(火薬の粒)の詰め方なら、表現できるのでは」と、会話のキャッチボールができるようになりました。
目線合わせができるようになったことで、職人の本音を耳にすることも多くなり、一緒に解決まで導けるようになりました。
「私も職人も『お客様に喜ばれたい』という思いは同じ」と天野さん。今では花火で「グー・チョキ・パー」を表現して、花火大会中に観客とじゃんけん大会をすることもあるそうです。
2000年に15代目を襲名する少し前、天野さんが「覚悟が決まるターニングポイント」と振り返る出来事がありました。
ある花火大会で打ち上げの責任者が急病となり、急きょ現場責任者を務めました。ところが電気回路が断絶するトラブルが発生したのです。
このままでは予定の半分も打ち上げられず、中止にしたら信用を失います。職人と無我夢中で回線を修復し、開催にこぎつけました。
「実は父が知らないところで『安喜子の言ったことに従ってくれ。責任はすべて私が持つ』と職人さんたちを説得してくれていたようです」
以来、職人たちは何かあると「アッコ、どうする?」と判断を求めてくれるようになりました。
天野さんは柔道のトップ審判員としての顔を持ちます。
20年12月には、東京五輪への出場権をかけた男子66キロ級代表決定戦の主審も務めました。
阿部一二三、丸山城志郎の両選手による熱戦は24分間にも及び、最後まで冷静に裁く天野さんの姿はメディアでも話題になりました。21年の東京五輪でも審判を務めました。
審判員になったのも、修業先に出ていたとき、東京都柔道連盟の役員だった父から「女性の審判員を育てようと思っている」と言われたのがきっかけでした。
天野さんは少し驚きましたが、「白黒をはっきりつけることが好き」という性格が、決断を後押ししました。
国際柔道連盟審判員の資格も取得し、08年の北京五輪に日本人女性初の審判員として、畳に上がりました。その前後の数年間が、最も多忙でした。
一方、日中は花火師としての仕事に励み、子育てもしながら、大学院や柔道整復師の専門学校にも通っていました。「時間の使い方がうまくなったと思います。忙しいと、頭の回転が早くなるんです」
鍵屋の事業形態はイベント会社に近いようです。社員のほかにも花火製造の協力工場を抱え、新型コロナウイルスが流行する前は、自治体や実行委員会などの主催者から依頼を受ける形で、主に関東地方で年間10件近くの仕事を請け負っていました。
大会の総合プロデュースを担う鍵屋は、打ち上げ中に流れる音楽の選曲や、音響機器の発注も任されています。演出以上に大切にしているのは、安全性と「鍵屋なら安心して任せられる」という主催者からの信頼です。
鍵屋ではまず、花火の点火を遠隔で行い、職人の安全を保っています。遠隔操作もコンピューターによる自動化ではなく、天野さんが手を振り下ろすと同時に職人がボタンを押して点火させる「手動式」にすることで、万が一トラブルが起きた場合でも、すぐに打ち上げを止めることができます。
花火玉を打ち上げるための筒は、1本に対して「きちんと固定されているか」を計6度確認。「上に真っすぐ打ち上がっていけば、大きな被害は防げます」と、天野さんは語ります。
「花火のエキサイティングさを求めすぎると、安全性がおろそかになります。安全を第一とした仕事が、信頼につながるのです」
天野さんはかつて経営を学び、「全国にフランチャイズ展開をしたら、もっと利益を出せる」という案を父に進言したこともあるといいます。そのとき、父からは「お前は、鍵屋のことを分かってない」と寂しそうに言われました。「父の言葉の意味が今は分かります」
コロナ禍で、20年以降の花火大会はほぼすべてが中止に追い込まれました。
江戸川河川敷で1万4千発を打ち上げる江戸川区花火大会・市川市民納涼花火大会も、2年連続で中止に。それでも天野さんにとって、コロナ禍が世界を襲ったときの第一印象は「来たか」だったそうです。
約360年間続く鍵屋の歴史をひもとくと、江戸から明治時代にかけてはコレラが流行し、その後も関東大震災や太平洋戦争を経験しています。
「コレラのときは、将軍の命で慰霊のために花火が打ち上げられたそうです」。幼い頃から、家業が様々な苦難を乗り越えたことを知らされていたため「私たちの時代にも、何かが起きるかもしれない」という心構えがありました。
コロナ禍だからこそ、収束への願いを込めた花火が必要でした。「火は古くから『物事を浄化する』という言い伝えがあります。音楽をつけず、ほぼ同じリズムで打ち上げる花火を、鍵屋が主催して江戸川で打ち上げました」
天野さんは、「女性の後継ぎにとって今はチャンス」と語ります。
「今後、さらに女性のトップが増えることが予想されます。今はその前だからこそ、何かを発信して社会に影響力を与えるチャンスだと思っています」
また「女性であることを忘れてはいけない」とも説きます。
天野さんは子どもの頃から柔道に励み、家業でも男性ばかりの職人衆の中で育ちました。あるとき花火現場で、いすに座って前かがみになり、両ひじを両ひざに乗せて職人に話しかけたところ、母親から「その態度はおかしい」と諭されたそうです。
「所作を含めて、『女性としての意識を忘れてはいけない』と教えられました。男性と女性がお互いを意識しながら、それぞれの特性を認め合うことも大切だと感じています」
天野さんは鍵屋初の女性後継ぎとして、のれんを守り続けます。「コロナ禍で他の人との交流が減り、感情を表現する機会も減ったと感じています。花火を通じて、喜怒哀楽を豊かにできる環境を作りたいと思っています」。コロナ禍で花火そのものを再定義し、今後の演出に生かす覚悟を持っています。
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