「高い=売れない」を覆す 風月堂3代目が挑んだ1本1万円の羊羹
茨城県日立市、のどかな風景の中で車を走らせると見えてくる朱色の建物。創業70年余り続く和菓子店「御菓子司 風月堂」です。3代目の藤田浩一さん(39)は安い価格で和菓子を作り続けることに限界を感じ、高くても魅力ある商品開発に力をいれました。地元産の希少な栗を使った1本1万円の栗蒸し羊羹(ようかん)が予想を超えて反響を呼ぶなど、「金額が高い=売れない」というそれまでの概念を覆しています。
茨城県日立市、のどかな風景の中で車を走らせると見えてくる朱色の建物。創業70年余り続く和菓子店「御菓子司 風月堂」です。3代目の藤田浩一さん(39)は安い価格で和菓子を作り続けることに限界を感じ、高くても魅力ある商品開発に力をいれました。地元産の希少な栗を使った1本1万円の栗蒸し羊羹(ようかん)が予想を超えて反響を呼ぶなど、「金額が高い=売れない」というそれまでの概念を覆しています。
目次
和菓子店「風月堂」は、3代目藤田浩一さんの祖父・光彦さんが、地元にまだ車のない時代に自転車で和菓子の卸し販売をしたことがはじまりです。
姉2人を持つ末っ子長男の浩一さんは、幼い頃から取引先に「跡取りができてよかったね」と声をかけられることが多く、店を継ぐことは当たり前だと思い育ってきたそうです。
ただ、父・正照さんから家業を継いでほしいと言われたことは一切ありませんでした。思春期にはパソコンに興味を持ち、SEを目指して情報処理科のある高校へ進学します。プログラミングなどを学び、日々パソコンに向かって励みますが、国家試験で挫折。「一生続ける仕事として自分には向いていないかもしれない」と悟り、高校3年生の時にはその道を諦めたそうです。
目標は失ったけれど東京には行きたい……。進路について悩んでいると、「製菓の専門学校だったら東京に行ってもいいよ」と母から声をかけられます。
「そのときは、『本当に東京に行っていいの!?』とうれしくて、東京への憧れだけで専門学校への進学を決めてしまいました。安易に考えていて、家業を継ぐことはあまり意識していませんでした」
専門学校で2年間徹底的に和菓子を学ぶと、浩一さんは徐々に和菓子の世界にひかれていきました。
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卒業後は、神奈川県にある菓子店へ就職。住み込みでの和菓子修行は、6畳の部屋で先輩と2人での共同生活でした。朝早くから餡(あん)炊きをするなど、職人としての基本をたたき込まれました。
就職をして半年経つころには辞めたくて仕方がなかったという浩一さんですが、「何があっても1年間は続けろ」という父の言葉から、歯を食いしばって修行を続けたそうです。
「もちろん逃げ出したいと思うことはありましたが、当時の給料は手取りで10万円でした。食事は3食出してもらえたので生活はできたものの、お金をためることが難しくて逃げ出せなかったというのが現実かもしれません」
厳しい修行で技術を身につけ、5年が経とうとしたある日、父から一本の電話が入ります。
「もしかしたら、病気でもう長くないかもしれない…」
普段、弱音を吐かない父が自分を頼るのは初めてのこと。浩一さんは、翌日には社長に事情を話し、退職を申し出ました。ところが、「来春には帰る」と母親に電話を入れると、「なんで?」という反応……。実は、父は浩一さんにだけしか病気のことを伝えていなかったのです。
「結果的には病気は大したことなく、今でも元気に働いているんですよ(笑)。でも、自分がもしかしたら死ぬかもしれないと思ったとき、店の味を伝承していないことを不安に思って自分に連絡してきたのだと思います」
浩一さんは父からの電話をきっかけに、2009年、25歳のときにUターンし家業に入りました。
家業に入ると、浩一さんは修行で培ってきた自分のカラーを出そうと、季節に合わせた月替わりの新商品を店頭に並べます。しかし、毎月工夫を凝らして新商品を出すものの、思うようなお客さんの反応は得られませんでした。
父からは「このままだったらお前の代に店は潰れてしまうよ」とまで言われ、焦りと不安で30歳を迎えるころにはすっかり自信を失っていたそうです。
