印染とは、文字や家紋、絵柄などを染め抜く伝統技法と、その技法で作られた染織物(そめおりもの)を指す言葉です。白く残したい部分に糊(のり)を置き、それ以外の部分に刷毛(はけ)で色をつけていきます。乾燥させた後、糊を落とすため水洗いして仕上げます。
昌大さんは4代目の父・洋一郎会長(79)から印染の技を受け継ぎ、大漁旗や五月のぼりを始め、印染製品全般を作っています。従業員は4名。パソコンでデザインし、プリンターでポリエステル繊維を染める「デジタル染色」も手がけます。ただ、亀崎染工の主力商品は今も、オーダーメイドの印染製品です。
昌大さんが後を継いでからは印染の技法を活用した新商品開発に着手し、SNSでの情報発信にも取り組みます。バッグやクッションなどの小物、室内に飾れる額入りの鯉のぼりや祝い旗を生み出し、全国各地のイベントや催事で販売しています。
海外でも印染の需要があるかどうかを探りたいと、コロナ禍以前は毎年のようにフランスや台湾、香港のイベントや展示会に参加してきました。こうした活動が知られるようになり、海外からの問い合わせや注文、コラボレーションの打診が多数寄せられるようになっています。
「お前は後継ぎ」に反発 大学入試は白紙で提出
「印染の伝道師」のような活躍ぶりの昌大さんですが、すんなりと家業を継いだわけではありませんでした。物心ついたときから「お前は後継ぎだ」と家族から言われ続け、反発したこともありました。
「自分の希望がないもの扱いされるのが嫌でしたね。親父は『後を継ぐにしても大学へ行け。大学で遊んでこい』と言うんです。私なりに考えた上で『それなら染色を学べる京都工芸繊維大学を受ける』と言ったら、『いずれ染め物の勉強はすることになる。普通の大学に行け』と言われました。当時の私は意味を見いだせず、進学するのが嫌になってしまいました。今となれば、家業を継ぐ前に外の世界も見ておきなさいという親心だったと理解できますが……。印染なんて大っ嫌いだ、この仕事だけは絶対にしない、と思っていました」
昌大さんは反発心から大学受験で白紙の答案を提出し、就職先も決めませんでした。高校卒業後は実家を離れ、親戚のいる神奈川県鎌倉市で1人暮らしを始めます。洋一郎さんから「2年経って、先が見えないときは後を継げ」と言われて送り出されました。
車に興味があり、レーサーになりたいと思った昌大さんは、ガソリンスタンドでアルバイトを始めます。運転免許を取って車を買い、仕事終わりに車好きの人たちと走りにいく生活が始まりました。しかし、どうすればレーサーになれるかは分からないまま、あっという間に2年が過ぎました。洋一郎さんとの約束通り、鎌倉から引っ越し、岐阜県の吉田旗店で修行することにしたのです。
吉田旗店は相撲のぼりで全国シェア1位の染物店で、当時は40人ほど従業員がいました。社長が全国青年印染経営研究会の会長を務めていたこともあり、全国から染物店の後継ぎたちが修行のため集まっていました。
「子どものころから手伝わされていましたから、飲み込みは早くて一通りのことはできていたと思います。相撲のぼりを染めるのは嫌いじゃなかったですね。同じ境遇の同世代の人たちと仕事をするのも楽しかった。でも、仕事に対する熱意はなかった。生活のための手段としか思っていなかったし、まだ他の仕事に就くことも諦めていませんでした」
岐阜で3年半修行した後、昌大さんは鹿児島に帰り、父・洋一郎さんのもとで働き始めます。しかし、帰郷後1年ほどで印染の仕事をやめようと思ったそうです。
「元々やりたいことじゃないから仕事に身が入らないし、遅刻をしたりする。真面目に取り組んではいなかったですね。そうなると親父もいらだって小言を言ってきます。僕からすると、せっかく帰ってきてやったのに給料は少ないし、文句を言われるしでおもしろくない。ある時、『もうやめるわ』と言ってバイトを探し始めました」
岐阜ではできていた仕事が、鹿児島に帰ってきてからうまくいかなくなったことも昌大さんをいら立たせました。
「印染の出来にはいろいろな要素が影響します。岐阜と同じようにやろうとしても、気候も水も違います。材料や資材も違い、自分の感覚で作業すると、どうしてもうまくいきませんでした。岐阜で3年半、曲がりなりにも仕事を覚えてきたつもりでいたので焦りましたね。親父はいつも通りクオリティーの高い商品を作り出しているのに、思い通りのものが作れないことにイライラしました。未熟だったので『なぜこういうやり方をしないのか』と親父に意見してしまったこともありました」
そんなとき出会ったのが、妻のゆかりさんです。結婚するなら、アルバイトを探してフラフラしているより、家業を継ぐと言ったほうが向こうの親御さんも安心してくれるだろう、と昌大さんは考えました。「動機が何であれ、ちゃんとやらなきゃいけないな」──。昌大さんはバイト探しをやめ、家業を継ぐと決心したのです。
