145年前の1877年10月10日、日本初の缶詰工場「石狩鑵詰(かんづめ)所」で缶詰の生産が始まりました。

朝日新聞が2019年10月9日夕刊で掲載した石狩灌詰所の缶詰

時代が江戸から明治に変わって10年後のこと。当時の明治政府で北海道の開発を手がけていた北海道開拓使が産業振興策として缶詰づくりに着手しました。

アメリカから缶詰づくりの技術者を招いて指導を仰ぎ、現在の石狩市内、石狩川の河口近くに製缶のための機材を導入。石狩川で豊富に捕れるサケを使って水煮缶をつくりました。

 

日本で缶詰を大量生産するのは初めてのことでした。のちに缶詰メーカーでつくる業界団体、日本缶詰協会(現・日本缶詰びん詰レトルト食品協会)は1987年、この日を「缶詰の日」に決めました。

当時はまだ、缶詰工場を運営できる企業はなく、石狩鑵詰所も北海道開拓使直属の官営工場でした。記録によると、工場の敷地は4200平方メートルあり、缶の材料を加工する鍛冶場や氷室もあったそうです。

缶詰生産はすぐに軌道に乗り、最初の1年間で約1万6000缶(1日あたり約44個)をつくったそうです。東京や横浜などの大きな都市で売られたほか、翌1878年にはアメリカやヨーロッパに向けて輸出もはじまりました。サケだけでなくマスの水煮缶も手がけるようになり、4年目の1880年にはサケ8万7000缶、マス7万2000缶まで生産量を伸ばしました。

当時のサケ缶のラベルがいまも残っています。北海道石狩川産の「さけ」と明記され、「日本の北海道産」、「石狩川のサーモン」を意味する英語表記もあり、輸出も意識していたことが分かります。

 

日本初の缶詰づくりは、1871年までさかのぼります。

長崎在住のフランス人教師から技術を学び、日本で初めて缶詰を作った松田雅典(右から2番目)=朝日新聞社

長崎の外国語学校で働いていた松田雅典氏が、同僚のフランス人教師が常備食としていた缶詰の作り方について、手ほどきを受けたことが始まりでした。最初に挑戦したのはイワシのオリーブ油漬けの缶詰でした。

長崎市内にある「日本最初の缶詰製造の地」の碑=朝日新聞社

このときは試作で終わりましたが、長崎市内にはいまも松田氏の業績をたたえ、「日本最初の罐詰製造の地」と書かれた碑が残っています。後に松田氏は本格的に缶詰づくりの事業を始めます。

 

明治時代は日清戦争や日露戦争など、外国との戦争が絶えない時代でもありました。

長期間の保存ができる缶詰は兵隊向けの食糧としても重宝され、国策として各地に次々と工場がつくられました。

日清、日露の両戦争で日本が勝利し、日本の領土がいまの台湾や北方領土、樺太まで広がると、捕獲できる魚介類の種類が増えたため、マグロやカニ、エビ、カキなどの缶詰も量産されるようになりました。

1933年に台湾で製造された缶詰=朝日新聞社

ほかにも肉類やパイナップル、ミカンなどでもつくられ、日本の缶詰は国内で広く親しまれる大衆食になったほか、多くの企業がアメリカやヨーロッパへの輸出にも力を入れるようになりました。

日中戦争中、中国北部の戦線で缶詰を囲む日本軍の兵士ら=1937年撮影、朝日新聞社

ところが、昭和になって満州事変が始まると、缶詰は軍需品の色合いが強くなり、政府が生産と販売の統制を強化。缶詰の製造が難しい状況は終戦まで続きました。

 

戦後になると、業界は回復。ツナ缶やアメリカ由来のコンビーフなども人気になり、缶詰は再び大衆食になりました。乾パンに象徴されるように、備蓄食としても活用されるようになりました。

店舗に並ぶ缶詰=朝日新聞社

スーパーやコンビニで気軽に購入することができる缶詰。日本缶詰びん詰レトルト食品協会によると、最近は国民1人あたり、1年間に33缶を消費しているそうです。

 

(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年10月10日に公開した記事を転載しました)