ユルい社内、売上不振、クーデター……置き薬屋「ぷちてんぐ」社長の対処法
愛知県稲沢市にある薬の配置販売業「株式会社ぷちてんぐ」は、江戸時代から続く置き薬屋さんです。小柳彩子(さやこ)社長(46)が「何代目か分からない」というほど長い歴史を持ちます。置き薬というと古い商売と思われがちですが、新規事業を組み合わせ、独自の立ち位置を築こうとしています。
愛知県稲沢市にある薬の配置販売業「株式会社ぷちてんぐ」は、江戸時代から続く置き薬屋さんです。小柳彩子(さやこ)社長(46)が「何代目か分からない」というほど長い歴史を持ちます。置き薬というと古い商売と思われがちですが、新規事業を組み合わせ、独自の立ち位置を築こうとしています。
目次
全国配置薬協会の公式サイトによると、置き薬の仕組みは江戸時代に富山県で生まれました。各家庭に薬箱を無料で置き、使った分の薬代だけを回収する仕組みです。
小柳さんの話では、置き薬用の製薬会社が多いのは富山・滋賀・奈良の3県。「ぷちてんぐ」が扱うのは奈良の薬です。
長い歴史の中で、冨山と奈良では商売のやり方に差が生まれました。富山の薬屋は、顧客の多い地域に引っ越すことが増えました。一方、奈良の薬屋は、奈良にある自宅を長い間留守にして、遠くの顧客を訪ねる行商を続けたといいます。
小柳さんの家も代々、奈良に住み、愛知で商売をしてきました。祖父が60代で稲沢市に事務所を構え、代替わりするまで、小柳さんも奈良に住んでいました。子ども時代は祖父に連れられ、一緒に客先に行くこともあったそうです。
大学では薬学部に進みました。とはいえ、家業を継ぐと決めたから、ではなかったようです。
「医学部を目指していたのですが、6年間大学に通うのは長いなぁと思ってやめたんです。母の勧めで薬剤師を目指すことにしましたが、家業と結びつけて考えていたわけではありません」
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当時、1人で商いをしていた祖父は、60歳を過ぎて初めて人を雇いました。そんな祖父の挑戦は業界で話題となり、業界紙に取材されました。記事の中で祖父は「わしの背中を見て、孫が薬学部に入ってくれた」と語り、思わず苦笑いをしたという小柳さん。
小柳家は、曽祖母・祖母・母の3代にわたり、婿(むこ)を取ってきました。小柳さんは離別した両親の一人娘です。祖父は小柳さんを後継者に、と期待していたのだといいます。
「継ぐ気はなかったものの、継がなくちゃダメかな、という思いも頭をよぎりました。当時、配置販売業は安定したビジネスだったので、跡を継いで、もうかったお金で他の事業を始めようか、なんて考えてたんですよ」
小柳さんはそのころ、中国の伝統医療「中医学」に興味がありました。日本の漢方、中国の中医学、韓国の韓医学はそれぞれ古典的な中国医学にルーツを持ち、独自に発展したとされています。
「中医学は個人の症状や体質に合わせて生薬を配合する点が興味深いと感じました。でも、中国で資格を取っても日本で働けなければ意味がありません。そのため日本の薬学部を卒業してから留学することにしました」
薬学部卒業後、修行と留学費用の積み立てを兼ねて、薬局に2年半勤務。民間財団の奨学金を得て上海へ渡り、大学で中医学を学びます。
1年半後に卒業しましたが、見たい診療科があったため、大学病院に頼んで実習をさせてもらうことにしました。空き時間を使い、中国国内旅行に出かけました。
タクラマカン砂漠に入る手前、たまたまネットカフェでメールをチェックすると、日本から「祖父が交通事故に遭った」というメールが届いていました。命に別状はないものの、頚椎(けいつい)を損傷し、下半身不随になるかもしれないといいます。
慌てて国際電話をかけると、当時の番頭が出ました。相当慌てているようで、要領を得ません。電話で話すうちに、小柳さんは「帰って自分がどうにかしなくては」と痛感。この時点で、家業を継ぐことをほぼ決意したそうです。
