目次

  1. ニックネームは「角煮」
  2. 自動車レーサーの夢を絶って家業に
  3. 社長就任で社内がざわつく
  4. チリで起きた大ピンチ
  5. 経費削減がコロナ禍で裏目に
  6. ハンコを押して変わった意識
  7. 奇策が売り上げの起爆剤に

――子どものころは、家業についてどう思っていましたか。

 会社近くのアパートで暮らし、父母も家業を手伝っていました。いわゆる「鍵っ子」で、3歳下の妹と一緒に父母の帰りを待つ日々でした。小学校高学年ぐらいまで、家族旅行や外食をした思い出がありません。当時の主力商品はギョーザと肉まんで、会社で余ったギョーザが食卓にのぼることもしょっちゅうでした。

子どものころの岩崎さん(岩崎食品提供)

――昔は角煮まんじゅうが主力ではなかったのですね。

 中学生のころ、テレビ「ズームイン!!朝!」で角煮まんじゅうが紹介されると注文が殺到し、会社の電話が鳴りやまなくなったそうです。それまで角煮まんじゅうは、長崎県外のデパートの催事販売が中心でしたが、テレビに出てからは県内の知名度も上がり、看板商品になりました。私が地元の商業高校に進学すると、クラスでは「角煮」のあだ名で呼ばれました。

――高校卒業後、すぐに家業に入社したのですか。

 16歳でバイクの免許を取得し、その後自動車レースに熱中しました。フォーミュラ4カテゴリーで英国のレースにも参戦し、機械工学を学ぼうと地元の大学に進学しました。でも、数学の授業についていけず、徐々にレースにも身が入らなくなります。見かねた父から「レースを続けるか、家業を継ぐ覚悟で調理師を目指すか、どちらかに決めなさい」と告げられました。それで大学を中退して上京し、調理師学校に入学しました。

東京にいたころの岩崎さん(後列右から2番目、同社提供)

――東京にはどれぐらいいたのですか。

 5年です。1年で調理師免許を取得し、その後都内の焼き肉店に勤務しました。焼き肉店では、調理の下積みや肉の目利きの他に、味にこだわる料理人たちへのまかない作りが勉強になりました。就職から4年後に父から「長崎に帰って来なさい」と言われUターン。25歳で家業に入社しました。

――入社して、初めに何を任されましたか。

 催事の担当です。デパートでの物産展や、店舗販売を経験しました。すぐに、従業員がお客様に出す試食品の扱いかたが気になりました。調理師の感覚だと、製造部門が作った角煮まんじゅうをおいしく食べてもらいたいのに、販売の現場では単なる販促ツールとして扱われていました。試食用に雑にカットされ、失敗するとポイポイ捨てられていたのです。捨てるところなく試食してもらうための工夫をしよう、と従業員に働きかけました。

岩崎食品の角煮まんじゅう(同社提供)

――29歳で常務に就任しました。仕事に変化はありましたか。

 現場の仕事だけでなく、経営領域の会議を始めました。それまで社内では事業計画や売り上げ目標もなく、父が全てを取り仕切っていました。というよりも正直、どこまで管理されていたのかもわかりませんでした。会議メンバーは、まずは役員のみとし、徐々に店長や副店長といったマネジメント層にも広げていきました。

――会議では何を話し合ったのですか。

 目標設定や日程管理、職場の雰囲気づくりです。それまでは何か施策を打つにしても、「いつまでに」がなかったので、3日で完了する従業員もいれば、1カ月経っても反応がない従業員もいました。それを「何を」「誰が」「いつまでに」を明確にし、進捗を管理するようにしていきました。

――2017年、32歳で社長に就任しました。きっかけは何でしたか。

 突然父から「社長を交代して」と言われました。父自身が35歳で事業承継しており、私も継ぐのはそれぐらいだと思っていたので、実質3年の前倒しです。驚きましたが、常務就任後の私の意識や行動の変化を、成長ととらえてくれたのだと受け止めました。

社長就任直後、新入社員歓迎会の岩崎さん(前列中央、同社提供)

――従業員の反応はいかがでしたか。

 社内はざわつきました。皆、父に頼っていたので、この先どうなるのか心配だったと思います。私も当時は、従業員とそれほど深いかかわりを持てていませんでした。

――社長就任後、最初に何を手掛けましたか。

 正直、何をしたらいいのかわかりませんでした。父は相談役に就任したものの、引き継ぎがなかったからです。そんななか、角煮まんじゅうの材料に欠かせない「アンデス高原豚」を扱うチリの取引先から突然、「取引を打ち切りたい」と連絡がありました。

