海岸の砂を口にした1歳の娘は、砂を「みつめていた」
「自分なりの視点」で世界を見つめ、「自分なりの答え」を生み出す“アート思考”がビジネスの世界で必要な力になりつつあります。美術教師の末永幸歩さんがアート思考を身につけるためのレッスンを展開します。今回は直感的な「みつめ方」について考えます。
「自分なりの視点」で世界を見つめ、「自分なりの答え」を生み出す“アート思考”がビジネスの世界で必要な力になりつつあります。美術教師の末永幸歩さんがアート思考を身につけるためのレッスンを展開します。今回は直感的な「みつめ方」について考えます。
こんにちは。美術教師の末永幸歩です。
物事を新たな角度でみつめ直す「アート思考のレッスン」へようこそ。
みなさんは普段、目の前のものを「みつめる」ことをしていますか?
たとえば、路面に生息するタンポポの綿毛に向き合ったことはありますか?
おそらく、目を向けたとしてもほんの一瞬。「綿毛だ」と認識しただけで、あたかも理解したつもりになって、素通りしてしまうという方がほとんどではないでしょうか。
これでは「みつめた」とはいえず、わずかな「視覚」や「知識」を通して「みた」に過ぎません。
また、物事をみつめるための手段は、視覚や知識のほかにも存在します。
さて、今回も一枚の絵を見ながら、「みつめる」ことについて考えていきましょう!
こちらは私が2歳のときに実際に描いた1枚の絵。私はこの絵を「おもちつき」と名付けたそうです。
いかがでしょうか。正直なところ、単なるなぐり描きにしか見えませんよね。2歳であっても、子どもによっては見た目にも「お餅つきらしい絵」が描けそうです。
当時の私は一体なぜ、このようなお餅つきを描いたのでしょうか。
実は、この絵を描いた数日前に、人生ではじめてお餅つき会に行きました。そのときの私にとって、お餅をつくたびに聴こえる「音」が、臼や杵といった視覚的なもの以上に、印象深かったのです。
だからこそ、自宅でマーカーを紙に叩きつけたとき、その音が、お餅つきの音と重なっていったのではないでしょうか。
夢中になってその音を鳴らしていたら、目の前にこの絵が生まれていた……このように考えることができそうです。
つまり、当時の私にとっての「お餅つき」は単に「視覚」で見ただけではなく、「聴覚」も通してお餅つきをみつめていたということになります。
大人が「視覚」や「知識」を通して物事を客観的にみつめるのとは対照的に、小さい子どもは「聴覚」や「触覚」といった感覚を通して、直感的に物事を捉えます。
最近の体験でいえば、娘が1歳になる少し前のことです。
旅先の海岸で、娘が砂を口に入れてしまったことがあります。すぐに吐き出すだろうと思っていたのですが、何度も口に運んでいました。
なんでも舐めてしまう月齢ではありましたが、気に入らないものは一度しか口にしません。
「砂を食べちゃダメだよ」と言いたくなった半面、「どこが気に入ったのだろう?」と気になって、私も思い切って砂を口にしてみました。
舌で出会う砂は、想像していたジャリッジャリとした嫌な食感とは異なり、まるで高級なジェラートのようになめらかな感触をしていました。
また、予想に反して「しょっぱさ」はまったく感じられず、「味がなく食感だけがある」という不思議な感覚でした。
飲み込んでしまわない限り、このように心地よいものを口にしてはならない理由は見当たらないとすら思えました。
舌をとおしてみつめた砂は、視覚で捉えていた「サラサラしていそう」とも、知識で捉えていた「食べたらジャリジャリしているだろう」「しょっぱさ」とも異なる一面を持っていました。
ピカソの言葉にこのようなものがあります。
「私はかつてラファエロのように描いていた。しかし子どものように描くのに一生涯かかった」
ラファエロというのはルネサンス期の画家で、遠近法を用いた正確な絵画で知られています。
ピカソは幼い頃から絵の才能を認められ、美術学校では写実的な絵画で頭角を現しました。そこではラファエロがしたような「科学的なみつめかた」を習得していたわけです。
では「子どものように描くのに一生涯かかった」とはどのようなことでしょうか。ピカソのような力量があれば、子どもの描き方を真似ることなど朝飯前であるはずです。
そのように考えると、ピカソが意味した「子どものように描く」とは、単に「表面的に子どもっぽい絵を描く」ということではなく、「子どものように物事を違った角度から捉えて描く」ということであるはずです。
詩人のシャルル・ボードレールは、子どもを「近代の画家の純粋な原型」と呼びました。ピカソを始めとする近代の画家たちが目指したのは、子どもがするように物事をみつめることだったのです。
冒頭で、タンポポの綿毛を例に出したのには理由があります。
海辺の砂の新しい側面を教えてくれた娘が、もう1つ気にいってよく口にしていたのがタンポポの綿毛だったからです。
綿毛を手渡したときにはいつでも、まるで綿あめをもらったかのように嬉しそうに口に入れ、その食感を楽しんでいるようでした。
このコラムを書くにあたり、そのことを思い出した私は、「娘がみつめたタンポポの綿毛はどのようなものだったのだろう?」と想いを巡らせました。
しかし、いくら考えても体験してみないことにはわからないので、自転車で近所を回り、綿毛を探しました。
しかし、1ヵ月前まで道端にたくさんあったはずの綿毛は、すっかり姿を消していて、結局見つけることはできませんでした。
娘が舌を通して綿毛をみつめていた間、何度もチャンスがあったにもかかわらず、私はやはり、わずかな視覚と知識だけでわかった気になり、ただの一度も、綿毛に向き合おうとしていなかったことが悔やまれました。
舌を通して出会う綿毛は一体どのようなものだったのでしょうか。
物事のみつめかたを変えれば、異なる側面を知ることができます。
「今見えているものは絶対ではないのかもしれない」
という視点に立ってみることは、アート思考をする上で欠かせません。
あなたも、いつもと異なる方法で物事をみつめてみてはいかがでしょうか。
(朝日新聞社の経済メディア「bizble」で2021年7月10日に公開した記事を転載しました)
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