弓削牧場は忠生さんの亡くなった父親が勤めていた牧場を“脱サラ”し、新規就農で起こした牧場です。忠生さんは三男。牧場を継ぐことは考えていなかったものの、家業に関心があったことから高校を卒業後、兵庫県の畜産関係の講習所で1年学び弓削牧場で働き始めました。58年前の1964年のことです。
先代である父親が亡くなった1980年代はじめは、牛乳消費の伸びが止まり、生産調整の強まりと販売乳価の低下と酪農家にとっては厳しい時代に直面していました。どうやって牧場を存続させるか、頭を悩ませていたところでした。
長男と次男は牧場経営に関わっておらず忠生さんも後を継がないということになれば、設備投資による借金をどうやって返済するのか、「問題が山積みで、牧場を継がずにやめるという選択肢はなかった」と忠生さんは笑って振り返ります。
規模を拡大しても、毎月の餌代に売り上げの6〜7割がかかります。365日休めない搾乳作業で働き続けの体力勝負。乳価が下がっても事業を継続できる形は何か……。牧場で牛を育て、牛乳だけでなく加工した製品も販売するところまで牧場内でやることが、牧場経営を続けるには必要だと考えました。
この考えのヒントは、1966年から1年間渡米し農業研修を経験した忠生さんの頭にずっとあったものでした。米国研修で見たカリフォルニアの農業には生産だけでなく、牛乳や乳製品や育てた野菜を使った料理をレストランで提供する、今でいう6次産業の形がすでにありました。
「米国のベッドタウンにあったウォーターメロンの農家がやっていたレストラン。ものすごい勢いで住宅開発が進むなか、神戸という都市で酪農を続けるにはこれしかないと思いました」と忠生さんは言います。
とはいえ、牛乳は農協を通じて販売することが基本的な流れだった時代、酪農家である忠生さんが代表となり新規事業として乳製品を製造販売するにはさまざまなしがらみがありました。問題を解決するには、妻である和子さんの力が必須だったのです。
「チーズ造りを始めると“牧場長の号令”があったのは5歳の長女、2歳半の長男、生後6カ月の次女の子育てまっただなか。できるわけがないと思いました」と忠生さんの妻であり、乳製品製造事業の代表を務める和子さんは当時を振り返ります。
忠生さんの勢いに根負けする形でスタートしたチーズ事業も40年近く経ち現在では、冷蔵ショーケースには看板商品のフロマージュ・フレのほか、カマンベール、リコッタ、モッツアレラなどさまざまなチーズが並んでいます。
とにかく動き始める開拓者精神 結果を引き寄せる
今では、牧場の工房で作るチーズを購入したり、搾りたてのフレッシュな牛乳を飲んだりするのは当たり前となっています。ですが、弓削牧場がチーズ作りに着手した1980年代は大手乳業メーカーが製造販売を行うくらいで、個人の酪農家が取り組んでいるのはまれでした。
子どもたちが寝た後、夫婦でチーズに関する米国の本を訳しながら試作を繰り返し、なんとか製品化にこぎつけても、見慣れない食べ物を買おうという人が増えない……。
そこで、チーズの食べ方を提案する拠点として、牧場内に販売所兼発信拠点として現在のレストランの原型を建設しました。それが1987年のこと。言うなればここで、搾乳だけの1次産業から、加工、販売、サービスまで弓削牧場内で一体的に取り組む6次産業化を実現しました。
「手探りで始めたチーズ事業にレストラン事業、新しいことに向かってとにかく動き始めると新しいつながりができるものです」(忠生さん)。
最初にチーズ商品を取り扱ってくれた高級スーパー「いかりスーパー」もその1つで、35年以上にわたる付き合いが続いています。酪農経営継続の危機と直面し、生き残りを賭けたいくつものトライアルによって今の弓削牧場は形作られています。
人口150万人超の都市で酪農を営む意味
忠生さんの、開拓者精神は衰えを知りません。今、力を入れているのが「小型バイオガス生産の装置開発」です。2011年から構想し、今のようにSDGsが叫ばれる前から「資源循環によるエネルギーの地産地消」の取り組みを続けてきました。
「そもそもの始まりは、牧場の近くまで宅地開発が進み、新しくやってきた住民の方々から牧場の臭いが問題とされるようになったからでした。この地でずっと酪農を続けるには解決策を見つけなければ……そう考えていた2008年、オーストリアのある街で、ふん尿を使ったバイオガス発電を生かした牧場を見て、これが答えにつながるのではないかと考えました」