一生懸命やっているのに周囲に認めてもらえない、自分はいったい何のために戻ってきたのだろう……。ひたすら自分の存在意義を探すもがくような数年間を過ごしたといいます。
「今思えば、お客さんのニーズを把握できていなかったんです。どういうお客様がいて、どんな商品を欲しがっているのかを理解せず、独りよがりなお菓子を作り続けていたのだと思います」
そんな浩一さんに転機が訪れたのは、外部のセミナーに参加したときのこと。できたての和菓子を提供する和カフェの構想を講師に話すと「あなたの考えていることはすごくいいですね」と言ってもらえたそうです。
家族経営のため第三者からの目線をもらえることはなく、父からも褒められたことがなかったという浩一さん。誰かに認めてもらえたことで、自信を持って一歩前へ踏み出すきっかけをもらえたといいます。
「今の自分には何の実績もないのだから、依頼されたことは120%の気持ちでお返ししよう」
それからの浩一さんは気持ちを入れ替えて行動し、いただいた依頼には一つひとつに誠心誠意応えるようになりました。そうするうちに、地域の子どもたちに焼きたてのどら焼きをふるまったり、ワイン会のデザートを担当するようになったりと、さまざまな機会で声を掛けられることが増え、人脈が広がっていったといいます。
さらに、新商品の開発にも力を入れました。
茨城県は生産量・栽培面積ともに日本一の栗の産地であることに着目し、栗農家から「笠間の栗」を直接仕入れ、オリジナルの栗蒸し羊羹を開発します。価格は一本1,800円。父からは「そんな値段をつけたら不利な立地のこの店にお客さんは来ない」と言われるも、評判は上々。今では人気の定番商品となっています。
さらに今年の8月からは商品の改良を図り、パッケージを一新して3,240円で販売する予定です。
実は、「栗蒸し羊羹」は以前から商品としてあったのですが、加工された栗を使用して作られていたのだそう。浩一さんは、茨城県産の生栗を使用し、一つひとつ手でむいて手間を惜しまず作ることにこだわりました。
「うちのように小さな店は、量販する店と同じ土俵に立ったところで勝ち目はありません。今後日本の人口は減少していき、和菓子が売れなくなっていくことは目に見えています。だとしたら、『いかに魅力ある商品を作るか』にシフトしていくかを考えるようになりました」
というのも、父・正照さんの代までは「金額が高い=売れない」という固定観念があったそうです。
1個100円〜200円の金額で提供してお客さんに喜んでもらえる半面、どんなに一生懸命働いても売り上げが上がらない状態が続いていました。原材料や人件費が上がるなか、商品の価格を上げないという判断を下していたために収益が伸び悩んでいたのです。
浩一さんは、商品に付加価値をつけてできるだけ高値で売れる商品の開発に力を入れるようになります。機械に極力頼らず、手間を惜しまずに味を追求することで、価格に反映させていきました。
「だいたいの菓子店は機械で作るのですが、機械に合わせた配合になるので、どの店でも作れてしまうんですよね。すると、他店との差別化は難しくなります。手作業にこだわって作ることで、機械に合わせた配合にすることなく、味を追求することができるんです」
手間を惜しまず、全て人の手で作るからこそできるお菓子は、価格を上げても徐々にお客さんに受け入れられていきました。
浩一さんは、店舗での営業のほか外部へも活動の幅を広げていきます。
2019年に行われた「ICOM(国際博物館会議)」に日本の和菓子店で唯一の参加を果たし、練りきりの実演を行って日本の文化を発信。また、自宅でも気軽にどら焼きを作れるキットを発売するなど、和菓子を身近に感じてもらうためのさまざまな活動を行うようになりました。
そんなある日、個人事業主としてやっていたお店の法人化を決断するきっかけが訪れます。
知人から「東京のホテルでおこなう和菓子の体験イベントに出演してほしい」と誘われたときのこと、ホテル側から、法人ではないことでやんわりと断られてしまったのです。
「自分がこの先やりたいことをするためには、社会的信用が必須になる」
こう考えた浩一さんは、風月堂70年の歴史のなかで初めて法人化を決意。しかし父は反対し、ここでも意見は分かれます。
