目次

  1. 薄い金属板の加工で他社と差別化
  2. 家業を継ぐのは規定路線であったが……
  3. 確かな部品を安定供給し続ける“空気”のような存在
  4. コロナの影響で月の売上が半分以下に
  5. 古の機械と技術を継承していたからこそ実現した
  6. 会社の“軸”からブレずに挑戦を続ける

 プレスとは「金型」と呼ばれる型に、金属板をプレスすることで電子機器の基板、機械の筐体(きょうたい)や部品の一部といった、金属部品を製造する加工です。

機械に設置された金型に金属板を置きプレスする作業

 篠原さんの祖父の福次さんは、金型を作る職人として腕を磨いた後、1957年に独立し篠原工業を創業します。しばらくすると金型の製作だけでなく、機械を導入し加工にも取り組むようになります。

 携帯ラジオなどの需要が加速度的に伸びていた時代でもあり、会社は急成長。中でも得意としたのが厚さ0.1~0.3mmの薄い金属板の加工で、0.01mmの精度に応えることもあるそうです。

 「薄板を変形させずに望む形状に正確に打ち抜くためには、金型の設計・製造技術に加え、加工する技術者の“腕”も必要です。ましてや素材が薄くなればなるほど、その傾向は強くなります。このあたりが差別化となり、一気に事業を拡大していったようです」

製作している金属部品の数々。ステンレスや真鍮など素材も多岐に渡る

 加工後の脱脂、研磨、めっき などの工程もパートナー企業と協力しながら請け負うなどして、顧客からの信頼と評価をさらに高め、現在ではスマートフォン内の極小金属部品などを手がけています。

 長男でもあった篠原さんは、幼いころから特に祖父から期待もあり、「家業を継ぐのは当然だと思っていた」と振り返ります。

 祖父と一緒に工場に行き加工機械で遊ぶことも多く、成長するにつれ、アルバイトをすることもありました。家業を継ぐことは既定路線でしたが、進路については悩んでいたそうです。

 「家業に入ってから知識や技術を学べばよいのか、家業に入る前に大学で学ぶべきか。経営学部に入れば将来につながる人脈が広がるのでは、など。色々と考えていました」

 篠原さんは現会長、当時の2代目社長であった父、俊雄さんなどに相談した上で大学では知識や技術を学ぶことを選択、大学院まで進学し、金属加工の勉強や研究に打ち込むと同時に、家業にも還元します。

 たとえば、加工時に発火しやすいなどの理由で、現場ではあまり使われることのないマグネシウム合金に関して、です。大学と家業で協力しながら研究に取り組むことで、知見を高めました 。

 壁や課題に直面したとき、周囲に相談し、しっかりと考えてから結果を出す篠原さんの姿勢は、家業に入るタイミングでも同様でした。家業と関連のあるメーカーに入るか、すぐに家業に入るべきか。熟考した結果、後者を選びます。

 「外で働くのは長くても3~5年だと考えていましたから、どこまで仕事を任せてくれるのか。ましてや、いずれ経営者になるわけです。ここからは技術を高めるよりも経営スキルや人脈を広げた方がいいだろうと考えました」

 入社後は忙しい毎日を送ります。金型・プレス加工業務を現場実践で積んでいくと同時に、品質管理も兼務したからです。ただ、よい経験だったと振り返ります。

 「管理のために書類を増やすことが現場の負担になるかを、肌身で感じることができました。また、作業をとおしてよりよい管理方法が浮かんできましたし、実践できる立場でもありました」

 社長が一手に担っていた営業も兼務。先の2つの業務をこなしながら得意先を社長と一緒にまわります。社長がどのような営業(折衝)をしているのか。お金の流れなど経営に重要な数字を知ることができました。中でも大きかったのは、顧客からの評価でした。

 「サプライヤーに求められているのは、キラキラした新製品や技術ではなく、確かな製品をいかに安定して、継続的に納品できるか。篠原工業はそのようなニーズに60年近く応えてきたからこそ、大きな信頼を得ていたのです」

 “空気“のような存在だと表現されたこともあったそうです。当たり前過ぎて気づかないけれど、なくなると重要さに気づくとの意味が込められていることを知り、篠原さんは的確な表現だと、感心します。

 実際、価格が合わないと取引をやめた顧客が、しばらくすると会社に現れ「もう一度、取引してくれませんか」と、再交渉にくることもあったそうです。

 最盛期には従業員は50人を超え、東京・府中に1000坪以上の敷地を構えるまで成長しましたが、篠原さんが入社した翌年に起きたリーマンショック、顧客の生産拠点が海外に移動したことなどにより、業績は次第に下がっていました。

