師匠と衝突しても捨てなかった問題意識 美濃和紙職人の「脱・薄利多売」
岐阜県美濃市の手漉き和紙職人・千田崇統(せんだたかのり)さん(38)は、2011年に美濃和紙職人の師匠に弟子入りし、のちに工房を継ぎました。伝統的な和紙の制作にとどまらず、様々な技法でデザイン性の高い和紙を生み出しています。事業承継時の課題だった薄利多売の商売からどのように脱却し、高単価で利益率の高い事業に転換したのか。背景にあった問題意識も含め、詳しくうかがいました。
岐阜県美濃市の手漉き和紙職人・千田崇統(せんだたかのり)さん(38)は、2011年に美濃和紙職人の師匠に弟子入りし、のちに工房を継ぎました。伝統的な和紙の制作にとどまらず、様々な技法でデザイン性の高い和紙を生み出しています。事業承継時の課題だった薄利多売の商売からどのように脱却し、高単価で利益率の高い事業に転換したのか。背景にあった問題意識も含め、詳しくうかがいました。
目次
外務省ホームページによると、美濃和紙は岐阜県の特産品で、柔らかみのある風合いと高い耐久性、均一な薄さが特徴です。奈良の正倉院には、現存する日本最古の紙として702年の美濃国の戸籍用紙が所蔵されているそうです。高知市ホームページでは、美濃和紙のほか、福井県の「越前和紙」、高知県の「土佐和紙」を三大和紙と呼んでいます。2021年の東京五輪・パラリンピックでは、表彰状に美濃和紙が使われ、話題になりました。
千田さんによると、美濃和紙の用途には照明、ちょうちん、障子、和傘、書道の用紙、文化財の修復などが挙げられます。高価なため、通常の文房具には使えません。例えばノートなら1冊3000円以上になるといいます。
紙は寿命を迎えると、破れたり崩れたりします。ただ、「洋紙は100年、和紙は1000年」言われ、和紙は長持ちします。長い繊維を絡み合わせて漉(す)く製法や、紙を酸化させる薬品を使わない点などが、長持ちの理由だそうです。
千田さんが引き継いだ「大光工房」は、師匠である市原達雄さん(89)が1961年、美濃市蕨生(わらび)で創業しました。和紙に水をかけて模様をつけた落水紙(らくすいし)や植物入りの和紙など、独自の美濃手漉き和紙の世界を確立します。
長年の功績が認められ、2013年には瑞宝単光章を受章しました。千田さんは「師匠が受章した時には、すごい方に弟子入りしたんだと改めて感じました」と話します。
千田さんは公務員の父と銀行員の母の間に生まれ、岐阜県各務原市で育ちました。いつも走り回っているサッカー好きの少年で、今のようなものづくりの仕事に就くとは想像もしなかったそうです。
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両親にはよく「勉強しなさい」と言われましたが、特に反発は感じませんでした。新しいことを覚えるのが楽しく、高校は岐阜県内の進学校に入学。2002年、青山学院大学に進み、1人暮らしを始めました。
大学時代はクラブに通い詰め、ダンスとDJにのめり込みました。就職活動はほとんどしなかったそうです。好きでもない会社の面接で「御社で働きたい」と話すことが、うそをつくようで抵抗があったといいます。
2006年に大学を卒業すると英国の音楽に興味が移り、2年間のワーキングホリデーでロンドンに飛びます。レストランやパブで働いて生活費を稼ぎました。
ロンドンでもクラブに出入りするうち、使われていないビルなどに住みつくスクワッター(不法占拠者)と呼ばれる人々と付き合うようになりました。スクワッターのパーティーでは、半裸で歌う女性ボーカルの足元を犬が歩き回り、泥酔した若者が大騒ぎするような混沌(こんとん)とした空間が広がっていました。
一方、勤務先の高級レストラン「NOBU」の店舗には、富裕層の客が毎日訪ねてきました。千田さんはエビの下ごしらえやソースづくりなどを担当しました。