「今まで個人事業で長年続けられてきたものをわざわざ変える必要はない」「税金などもろもろの費用を支払っていけるのか」と心配からの反対でしたが、最終的に税理士から「法人化して問題なし」とお墨付きをもらえたことで、納得してもらえたそうです。
2020年2月、浩一さんは法人化と同時に代表取締役に就任。父からは、「次はお前の時代だからすべて任せる」と託されたそうです。
あるとき、茨城の食材と作り手を結ぶ取り組みをする「シェフと茨城」の藤田愛さんを通じて「飯沼栗」の存在を知ります。
茨城町下飯沼で生産される飯沼栗は、一つの毬(いが)に三つの実が入っている通常の栗と異なり、一つの毬に一つの実がなる希少な栗。直径4cmもの大きな粒で、収穫してから20日間ほど低温熟成させて糖度を引き出すため、ねっとりとした濃厚な甘みが特徴です。
「この栗で茨城の代表となるようなお菓子を作れないだろうか」と考えた浩一さんは、商品化に向けて栗蒸し羊羹の試作を繰り返します。しかし、飯沼栗は一般的なものに比べて3倍の価格。原価計算をしていくと、どうしても高価格帯になってしまうのがネックとなっていました。
あるとき、展示会でたまたま隣のブースにいたデザイナーに飯沼栗で作る栗蒸し羊羹の構想を話すと「面白いですね!それなら、一本一万円で売り出してもいいと思いますよ!」と背中を押されます。
このご縁から商品プロデュースとパッケージをデザイナーに依頼。桐箱に入った高級感あるプロダクトが完成しました。
日本最古の歌集「万葉集」にも詠まれているように、茨城県は奈良時代から栗の名産地です。浩一さんは、そのことを伝えたいという思いと、栗をゴロゴロと「万(よろず)」に使用していることをかけ合わせ、商品に「万羊羹」と名づけました。
万羊羹は、飯沼栗の濃厚な甘さと、栗の力強さに負けない北海道十勝産の小豆の風味が絶妙なバランス。贈答品として使用した際、大切な方になるべく賞味期限を気にせず召し上がってもらえるようにと、特殊な真空パックを活用して賞味期限を1カ月近くにまで延ばすなどの工夫もこらしました。
「色々と調べてみたら、万羊羹は日本で一番高い羊羹なんです。あの和菓子の老舗・虎屋さんの羊羹の値段をも超えてしまっているんです。ですので、皆さんに面白がってもらって、月に一本でも売れたらいいなという心持ちで商品化をしました」
ところが、予想をはるかに超えて万羊羹は反響を呼びました。
販売前に挑戦したクラウドファンディングでは、10日間という短い期間で目標を471%達成。店頭では贈答用に購入するお客様が多く、月15本〜20本が売れるそうです。
「今まで、高価格帯で茨城を代表するお菓子がなかったんですよね。高級感あるパッケージで、茨城を誇れる贈答品として上等なものを求めている人が一定数いたのだということが、この万羊羹を作ってみてわかりました」
店の売り上げは、法人化前に比べて25%増。新商品の展開で売り上げを順調に伸ばし、商品単価が上がったことで作業効率も良くなったそうです。
今後は、伝統ある和菓子という枠を飛び出して、海外に販路を広げていきたいと展望を語る浩一さん。
「イギリスのアフタヌーンティーのお菓子のなかに和菓子が入っていたら面白いですし、フランスのカフェメニューの定番に和菓子が載るようになっても面白いですよね。和菓子を海外に発信して、若い職人たちに『海外に行っておいで』と送り出せる環境も作っていきたいんです」
さらに、次世代に伝統を引き継いでいくために、和菓子業界が抱える課題にも積極的に取り組んでいきたいと話します。
「後継者不足のため廃業してしまう和菓子屋さんが多いです。古い体質が残る業界ですが、変わることを恐れずにチャレンジしていたら、『面白い人もいるんだな』と少しは若い人たちに興味を持ってもらえるかもしれません。お菓子を食べると誰でも笑顔になりますよね。笑顔の連鎖と循環で業界全体を盛り上げ、生産者や問屋も支えていけるような存在になりたいです」
近い将来、パリのカフェメニューに当たり前のように和菓子が載る日が来るかもしれません。その日を目標に、浩一さんの挑戦は続きます。
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