大学病院での実習を辞退し、借りていた部屋も引き払い、日本に戻りました。ただ、小柳さんが後継者に決まっても、祖父は「好きなようにせい」と言うだけ。そのまま3年後に亡くなりました。
祖父からの引き継ぎなしに事業を継いだ小柳さん。何をすべきか分からず、お客さんの家を回ることから始めました。どの家にも快く迎えられ、「くすり屋さん」を待ってくれていると感じました。
「この殺伐とした世の中で、お客さんとこんな関係を築ける配置販売業の仕事に触れて、感銘を受けたんです」
小柳さんは初めて心から「この仕事を継ぎ、後世に残したい」と考えるようになりました。
2003年、27歳の若い社長が誕生しました。若いだけでなく、女性であることも、伝統的な業界では苦労の種になったといいます。
当時4人いた従業員は、小柳さんの親と同世代です。「社長」と呼んでもらえず、小柳さんの指示を理解して受け入れる人はいませんでした。
継いでみると、社内のいい加減さに、開いた口がふさがらなかったといいます。業務日報も仕入・売上管理も、顧客管理も在庫管理も、従業員ごとに独自のルールで行われていたのです。給料は基本的に前払いで、仕入れ先への支払いも「盆と正月の2回でいいよ」という緩いものでした。
営業報告を行うはずの朝礼も、雑談やお茶の時間と化していました。小柳さんは前日の営業報告をするよう指示しますが、「そんなの必要ない」と、やがて朝礼自体が消滅しました。
小柳さんの会社だけでなく、業界全体が良くも悪くも「家族的な経営」だったといいます。会社の業績を伸ばすには、ルールにのっとった経営が必須だ――。薬剤師として2年半の社会人経験しかなかった小柳さんですが、書籍を読み漁り、独学で会社の規則を作ることにしました。
業界には古い体質も残っていました。同業者の集まる会合に出席すれば、若い女性は小柳さん1人。しばしば「飲み屋のお姉さん」のように扱われました。ずっとお酌をさせられたこともあれば、抱きつかれたこともあります。
平成に入って十数年が過ぎたというのに、昭和の感覚が横行していました。しかし、ある時、小柳さんのおしりを触った先輩の手をぴしゃりと叩いたことを機に、セクハラは収まりました。
他社の社長の大半が、小柳さんの父や祖父と同世代の男性です。周りからは「どうせ続かないだろう」と思われていたと、後に知りました。「若い女性が継いでも、いずれ結婚して辞めるか、夫が継ぐことになる」というのが大方の予想でした。27歳で継いで5年を過ぎたころから、周囲からだんだん認められるようになったといいます。
2004年、祖父の代には個人事業だった組織を法人化しました。社名の「ぷちてんぐ」は、長く薬を取り扱ってきた製薬会社のトレードマークに由来します。
法人化の際に考えた経営理念は、今も社内の目立つ場所に張り出してあります。
小柳さんは、薬の配置販売業が江戸時代から300年以上も続いてきた理由について「『くすり屋さん』の総合的な人間力があったから」と話します。
「『くすり屋さん』は薬のセールスマンとは違います。『この人になら自分の健康を任せられる』という信頼感と安心感があったから、お客さんから頼られる存在であり続けてきたのだと思います」
小柳さんは自社の販売員を「健康コンシェルジュ」と呼ぶことにしました。ただ薬を売るのではなく、お客さんの健康寿命を延ばすエキスパートであれ、と考えたのです。
法人化し、経営理念も定めたものの、人材確保には苦労しました。新たに雇った従業員には、経歴を詐称されたり、商品を横流しされたり、短期間で独立され顧客を奪われたりしました。売上も伸びず、経営理念や経営方針が果たして正しいのか、不安が募りました。
そこで社長に就いて10年後の2014年、名古屋商科大学ビジネススクールに入学し、経営学修士(MBA)を取得しました。奨学金のおかげで、授業料の負担は大幅に軽減されました。