スクワッターと富裕層の間を行き来するうち、「都会での生活は幸せなのか」という疑問を抱くようになります。そんな時、知り合いのペルー人から、ペルーのシャーマン(呪術師)の話を聞きました。本を読みあさり、自分の知りたいことがペルーにあるのではという確信を深めたそうです。2008年に日本に戻り、アルバイトでお金をためると、2カ月間の南米への旅に出かけました。
アマゾン奥地の村で、シャーマンに会いました。一見普通の人でしたが、村人に頼られ、目に見えない世界に通じているように感じたそうです。
寝泊まりしたのは、シャーマンが持つ簡素な小屋です。電気も通っていない村でしたが、人々は陶器を焼いたり糸を紡いだりと、生き生きしていました。それと比べて日本はどうだろうか、と千田さんは考えました。
「のんびりと手仕事をしながら自然とともに暮らすことが、豊かさの源泉なのではないか」。そんな思いを抱きながら、千田さんは帰国の途につきます。
2009年、26歳の千田さんは各務原市の実家に戻り、近くの雑穀料理店で働き始めました。薬膳料理づくりや薬草畑の管理が主な仕事です。同僚の紹介で出会った妻の薫子(しげこ)さんとは、「自然と共存する暮らしをしたい」という価値観で通じ合い、まもなく結婚します。
翌2010年、ハローワークを通じ、新たな職を得ました。美濃和紙の魅力を伝える「美濃和紙の里会館」の紙漉き体験指導係です。初めての紙漉きは楽しかったものの、決められたことだけをやる点が性に合わず、1年後に退職します。それまで掛け持ちで働いていた雑穀料理店の仕事はその後も続けました。
ある日、美濃和紙の里会館の先輩から電話がありました。「80歳になる美濃和紙の職人さんが、後継者を探している。いい人を知らないか」。それを聞いた瞬間、千田さんは「これだ!」と思ったそうです。
というのも、その数日前に相談したセラピストから「あなたは師匠を探している。手に職をつけたがっている」と言われていたからです。そこへかかってきた電話に「これは呼ばれている。行くしかない」と感じ、師匠の市原さんへの弟子入りを決めたといいます。
美濃和紙の職人数は、激減しています。岐阜県庁主催の会議に提出された2008年の資料によると、岐阜県内の手漉き和紙生産者の戸数は、1918(大正7)年にピークとなる4768戸に達した後、終戦直後の1946(昭和21)年には1千数百戸に減り、2005(平成17)年には21戸になりました(岐阜県紙業連合会調べ)。
職人が減った理由について、美濃和紙の里会館のホームページでは「戦争が終わって私たちの暮らしは大きく変わりました。住宅では障子のかわりにカーテンやガラス戸を使うようになり、傘は紙でできた和傘からナイロンでできた洋傘を使い、また、印刷機は洋紙を使うコピー機器にかわっていきました」と述べています。
千田さんによると、美濃手漉き和紙協同組合に所属するのは現在17戸。「工房のある美濃市蕨生にはかつて600人の手漉き和紙職人がいたそうですが、今は自分を含め、片手で数えられるほどです」。もともと農家の副業として手がける人も多く、手間のわりにもうからないので廃業する、という例も目立つようです。
2011年、師匠の市原さんに弟子入りした千田さんの修行が始まりました。工房に通い、平日の午前8時から午後5時まで、実地で製法を学びました。ただ、最初の頃は叱られてばかりだったといいます。仕事に慣れてきてからも、商売のやり方をめぐって、市原さんと言い争いが絶えませんでした。
市原さんのやり方は、和紙を大量に漉き、安く売るという薄利多売のビジネスモデルだったそうです。毎日たくさんの和紙を漉くのは、年齢を重ねると体力的に大変です。
