目次

  1. 陶磁器の産地で花崗岩に着目した祖父
  2. 最寄りの友達の家は山の向こう
  3. 需要低迷で設備投資、新分野に進出
  4. 薄利多売と決別へ 生産目標引き下げ
  5. 「何かやらねば」ECサイト立ち上げ
  6. 「顧客や地域の問題解決」を事業に
  7. 山を守りつつ会社が発展する道は

 事業の始まりは1952年にさかのぼります。東海地方では愛知や岐阜を中心に、瀬戸焼や美濃焼など陶磁器産業が古くから盛んです。そこで大悟さんの祖父・普寛(まさひろ)さんが、所有する山林から花崗岩(かこうがん)を掘り出し、陶磁器の原料として販売し始めたのです。

 墓石や石垣に使われる通常の硬い花崗岩と異なり、愛知県から岐阜県にかけて採れるこれらの花崗岩は、風化して加工しやすいのが特徴です。粒の大きさが3~14mmのものを地元では「サバ」と呼び、陶器やガラス、タイルなどの原料になります。それ以外の大きさのものは、庭や駐車場の敷石のほか、園芸、土囊(どのう)、埋め立てなど様々な使われ方をします。

陶器やガラスなどの原料となるサバ(手前)と、サバから作られた製品群(撮影:和田英士)

 普寛さんは地元で、サバ採掘のパイオニアでした。手作業で採掘し、ふるいにかけて大きさを分け、町中心部までトロッコで運んだといいます。1975年に法人化。普寛さんの名前の「普」の字を丸で囲んだマークを屋号として長らく使ってきたことから、社名に「丸普」とつけました。

 当時はもうかったそうで、普寛さんは仕立てのいいスーツを着こなしていたといいます。事業をまねる人も現れ、最盛期には一帯に同業者が10社ほどありました。現在では丸普窯業原料を含め、2社が残るのみです。

製品である風化花崗岩を使った施工例(撮影:和田英士)

 大悟さんは山に囲まれて育ちました。一番近い友達の家でさえ、山を1つ越えるほどの距離。遊ぶのはいつも1人だったといいます。中学校は家から7キロも離れていました。学校以外は家にいる時間が長いため、普段から家業を手伝うことが多かったそうです。

 その後、愛知県内の高校、大学に進学。大学1年だった2003年、父・純一さん(64)が2代目の社長に就任しました。純一さんから「継いでほしい」と言われたことはありませんでしたが、大悟さんはぼんやりと「そのうち継ぐんだろうな」と感じていたといいます。

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