目次

  1. 「負の遺産」も受け止めた2代目
  2. 酪農家にとって怒涛の1980年代
  3. とにかく動き始める開拓者精神 結果を引き寄せる
  4. 人口150万人超の都市で酪農を営む意味
  5. 子どもたちには「負の遺産」とならないものを

 「負の遺産を残さずに、酪農を継承し続けるにはどうしたらいいか」。先代である父の事業を継いだときから、弓削牧場の2代目・弓削忠生さんの経営の軸はここにあります。

 弓削牧場は忠生さんの亡くなった父親が勤めていた牧場を“脱サラ”し、新規就農で起こした牧場です。忠生さんは三男。牧場を継ぐことは考えていなかったものの、家業に関心があったことから高校を卒業後、兵庫県の畜産関係の講習所で1年学び弓削牧場で働き始めました。58年前の1964年のことです。

 先代である父親が亡くなった1980年代はじめは、牛乳消費の伸びが止まり、生産調整の強まりと販売乳価の低下と酪農家にとっては厳しい時代に直面していました。どうやって牧場を存続させるか、頭を悩ませていたところでした。

弓削牧場を歩く弓削忠生さん

 長男と次男は牧場経営に関わっておらず忠生さんも後を継がないということになれば、設備投資による借金をどうやって返済するのか、「問題が山積みで、牧場を継がずにやめるという選択肢はなかった」と忠生さんは笑って振り返ります。

 規模を拡大しても、毎月の餌代に売り上げの6〜7割がかかります。365日休めない搾乳作業で働き続けの体力勝負。乳価が下がっても事業を継続できる形は何か……。牧場で牛を育て、牛乳だけでなく加工した製品も販売するところまで牧場内でやることが、牧場経営を続けるには必要だと考えました。

 この考えのヒントは、1966年から1年間渡米し農業研修を経験した忠生さんの頭にずっとあったものでした。米国研修で見たカリフォルニアの農業には生産だけでなく、牛乳や乳製品や育てた野菜を使った料理をレストランで提供する、今でいう6次産業の形がすでにありました。

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