「なんて素敵な仕事だろう」心変わりの理由
昌大さんは印染の仕事に打ち込み始めます。洋一郎さんは職人気質で「見て覚えろ」のタイプ。昌大さんは言いたいことがあっても我慢して、ひたすら洋一郎さんの背中を見て仕事を覚えました。昌大さんが素直に教えを請うようになると、アドバイスをもらえる関係も、次第に生まれていきました。
そのうち、昌大さんの印染に対する考え方は変わっていきました。「なんて素敵な仕事だろう」と心から思うようになったのです。
「僕たちの作る大漁旗や五月のぼりは、お祝い事のための商品です。お客さんは自分のためでなく、贈る相手を思い、お祝いするために注文する。僕らはお客さんが『これだったら自分の気持ちを込められる』『自信を持って相手にプレゼントできる』と思えるような、美しい『うつわ』を作らないといけません。そんな素敵な商品なのに、自分が嫌々作っていてはだめだ、と気がついたんです」
2004年、31歳になった昌大さんは父・洋一郎さんに代替わりを求めます。「決定権がほしい。代わってくれないか」。機材の導入や更新を素早く進めたいと考えたことがきっかけでした。
「そのころ業界では(描画ソフトの)イラストレーターを導入して、旗やのぼりの原稿をデータでやりとりすることが増えていました。親父は業界でもいち早くパソコンとカッティングプロッター(シート状の素材をカットする機械)を導入しましたが、僕が岐阜から帰ってきたときには、ソフトが古くなり、使いにくい状態でした。父が社長だと、課題を感じた僕が次の一手を打つのにどうしても時間がかかる。パソコン1台買うにも説明がいりますし、必要性を理解してもらわないといけない。これではお客さんの要望にスピーディーに応えられない。それで生意気にもこちらから代替わりを提案しました」
洋一郎さんは「わかった。そげんしてみらんか(そうしてみなさい)」と言ってくれました。昌大さんはついに亀崎染工の5代目となったのです。
大漁旗や五月のぼりは不振 利益をどう残すか
継いでから最も苦労したのは、利益をどう残すかでした。亀崎染工の主力商品である大漁旗と五月のぼりは、どちらも受注数が減少傾向にあるからです。
新しく船を造った船主さんに友人や取引業者が贈る大漁旗は、父・洋一郎さんの時代には年間600〜800本ぐらいの注文がありました。しかし現在、燃料費高騰や不漁の影響などで新たに船を造る漁師が減り、大漁旗の注文もかつての3分の1ほどに減少。五月のぼりも「庭がない」「上げ下げが面倒」「子どもの名前を知られたくない」といった理由で右肩下がりが続きます。
安くすれば売上が増えるだろうと考え、数が見込める交通安全や火の用心ののぼりといった商品の単価を下げ、受注を増やしたこともあります。売上は確かに大きく伸びました。
「でもそうすると、今度は利益がなくなってしまう。お金と仕事が目の前を流れていくだけで、何も残るものがないなと反省しました。ただ染めていればいいわけじゃない。仕入れや支払い、従業員の給料のことを考えてお金を動かすことが、こんなに難しいとは思いませんでした」
インターネットの存在も経営を難しくしています。顧客がインターネットで全国各地の染物店やプリントショップの価格を調べやすくなり、「この価格で、これと同じデザインを」と言われることが出てきました。手作業の印染と、プリンターで仕上げるデジタル染色の違いを知らない顧客も増えています。
「印染の大漁旗や五月のぼりはオーダーメイドの一品物ですから、店によって文字の癖があり、絵柄も少しずつ異なります。それが店の個性なんです。価格は、サイズや絵柄、加工方法に応じて、どれだけ手間がかかるかで決まります。祖父の時代には『銭のことはよかで、良かとを作っくいやん(お金のことは気にしないから、いいものを作って下さい)』とお客さんから依頼され、染師は自分たちの持てる技術を目一杯注ぎ込んでお渡ししていたと聞きます。ところが今は、県外の染物屋さんのホームページをプリントアウトして、『これと同じものを同じ価格で作って』と言われることもある。一品物だから同じものは作れないし価格も違う、他の職人さんの絵柄を勝手にまねたくもない、と説明してもなかなか理解されないこともあります」
高付加価値の「自分の土俵」を求めて
印染の伝統技術を守りながら、昌大さんはパソコンやデザインのソフト、大型プリンターも導入。伝統技術とデジタル技術を使い分けながら、お客さんの要望に応えてきました。しかし、機械があれば誰でも作れる安価な商品を売っているだけでは、利益を生み出すのに限界があります。
「よそと比較されない、自分たちの土俵を作って勝負しなければ利益は見込めません。そのためには一つひとつ手仕事で染めた付加価値の高い商品、お客さんがほしくなる商品が必要だと考えました」