和紙には主にコウゾという植物の表皮が使われます。工程途中の和紙には、コウゾから抜け落ちたちりやゴミが混じります。手で取り除くのは手間なので、塩素などで一気に漂白する手法が現代では一般的になりました。ただ、薬品での漂白は、強度の劣化や変色の原因になることもあります。市原さんも塩素や硫酸で漂白していたそうですが、千田さんは環境への負荷も気になっていました。
また、市原さんは注文の有無に関わらず、毎日同じペースで多くの和紙を漉いていました。工房は大量の和紙で足の踏み場もなかったといいます。「まずは片づけをした方がいいんじゃないですか」と千田さんが言うと、「漉かな稼げんやないか」と市原さんが怒る、というやりとりが何度もあったそうです。
こうした問題意識を持ちつつも、職人としての市原さんには尊敬の念を抱いていたと千田さんは言います。
「職人というと頑固なイメージがありますが、師匠は新しい試みは何でもやってみようという頭の柔らかさを持っていました。何より、手すき和紙という仕事を18歳から80歳を過ぎるまで続けてきたことはすごいと思います」
弟子入りして3年後の2014年、31歳だった千田さんは市原さんから大光工房を買い取りました。事業継承後も、市原さんは従業員として工房に残りました。市原さんが85歳で引退するまでの3年間は、それまでと同じやり方で、2人で事業を続けました。
2017年、市原さんが引退すると、千田さんは漂白用の薬品使用をやめました。ただ、1枚を作るのに要する時間が大幅に延び、生産量は減ります。元の価格ではやっていけないので、段階的に元の値段の1.5倍、2.5倍に値上げしました。すると、取引先である紙の問屋からの注文がガクンと減りました。
コウゾから抜け落ちたちりやゴミを手作業で取り除くと、真っ白にはなりませんが、独特の風合いのある和紙ができます。白さや安さを求める取引先は去っても、千田さんの和紙の良さを認めてくれる取引先は少しずつ増えていったそうです。2019~2020年ごろには取引先が入れ替わり、経営が安定してきました。
原料にもこだわりました。それまではコウゾを中国やタイから輸入していましたが、薬品使用をやめたのと同じタイミングで、「美濃市楮生産者組合穴洞(あなぼら)支部」に加入しました。自分たちの畑でコウゾを栽培し、刈り取り、皮をむき、乾燥させて出荷する組織です。
組合の高齢化は著しく、畑の管理もうまくいっていなかったそうです。千田さんはすぐに活動の中心となり、2019年に支部長に就任します。
しかし翌2020年、千田さんは生産者組合を抜けることになります。理由は、コウゾへの農薬使用をめぐり、他の組合員と折り合いがつかなかったからです。
農薬を使うと、大きくて太いコウゾができます。細いコウゾは表皮をはがすのが大変で、生産性が上がりません。それでも千田さんは、農薬を使わずにコウゾを育てるべきだと考えたのです。自宅近くに畑を買い、コウゾを育て始めたのです。
「薬品は人にとっても紙にとっても、いいはずがないんです。日本最古の紙と伝わる正倉院の美濃和紙は、1300年前のものですが、当時は薬品なんてありませんよね。長持ちする紙を作るには、昔のやり方に戻るのが一番だと思うんです」
2019年、屋号を「大光工房」から「Warabi Paper Company」に変更しました。「Warabi」は工房のある地名「美濃市蕨生(わらび)」に由来します。
その頃から千田さんは、いわゆる伝統的な和紙とは異なる、アート作品としての和紙の制作に乗り出します。いつも同じ精度で和紙を仕上げることのやりがいを認める一方、「唯一無二の一枚」を生み出したいとも考えたのです。様々な技法を試し、試行錯誤しながら、独特の和紙を生み出していきました。
すると、少しずつ個人客やホテル、レストランなどから注文が入るようになったのです。こうしたアート和紙そのものや、アート和紙を使った小物の販売が、現在では売上の3割を占めています。長年取り組んできた、同じ精度で何枚も作る和紙の販売も、やはり売上高の3割ほどを占めます。