MBAを取って分かったのは、「経営理念も経営方針も正しい」ということ。しかし同時に「形だけで、実行できていなかった」とも気づきました。経営を根本から考え直す、良い機会になったといいます。
小柳さんは「また来てほしいくすり屋さん」を経営理念に掲げました。無理に売るのではなく、本当にお客様のためになるものを届ける。そうして信頼を積み重ねれば、売上も自然に伸びるはずだ――。
そんな信念を、当時の小柳さんはブログに切々とつづっていました。すると、ブログを読んで感動したという男性が、大手の同業他社を辞めて入社してくれました。
この男性は、試用期間中から大きな成果を出しました。何も特別なことをしたわけではありません。医薬品の説明をきちんと行うなど、基本を忠実にこなしていただけといいます。
小柳さんは男性をマネージャーに据えました。彼の提案で朝礼が復活し、朝礼前の掃除も始めました。販売員には携帯電話のメールで1日2回の売上報告をするよう義務付け、その日の最終報告を全員に送信する取り組みも開始。
マネージャーが入ったことで、仕事にメリハリが生まれ、従業員の意識改革につながったといいます。男性は常務に昇進します。
一方、一部の従業員の間には不満がたまりました。2020年、「クーデター」が勃発します。「常務のやり方についていけない。常務を辞めさせなければ、自分たちが辞める」と、7人の従業員のうち4人が言い出したのです。辞められれば、かなりの戦力を失うこととなります。
苦渋の決断でしたが、小柳さんは要求を断ります。4人のうち3人はライバル社へ転職したそうです。その後、1人が新たに入社したものの、さらなる人材を求めています。
経営理念に掲げた「日本の健康寿命を延ばす」を実現するにはどうすればいいか。小柳さんは「食の大切さ」に思い至ります。
2013年、子会社「株式会社マクロビオス・パナセア」を設立し、農業に参入しました。農協の支援を受けて畑を借り、無農薬・自然栽培で育てた野菜の販売を始めたのです。
特に自信があるのが「原木しいたけ」です。深さ50mの深井戸からくみ上げた木曽川の伏流水をかけ流し、無農薬で露地栽培します。収穫したしいたけは、雑味や臭みがないといいます。
「実は私、しいたけが苦手なんですが、うちで採れたしいたけだけは食べられるんです」
こうして自社で育てた野菜やきのこを、置き薬と一緒に顧客に届けています。野菜の販売は順調に伸びていて、置き薬とともに、会社を支える大切な事業に育っています。
置き薬と言うと、古いビジネスモデルに見られがちですが、小柳さんは「そんなことはない」と言い切ります。インターネットと組み合わせることで、事業の効率化を進められるといいます。
例えば、SNSなどを活用することで、お客さんから注文が入った時、地域を回っている販売員がすぐに届けるようにしています。多くのネット通販は早くても翌日配達なので、即日届けられるのは大きな強みです。
楽天市場には2004年から出店しています。現在は野菜や果物のほか、健康食品、サプリメント、葛やしょうゆ、スイーツなど、医薬品以外も幅広く取り扱っています。置き薬の顧客の農家に頼まれ、農産物などを出品するうち、品ぞろえが増えたそうです。
ただ、楽天でのEC事業が収益の柱かというと、そうでもないようです。売上は会社全体の2割ほどに過ぎません。むしろ出店に伴う手数料が高く、利益率は低いといいます。
「今のままではEC事業でなかなか利益が残りません。楽天を介さずに販売するか、単価を上げるといった対策が必要だと考えています」
家業を継いでからの20年、経営は決して順風満帆ではありませんでした。それでも小柳さんは「社長になってよかった」ときっぱり言います。「だって『自分だったらこうしたい』を形にできるんですよ」と。
昔に比べ、人と人のつながりが薄れたと言われます。そんな時代だからこそ、「また来てほしいくすり屋さん」の価値が際立つのかもしれません。
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