こうして立ち上げたのが亀崎染工の新ブランド「亀染屋(かめそめや)」と「祝の印(いわいのしるし)」です。
「亀染屋」は印染をもっと日常生活で使ってもらえるよう、企画、製作、販売まで自社で手がけるブランドです。風呂敷や手ぬぐいを縫い合わせて袋状にする「あづま袋」を応用した「あづまバッグ」、鹿児島らしい柄のクッションやチャーム(飾り)、風呂敷、Tシャツなどの商品があります。
「祝の印」はグラフィックデザイナーとコラボした商品です。大漁旗や五月のぼり、鯉のぼりを現代風にアレンジし、室内でも飾りやすいサイズで展開しています。これらの新商品を催事で販売するようになってから、亀崎染工や印染の認知度が上がり、ファンが増えつつあるといいます。
「新ブランドが入り口になり、伝統的な印染製品を注文してくれるお客さんも出てきました。五月のぼりを頼みに来店し、室内に飾れる『祝の旗』に魅力を感じてくれるお客さんもいます。名入れのできる『額入り鯉のぼり』が特に人気です。最近では、弟が生まれたからもう1枚ほしいというお客さんもいて、うれしいですね」
新ブランドの商品は数々のコンクールで受賞を果たしています。しかし、昌大さんはまだ満足していません。
「いろいろな商品を作ってみたからこそ、ここが着地点ではない、まだ商品を磨く余地があると分かりました。今、染料メーカーにアドバイスをもらいながら、新しい素材での染色方法も模索しています。素材も染料も選び抜き、しっかり手をかけた一品物を、印染ならではの白い部分を残す表現で追求したい。最終的には僕が線を引いたもの、僕が染めたものにファンがつくような商品を作れたらと考えています」
一連の取り組みを通じ、思わぬ副産物もありました。募集していないのに、20代の若者から「働かせてほしい」と連絡が来るようになったのです。
「若い人たちが亀崎染工を通じて印染に興味を持ち始めていることをうれしく思います。今いる社員も、飛び込みで『働きたい』と連絡をくれて採用しました。ただ、うちはあくまで印染のオーダーメイドが主力商品です。新ブランド商品ばかり作れませんし、印染は体力的にもきつい仕事です。若い人には『まずは1度、工場に遊びにおいで』と伝えています。現場を知ってもらった上で、マッチングできればと思っています」
伝統をつなぐため「常にパイオニアであれ」
新ブランドを立ち上げてから、昌大さんは海外のイベントや展示会に参加するようになりました。印染に対する反応や需要を探るためです。
「海外で高い評価を得れば、日本でも再注目されるのでは、という狙いもありました。世界を周遊するクルーズ船の中でワークショップをしたいという依頼なども届き始めていたのですが、コロナ禍で全てキャンセルになってしまいました」
コロナ禍の打撃は大きかったといいます。国内各地の祭りやイベントが中止され、のぼりや旗、法被、手ぬぐい、浴衣などの注文が途絶えてしまったのです。
現在、祭りやイベントは再開しつつありますが、受注は十分に回復していません。コロナ後のインバウンドを含めた旅行需要を見据え、亀崎染工には旅行関係者から大漁旗の製作体験の問い合わせが多数寄せられています。昌大さんは既存の作業部屋を改装し、大漁旗の文化に触れられて体験もできる、ギャラリー兼体験スペースの準備を進めています。
戦前は全国に1万4000軒以上あったという印染店は、平成になって1400軒ほどに減少しました。現在は200軒ほど。全工程を手仕事で行う店だと、さらに半数ほどになります。業界自体がなくなるかもしれない、と昌大さんは危機感を募らせています。
「印染製品は私たちの身近にあるにもかかわらず、印染という言葉はあまり知られていません。印染は、辞書にも電話帳にも載っていないんです。僕らはもっと外へ出て、自分たちの存在を知ってもらわなければなりません。だからお声がけいただいたイベントにはなるべく出て、印染のワークショップを開いたりしています。10年ほど前からは、母校の小学6年生のためのクラス旗製作にも協力しています。それもこれも、まずは印染という手仕事があることを知ってもらうためです」
昌大さんは今、価値観を共有する他県の同業者や他業種の人たちと、新たなものづくりに挑戦する構想を温めています。
「何をするかは決まっていませんが、伝統は頑なに守り続けているだけでは廃れていくばかり。同じ危機感を共有できる仲間とともに、新たな土俵をまたつくっていきたいですね。最初は目新しく見えることも、5年、10年と続けていけば、やがて伝統になっていくはずです」
印染の可能性を模索し続ける昌大さんのモットーは「常にパイオニアであれ」。贈る人が思いを込められる印染を後世に残すため、今日も昌大さんは刷毛を動かしています。