 工場のまわりに商業施設や住宅が立ち並ぶようになったこともあり、2013年に八王子の工業団地に移ることを決意。同時に、敷地を半分ほどに縮小します。

 一方で、従業員を減らしたり、加工機械を手放したりすることはありませんでした。そしてこのときの判断が結果として、現在注力する事業の原資となっていきます。

 入社から10年ほど経ったころ、業績好調であった他分野の製造業界へ、40~50代の中核技術者が数人転職。 さらには専務であった叔父が他界。以前から事業継承のタイミングを図っていたなか、「このタイミングしかない」と2020年の元旦に社長に就任します。

 ただ、その時点では、新型コロナウイルスの影がひしひしとせまっていることなど、考えもしていなかったことでしょう。

 社長に就任してからわずか数カ月後には受注が減り、月の売上は半分以下にまで減少。コロナ禍でしたから、対面営業もできません。図面を見ながらのやり取りが大半であった篠原工業においては、厳しい状況でした。

 そこで、営業手法を変えます。対面ではなくホームページを活用すること。同業他社と一線を画すためキャッチーな技術やワードが必要だとも考え、思いついたのが「リバースエンジニアリング」でした。

昭和36年(1961)製の金型と、この金型を使い加工された製品

 リバースエンジニアリングとは、製品から逆算して図面などを引き起こしていく作業で、逆行工学とも言われます。

 実は篠原工業では10年ほど前より、古い金型を引き取り加工できるよう手入れを施し、製品を加工する事業に取り組んでいました。この事業を「リバースエンジニアリング」と名づけ、新たな看板にしようと考えたのです。

 きっかけは、取引先からの相談でした。製品の需要はあるのに、製造元のプレス会社が倒産してしまった。ぜひとも、引き継いでくれないかと。

 金型はかなり旧式、篠原さんの言葉を借りれば「クラシック」でしたが、篠原工業のプレスマシンも同じく旧式であったため、対応できました。すると、同じような依頼が舞い込むようになります。

旧式の金型で作られた製品の数々

 旧式な金型は、コンピュータなどが搭載された現代の加工機械ではフィットしないからです。もうひとつ、旧式の金型ならびに加工マシンを扱うには、現在のマシンのようにボタンひとつで操作するのとは異なり、金型も加工も微妙な調整が必要で、いわゆる職人技が必要でした。

 場合によっては金型の一部、もしくは全体を新たに作り直す必要もあり、まさにリバースエンジニアリング。古の技術をもつ篠原工業だからこそ、実現した事業だったのです。

 多くの同業者が最新のマシンに置き換えていくのを横目に、篠原工業は旧式のマシンを大切に使い続けてきました。技術者も同様です。

職人歴60年以上の増山吉宥(ますやま・よしひろ)さん(左)と技術を受け継ぐ田岡泰明(たおか・やすあき)さん(右)

 増山吉宥さんは78歳、中学校卒業と同時に入社したそうですから、職人歴は60年以上。現在は加工するだけでなく、次世代の技術者に技術を伝承する役割も担っています。

 刃先の調整、刃の交換のタイミングなどは、コンピュータで制御するよりも人の方が微調整が効きますし効率的だと、熟練の技術者である増山さんは言います。

 篠原さんも「関係者皆から喜ばれる三方良しの仕事でもありますから、会社の主軸にしていこうと考えました」 と続けます。

 年季の入った織り機でしか生み出せないテキスタイルや糸を求め、海外の有名デザイナーやブランドが織り機ならびに、正確に操作できる技術者を頼り、京都の老舗町工場などに仕事を依頼する動きがあります。まさに同じ構図と言えるでしょう。

 後継者のいない同業者からの依頼も多いそうですが、一方で、他人が設計した金型から学ぶことも多いと、メリットの多い事業であることを繰り返します。

 リバースエンジニアリング事業を押し出した自社サイトは、2022年に刷新されました。これまで縁のなかった展示会への出展なども計画しており、リバースエンジニアリングをフックに、新たな顧客の獲得に努めていきたいと、篠原さんは意気込みを語ります。

 篠原さんに、改めて経営者として大切にしていることを聞きました。

60年以上前の金型から作られた船舶部品を片手に今後の抱負を語る篠原さん

 「長いあいだ引き継がれてきた会社の強みをしっかりと理解すること。その上で会社の財産として大事にすると共に、各時代にビジネスとしてどう展開していけばよいのか、調整していく。このような取り組みこそが、まさに家業を継ぐ意味だと捉えています」

 まさに会社の理念である「温故知新」であり、多くの人に相談した上で結果を出すプロセスも、同様と言えるでしょう。

 「優秀な経営者を見ていると、本業とは関係のない事業ではなく、家業の核となる強みに関連する分野で勝負していることに気づいたからです。これからもクラシックな技術をベースとしながらも、新たなチャレンジを続けていきます」