目次

  1. 苦難の開発が生んだ「国民食」インスタントラーメン
    1. 炭焼きや製塩、そして敗戦…チャレンジ重ねた末に
    2. 妻の天ぷらづくりが「チキンラーメン」誕生のきっかけ
  2. 国境を越えた「カップヌードル」
    1. 「あさま山荘事件」のテレビ中継が思わぬ"広告"に
  3. カップヌードルは宇宙に、そして歴史に
    1. 91歳で陣頭指揮とった「ミスター・ヌードル」
めんづくりに没頭していたころの安藤百福=1957年ごろ、日清食品ホールディングス提供

巣ごもりや災害時の食糧として真っ先に思い浮かぶのが、いまや国民食となったインスタントラーメン。

「お湯をかければ食べられる麺」の発祥は日本。

いまでは世界中で年間1000億食とも言われる巨大な市場に成長した。

開発したのは日清食品の創業者、安藤百福(ももふく)。

“即席麺の父”とはどんな人物なのか――。

ハレー彗星が地球に大接近した1910年(明治43年)、百福は日本統治下の台湾で生まれた。

幼い頃に両親を亡くし、呉服店を営む祖父母のもとで商売の現場を見ながら育ったという。

22歳で編み物を売る会社を始めると、その後、スライド映写機の原型といえる幻灯機の製造や炭焼き事業、バラック住宅の製造、製塩や学校の設立など、さまざまな事業に手を出した。

 

そして迎えた日本の敗戦。

大阪駅近くの闇市を通りかかった百福は、屋台前で並ぶ長い行列を目にした。

寒空のもと、1杯のラーメンを求める大勢の姿が目に焼き付いた。

 

食糧難の時代。

手がけていた事業に失敗し、次のチャンスを探っていた百福は日本人が麺好きであることを思い起こしていた。

もし、お湯さえあれば家庭で手軽に食べることができるラーメンなんてできたなら、今度は売れるんじゃないか。

闇市で見た行列の長さが百福に大きな可能性を感じさせた。

 

「どんなに優れた思いつきでも、時代が求めていなければ、人の役に立つことはできない」

日清食品がいまも語り継ぐ百福語録の1つだ。

安藤百福がラーメンづくりに没頭した小屋を日清食品が再現=日清食品ホールディングス提供

即席ラーメンの研究所は百福が自宅の庭に建てた小屋だった。

麺を長期保存するにはどう乾燥させればよいのか。

お湯を注いですぐ食べられるようにするにはどんな工夫が必要なのか――。

なかなか結果が出ず、頭を抱え続ける毎日だった。

 

転機は急にやってきた。妻の仁子が台所で天ぷらを揚げている様子をみたことだった。

「これだ!」

天ぷらの原理を応用し、麺を揚げることで長期の保存ができるようになり、調理の手間も省ける製造法を発明した。

 

世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」の発売は1958年(昭和33年)8月。

うどん1玉が6円の時代に、1食35円で売り出した。

それでも、お湯を注いで2分で食べられる手軽さが評判となり、”魔法のラーメン“と呼ばれて大ヒットとなった。

発売当初のチキンラーメン=日清食品ホールディングス提供

おいしさに国境なんてないはずだ。

百福はチキンラーメンを売り込む商機を求め、ヨーロッパやアメリカに視察に出かけた。

1966年(昭和41年)のことだ。

欧米にはどんぶりも箸もない。

スーパーの担当者らは紙コップとフォークを使ってチキンラーメンを試食していた。

 

その様子を見た百福は、再び「これだ!」と胸を躍らせた。

思いついたのは、カップ型の容器に即席麺を入れるアイデアだ。

発泡スチロール製の小型容器、紙とアルミ箔を貼り合わせた上ブタ、フリーズドライ製法の具材……。

世界中で愛される「カップヌードル」が誕生した。

大阪府高槻市にあった本社工場で社員らに檄を飛ばす安藤百福=1963年ごろ、日清食品ホールディングス提供

1971年の発売当初は1食100円。

袋入りの即席麺より4倍高く、安いとはいえない価格だった。

それでも東京・銀座の歩行者天国などで試食販売を続けていると評判となり、若い世代を中心に暮らしのなかに浸透するようになった。

その知名度が一気に広がったのは1972年2月。

長野・軽井沢で連合赤軍が人質をとって立てこもった「あさま山荘事件」がきっかけだった。

日本中が固唾(かたず)をのんでなりゆきを見守った事件現場では、機動隊員らが厳寒の中でカップヌードルを湯気を立てながら食べていた。

その姿が全国にテレビ中継されるとカップヌードルへの共感も広がり、飛ぶように売れ出した。

百福がチキンラーメンの開発に向けて試行錯誤していたころ、友人の実業家にこんなことを言われたそうだ。

「そんなもん、誰もほしがってない。家で作れるラーメンがあったらええなと思ってる奴が、世の中にどれぐらいおんねん」

どちらが正しかったのか。

結果は、歴史が示している。

 

「明日になれば、今日の非常識は常識になっている」

いまは非常識だ、非効率だと顧みられなくても、きっと明日には「常識」になると信じて挑戦するのが起業家だ。

百福の残した言葉にはこんな信念が込められている。

宇宙食向けに開発したラーメン「スペース・ラム」を記者会見で発表する安藤百福=2005年、日清食品ホールディングス提供

2005年(平成17年)7月、アメリカのフロリダ州NASAケネディ宇宙センター。

スペースシャトル「ディスカバリー号」が宇宙に向けて飛び立った。

このシャトルには日清食品のインスタントラーメンが搭載されていた。

宇宙食ラーメン「スペース・ラム」。

百福が91歳の時に開発を宣言し、自ら陣頭指揮をとったインスタントラーメンだ。

 

無重力でもスープが飛び散らないようにとろみをつけ、麺は一口で食べられる大きさや形にした。

初めて宇宙でラーメンを食べた人類は、日本人宇宙飛行士の野口聡一。

野口聡一宇宙飛行士と固い握手を交わす安藤百福=2005年、日清食品ホールディングス提供

「地球で食べるインスタントラーメンの味がびっくりするぐらい再現されていた」

国際宇宙ステーションからの中継で、野口はこんな報告を百福に、そして全世界に届けた。

 

日本だけでなく、世界の、そして宇宙の食を変えた百福は、2007年1月5日、96歳でその生涯を閉じた。

そのニュースは世界を駆けめぐった。

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は「ミスター・ヌードル」と呼び、世紀の発明をたたえる心のこもった社説を掲げた。

96歳の誕生日を妻の仁子、ひ孫と祝う安藤百福=日清食品ホールディングス提供

インスタントラーメンやカップヌードルを製造販売するライバルは世界中に増えたが、百福がのこした「日清食品」や「NISSIN」の存在感、輝きは色あせることはない。

 

日清食品ホールディングスは2021年3月、香港の中心街・尖沙咀(チムサーチョイ) に「カップヌードルミュージアム 香港」を立ち上げた。

カップヌードルや食の楽しさについて学べる展示施設で、大阪府池田市、横浜市に続く世界3カ所目の体験工房だ。

「安藤百福創造力之旅」(安藤百福のイノベーションの軌跡)というコーナーでは、百福の苦闘や功績がたっぷりと紹介されている。(敬称略)

 

(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年4月12日に公開した記事を転載しました)