目次

  1. 小学2年生で「父と同じ道を」
  2. 「女三四郎」も破った柔道時代
  3. 「知識と経験がなんぼ」の世界で
  4. 父を説得して花火工場で修業
  5. 工場長の心を動かした姿勢
  6. 職人たちの目線が変わった
  7. 覚悟が決まるターニングポイント
  8. 柔道の国際審判との両立
  9. 安全第一の姿勢が信頼に
  10. コロナ禍にも動じぬ心構え
  11. 女性後継ぎは今がチャンス

 鍵屋の創業は江戸時代の1659(万治2)年。初代がアシの管に火薬を練り込んで玉を作り、現在の日本橋横山町で売り始めました。

 天野さんは3姉妹の次女として生まれ、子どものころは「お父さん子」でした。14代目の父・修さんが花火の現場を仕切り、柔道場を開いて「館長」と呼ばれる姿にあこがれ、小学校2年生のとき「父と同じ道を歩みたい」と思うようになりました。

 初代から14代の間に女性当主はいません。「火を扱う危険な現場で、女性が継ぐということは、代々許されていなかったようです」と天野さん。

 ただ両親は「この子でもいいんじゃないか」という柔軟な考えで、天野さんが15代目となる方針が定まりました。

鍵屋13代目が着ていたという印半纏

 天野さんは修さんが1977年に開いた「天野道場」に姉と入門し、柔道着に袖を通しました。「天野家は父の一言が絶対なんです。『やれ』と言われたら『はい』みたいな。『なんで?』と疑問に思うことはなかったです」

 高校1年だった86年、「女三四郎」と呼ばれた、後の五輪銅メダリスト・山口香さんに背負い投げで一本勝ちし、同年の福岡国際女子柔道選手権48キロ級では銅メダルに輝きます。ただ、五輪には手が届きませんでした。

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