――突然の取引打ち切り連絡、原因は何だったのでしょうか。

 当時、中国や韓国が豚肉の買い付けに走っており、うちよりも高値での取引が見込めたからだと思います。うちにとっては看板商品の角煮まんじゅうが作れなくなる大ピンチでした。社長就任3カ月後のことです。

アンデス高原豚

――いきなりの大ピンチですね。どう対応したのですか。

 すぐチリに飛んで交渉しました。日本で消費される豚肉の約半分は輸入品で、そのなかでもアンデス高原豚は、高い品質管理が徹底されています。取引先がまだ無名のころから、父が世界各地を訪問して見つけた会社でした。取引開始直後は父が毎年チリに出張して顔を合わせていましたが、安定供給されるようになってからは7年ほど、誰も行っていませんでした。

――お互いに顔が見えなくなっていたのですね。

 営業部門の発案で、「アンデス高原豚が角煮まんじゅうになってお客様に届くまで」をアルバムにまとめ、持参しました。うちがチリ産の豚肉を日本でPRしていることも説明し、供給継続にこぎつけました。

チリの取引先「アグロスーパー」社と。左から4番目が岩崎さん(同社提供)

――社長就任から2年目には何をしましたか。

 1年目の業績がなんとか無難にまとまったので、2年目は数字で結果を出したくなりました。何をしたかというと、経費の削減です。

――どの領域の経費を削減したのですか。

 広告宣伝費です。金額的に目立つ、地元向けのテレビCMをカットしました。それで2018年度決算(2018年6月~2019年5月)の業績は、売り上げが微減したものの、利益は微増となりました。当時の私は、広告宣伝費をカットするのは簡単だし、「結果が出せた」と思いました。でもそれは、大きな誤解だったのです。

――そこからコロナ禍になったのですね。

 観光客が減り、デパートの催事も中止になったことで、売り上げが半減しました。会社の資金繰りも急激に悪化し、内部留保(利益剰余金)がみるみる目減りしていきました。地元のテレビCMをカットした影響で店舗販売も思うように伸びず、1965年の創業以来初の赤字になりました。2020年春の緊急事態宣言下で店舗も休業になりました。

――大変でしたね。

 角煮まんじゅうの在庫の山を見て「どうすればいいのか」と悩む日々でした。内部留保も底を突き、コロナ禍の影響を受けた企業向けの特別貸付制度で、融資を受けることになりました。

角煮まんじゅうの在庫のイメージ(同社提供)

――どれぐらいの融資を受けたのですか。

 1億5千万円です。約3カ月、150人ほどの従業員に仕事がなくても給料が支払える規模でした。先が全く見えないなかでの借金で、不安しかありません。でも、借用書にハンコを押したときに、自分の意識が変わるのを感じました。

――どう変わったのでしょうか。

 「もっと自分のカラーを出していこう」という意識です。それまではどこか、父や従業員に遠慮した経営をしていました。彼らが積み上げてくれた内部留保も尽きてしまい、いよいよ自分でなんとかするしかないと腹が決まりました。

――腹が決まり、何をしましたか。

 看板商品の角煮まんじゅうで、「5個入りを1袋買うと、もう1袋ついてくる」というキャンペーンをネット通販で実施しました。在庫が5万個(1万袋分)あり、販売期限の40日が迫っていました。売れずに廃棄するよりも、誰かにあげて喜んでもらえればという思いでした。

――社内の反応はいかがでしたか。

 社長就任時よりもざわつきました。今までやったことがない、事実上の半額セールだったからです。「お客様に喜んでもらったり、他社のアイデアのきっかけになったりすればいいと思う」と話すと、特に反対意見もありませんでした。

――どのように売れたのでしょうか。

 ツイッターで告知したものの手ごたえがないまま2週間が経ち、「次の手を考えねば」と思った矢先に突然バズり、一気に売れました。発送にあたっては、休業中だった製造部門や店舗販売の従業員がみんなで梱包作業を手伝い、社内の連帯感も生まれました。5万個あった在庫が、10日ほどでなくなりました。

キャンペーン(第2回)のツイート

――プレゼントキャンペーンが起爆剤となったのですね。

 さらに2020年7月には、東京が「Go Toトラベル」の対象外となったことを受け、東京在住の顧客に向けて「暑中お見舞い」として角煮まんじゅうを贈りました。

――すごいですね。反響はいかがでしたか。

 お礼の電話や、300通ものお礼の手紙をいただきました。加えて、8月のネット通販売り上げが、前年の3倍になりました。当初は「コロナ禍は夏までのがまん」だと思っていたものの先が見通せなくなり、社内も「思い切ってやりたいことをやろう」という雰囲気になっていきました。

岩崎食品に届いたお礼の手紙(同社提供)

後編では、パックマンとのコラボ商品や地域密着のスポンサー活動、的を絞った人材育成などに迫ります。