目次

  1. 「モノづくりの街」に生まれて
  2. 創業者の祖父の思い
  3. 背中を押したおこしのポテンシャル
  4. 渋谷ストリームや丸ビルへ進出
  5. やりながら学んだ経営手法
  6. 「継いでもらってよかった」を目指して

 東京都荒川区はかつては小さな町工場が集積し、「モノづくりの街」と呼ばれていました。ところが、時代の変化とともに製造業は衰退。廃業する工場は少なくありません。

 かつて、丸文製菓の近くには数軒のおこし工場がありましたが、2022年現在は丸文製菓1社だけ。こうした状況下で、細谷さんの叔父にあたる2代目・海老原利幸さんは、自分の代で工場をたたもうと考えていました。「家族経営だったので、赤字でも何とか踏ん張ってきましたが、これが限界だと廃業を決めていました」と海老原さんは振り返ります。

 当時は、菓子問屋を通じて土産物店やスーパーなどで販売するのが中心で、単価も低いため利益を上げるのは難しい状況でした。

 そうしたなか、工場で働いていた細谷さんの祖母が倒れ、人手を失った丸文製菓の廃業は現実味を帯びてきました。すると、細谷さんが「家業を継ぎたい」と言い出したのです。当時、細谷さんは社会人1年生。しかも、人材派遣会社というまったく畑違いの業界で働いていました。

 海老原さんは、「自分と同じ苦労をさせたくない。わざわざ大変な道を選ばずに、会社に勤めて安定した生活を送ってほしい」と、大反対しました。

 子どものいない海老原さんにとって、細谷さんは息子のような存在でした。細谷さん一家は工場の上に住んでいたので、教師だった両親の代わりに、海老原さんが保育園の送り迎えをしていたそうです。

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