忠生さんは「これだ!」と思うとまず動き始めます。バイオガス発電の日本の現状を調べると、帯広畜産大学で研究に取り組んでいる梅津一孝教授の名前にぶつかり、ツテをたどるでもなく突然、大学に電話をかけて「一度、お話を聞かせてください」と願い出たそうです。
「街中にある酪農家が抱える問題について膝を突き合わせてお話させていただいたら、”ぜひバイオガス生産装置による新しい牧場の形を具現化して欲しい”と梅津教授は言ってくれました」
すでに北海道には、バイオガスシステムを導入している農家がありました。ただ、北海道の酪農だから成り立つ、大型の欧州製バイオガス装置。弓削牧場のような牛50頭ほどの小規模酪農家向けではありません。
そこで、タイや中国などで普及している小型の発酵槽に目をつけ、2015年に1基目の試作装置を導入、梅津教授のアドバイスに始まり、神戸大学の井原一高助教授(現教授)とも連携し、ふん尿をためる球体型タンク、発生したガスや液体を流す配管装置などバイオガス生産装置の開発を進めてきました。
現在、牧場内にふん尿などをためる球体型タンクは2基あり、ビニールハウスのストーブや牛舎で使うお湯の熱源として使われています。ガス生産時にできる液体、「消化液」は肥料として2018年には有機JAS(日本農林規格)資材認証を取得。牧場内にある畑の野菜やハーブ、ブルーベリー60本や白いちじく
20本など果樹の肥料とするだけでなく、神戸市内の農家向けに販売もしています。
また液肥のみで無農薬、無化学肥料の米づくりにも挑戦し、牧場内のレストランでも提供を開始しているのです。
「牧場内で使用する水は、地下200mから組み上げる井戸水。消化液のみで栽培する無農薬、無化学肥料の野菜は牧場内のレストランで使います。神戸市の新興住宅街にある弓削牧場で小型バイオガス生産装置を使った資源循環の仕組みを具現化できたら、日本中の小規模農家さんに地産地消の新たな都市型農業の形を提案できるのではないかと夢見ているんですよ」
子どもたちには「負の遺産」とならないものを
都市化や貿易自由化、農業をめぐる環境の変化に対応するため、忠生さんはまず動き解決してきました。ただ、事業承継に関しては鷹揚に構えます。
「子ども3人、孫は6人いますが後を継ぐことは強制はしませんよ。牧場かチーズ工房かレストランか、はたまたまったく新しい事業か……誰がどこで力を発揮するだろうかといった“妄想”はしますけどね(笑)。それぞれに、自分が初代として切り盛りできる何らかの事業ができるといいなと思います。自分自身、もし、“安全牌”な事業として牧場を継ぎ、親父の歩いた道をなぞるだけだったらうまくいかなかったでしょう。残してくれたものを使い、チーズを作りレストランを始めた。残してくれたものをタネから苗木に育て1本の木として実を付けるようになったのが今のチーズ事業やレストラン。さらに1本、2本と木が増えていくのが理想です」
現在、酪農とチーズ製造、経理、総務部門は、高校と大学で酪農と乳製品について学んだ長男、太郎さんが担当。情報収集などマーケティング部門はポートランド在住の長女の杏子さん、「コミュニケーション能力が高く、人との交流が得意」(太郎さん)という次女の麻子さんがレストランを切り盛りしています。
「3人きょうだいがそれぞれ得意分野で事業に貢献する形なので、弓削牧場では“ワンマン経営”はありえませんね。3人がそれぞれ意見を出し合い、いい形に収まることもあれば、フラットな関係で進めることができないことが課題となることもあります。現在従業員がパートさんも含めて45人。まだ個人事業の延長線上にある会社なので、福利厚生を整え事業としての安定感をつくっていく。その上で、酪農以外のまったく新しい事業も模索していきたいと考えています」(太郎さん)
生前、創業者の吉道さんは高村光太郎の詩の一部を書き写していたそうです。その紙には次のような一文があります。
「一生をかけ、二代、三代に望みをかけて開拓の鬼となるのがわれらの運命」
次の世代へ望みをかける開拓精神、これは2代目である忠生さんにも共通するもの。地産地消の新たな都市型農業の形を提案する「弓削牧場」2代目夫妻を支える長女、長男、次女3人の子どもたち、さらに孫の世代へーー。弓削牧場の枝葉がどう広がるのか、忠生さんはこれからも最前線で動きながら先を見続けます。
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