売上の残り4割は、住宅施工関連です。千田さんがデザイン性の高い一点物の手漉き和紙を作り、自ら出向いて壁紙や障子として貼るのです。知り合いの設計士に誘われて1軒目が完成すると、それを見た人から問い合わせが来るようになりました。「原料のコウゾの栽培からお客さんに届けるところまで、全工程を自分の手で担うので達成感があります」と話します。
千田さんの手漉き和紙は次第に評判となり、テレビにも取り上げられるようになります。2020年に全国ネットの人気テレビ番組に登場して大きな反響があったほか、2022年の番組では千田さんの和紙に加え、数奇な半生にも焦点が当たりました。
「テレビ放送後、問い合わせや声をかけていただく機会が増え、番組内で紹介された和紙の売上も伸びました。紙の問屋だけでなく、個人からの注文が増えたのはテレビのおかげです」
工房の隣に、空き家の古民家があります。あるとき千田さんの頭に「この古民家を中心に、人と和紙と自然が融合したテーマパークを作りたい」という構想が浮かんだそうです。
名前は「ワラビーランド」がいい。和紙をふんだんに使った古民家に滞在しながら、畑でのコウゾの栽培や刈り取り、工房での手漉き和紙制作を楽しめる場所にしよう。川遊びやトレッキング、たき火もできて、野生動物との出会いもある、自然とつながれる拠点にしたい――。
そんなイメージを膨らませ、古民家を買い取りました。ワラビーランド実現に向け、2022年9月、合同会社warabee(ワラビー)を設立しました。
クラウドファンディングにも挑戦しました。2022年9~10月の2カ月間、2つのサイトで計1000万円の資金を募りました。宿泊事業を営めるよう、母屋の全面的な改修に費用を充てるそうです。2023年の年初に着工し、6月の開業を目指します。
ワラビーランドで体験できるような、和紙に囲まれた空間の一例が、古民家の洋間を改装した「上から下までまるっと和紙の部屋」です。四方の壁と床、カウンターに、技法の異なる千田さんの和紙が貼られています。日本コカ・コーラ社が「綾鷹 伝統工芸支援ボトル」の売上の一部を若手職人に寄付するプロジェクトで、千田さんが支援先の1つに選ばれたことを受けて完成させました。
にぎやかなことを始めるので、地元の反発もあるかもしれない、と千田さんは覚悟していたそうです。ところが実際には、地元のお年寄りから「支援したいけどインターネットができない」と多くの問い合わせがありました。千田さんはうれし泣きしながら、プロジェクトの詳細と振込先などをまとめたカタログを作り、配って回ったといいます。
「ぜひワラビーランドに来て、心ゆくまで和紙を漉いてみてほしいです。美濃和紙に興味のある外国人の方々にも長期滞在してもらいたい。ここから新しい職人が誕生したり、集まった人たちで新しい何かを生み出したりできたらうれしいですね」
美濃市に移り住み、師匠に弟子入りして11年が経ちました。弟子入り時に2人だった子どもは、小6を筆頭に5人になりました。
山菜や鹿肉、アユなど山と川の恵みを食べ、農薬なしで育てたコウゾを使い、きれいな川の水で紙を漉く暮らし。ペルーで抱いた「のんびりと手仕事をしながら自然とともに暮らすことが、豊かさの源泉なのではないか」という思いは間違っていなかった――。そう千田さんは感じています。
独立後に薄利多売からの脱却を目指した際、一時的に下がった売上は、師匠の市原さんがいた頃と同程度まで回復。利益率は大幅に改善しました。
「これからも伝統を守りながら、新しいことに挑戦していきたいです」
1300年以上続く美濃和紙の歴史を、千田さんはつないでいきます。
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