入社1ヵ月で創業者が急逝 2代目は数千万円の負債を背負って事業を続けた
入社1ヵ月後に創業者が急逝。数千万円の負債に対し、現預金数十万円という状態で、建築・不動産会社のハステック(東京都渋谷区)を24歳で引き継いだ2代目社長の田島太郎さん。家業でもない会社をなぜ事業承継したのか、どのようにして事業を成長させていったのかを聞きました。
入社1ヵ月後に創業者が急逝。数千万円の負債に対し、現預金数十万円という状態で、建築・不動産会社のハステック(東京都渋谷区)を24歳で引き継いだ2代目社長の田島太郎さん。家業でもない会社をなぜ事業承継したのか、どのようにして事業を成長させていったのかを聞きました。
目次
田島さんは大阪で設計事務所を営む家で生まれ育ちました。創業者は祖父で、父親が2代目。長男の田島さんも、幼いころから家業を継ぐものだと思っていました。
「最盛期には15人ほどの社員が働く事務所で、事務所に遊びに行ったり、会社の忘年会などに参加したりしてはかわいがられていましたね。製図の紙を取り換える手伝いをすることもありました」
創業者の祖父は母方であり、父親は元々会社員で建築や設計とは無縁でした。にもかかわらず結婚後、働きながら夜学で建築を学ぶ背中を見ながら田島さんは育ちました。
大学で建築を学んだ後、設計士として不動産会社の建築部門に入社します。大学で1年留年していた田島さんは、1日も早く成長したい、との意欲を持っていました。しかし、しばらくすると違和感を覚えます。
「父親や祖父は朝から晩まで、休日も返上で仕事三昧の日々でしたし、それが当たり前の働く姿だと思っていました。そのため入社当時は、ベンチャー企業らしい仕事三昧の環境を楽しんでいました。ところが、上場に際し労働環境が変化していきました」
結果、2年もしないうちに会社を去る決断をします。
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これから先、どうしようか。早々に家業に入ることも考えたという田島さん。商社の不動産事業部門でキャリアを積んだ後、1987年にハステックを創業した萩森三博さんを紹介され、その後、大きく人生が動いていきます。
創業当時、世間はバブルの真っ只中でした。詳しい数字は聞いていなかったとのことですが、不動産オーナーなどへのコンサルティング事業を軸に、従業員、売上高ともアップするなど、業容を拡大していきます。
顧客からの信頼も厚く、仕事が途切れることもなかったそうです。ところがパーキンソン病を患っていたこともあり、次第に対応が難しくなっていきます。それに合わせて事業が縮小していき、田島さんと出会ったときには社員ゼロ、嘱託として働く年配者、アルバイトの事務員が1人ずつ、という状態だったそうです。
「難病に加え60歳を超えていることもあり、体はキツそうでした。ただ話すと、頭はキレキレでもう一花咲かせたいと、仕事に対する情熱を熱く語ってきました。そんな熱意に惹かれ、この会社で再スタートを切ろうと思いました」
入社するとすぐに、萩森さんは田島さんを連れて顧客へのあいさつ回りに奔走します。先方からは「後継ぎが見つかってよかったな!」との声とともに、仕事の依頼をされることもあり、田島さんと二人三脚で会社を建て直していくかに思えました。
そんな矢先、萩森さんは会社帰りに駅の階段で突然倒れ、帰らぬ人となります。死因は心臓発作。田島さんの入社から1カ月後のことでした。
「驚いた、というのが正直な感想でした。ただ、この先どうしようかうろたえることはありませんでした。家業で社長をしていた祖父の死を、経験していたことが大きかったように思います」
祖父が亡くなった際には社葬を行ったそうで、祖母や母が葬儀の席で取引先などを前に、改めてこれからの会社としての決意を述べたそうです。田島さんは葬儀委員長となり、社葬を執り行うことを決めます。
そして改めて、弔問に来た方からかけられた言葉で、萩森さんの人柄や仕事に対する姿勢などを知ることになります。
「記帳や焼香を待つ列は長く、数百人もいらっしゃいました。いかに人に好かれていたか。これまで事業を通じて社会に貢献してきたか。改めて、創業者の偉大さを感じました」
一方で、多額の負債があったことがわかります。会社に残された現預金は数十万円。法人向け生命保険にも加入していませんでした。
田島さんは葬儀でかけられた次のような言葉を思い出し、熟考します。
「萩森さんには散々お世話になったけれど、恩を返す先がなくなってしまった。だからこそ、ハステックという会社だけは、どうしても残してほしい。萩森さんが選んだあなた(田島さん)なら、それができるとも思っている」
家業を創業した亡き祖父が、父親から田島さんへと、自分の会社を何としても後世に残したいと、生前によく語っていたことも重なります。
結果として田島さんは、ハステックという社名、萩森さんの思いを継承するために、数千万円の負債を背負う覚悟を決めます。24歳のころでした。
「改めていま考えると、よく継いだなとは思いますけどね」
田島さんは苦笑いしながら、事業を継承したときの本音を吐露しました。
田島さんは事業継承後1年ほどで負債返済の目処をたて、3年後には完済します。
「どんな仕事でもとにかく、不動産と関連するものは引き受けていました。休日も返上し、気合と根性でがむしゃらに仕事に取り組みました」
具体的には、萩森さんが紹介してくれた人、葬儀の参列者などに連絡をとり、営業しました。ただ、営業をかけるまえに葬儀をきっかけに仕事を依頼してくる人も少なくなかったそうです。
1年経ち返済の目処がたつと、新たな事業にも取り組みます。戸建やアパートの賃貸や分譲です。建築スキルやアイデアで、同業他社との差別化を図っていきます。
当時、不動産の価値は立地や形状、接道状況が大半というのが常識だったといいます。これに対し、田島さんはこれまで培ってきた建築・設計スキルを活かし、立地のあまり良くないエリアに、デザイン性の高い物件を展開していきます。
加えて、最新設備が整った物件を扱うなど、立地以外の付加価値を持つ不動産を、次々とリリースしていきました。ここからが特筆すべき点ですが、田島さんが支持を集めたのは、付加価値を明確に数値化したことです。
「オートロック付きの物件であれば月の家賃を指標にプラス3000円、同じく浴室乾燥機が備わっていれば3000円といった具合に、不動産の価値を明確に数字で示しました。アパート経営をする方にとっての大きな指標は収益性です。その収益性明確化にしたわけです 」
田島さんが設計した分譲住宅や賃貸アパートは次々と売れていきます。そして3年ほど経つと、会社継承時の負債を完済します。社員も20人ほどに増え、売上高は数十億円にまで拡大。もう一度花を咲かすという、萩森さんとの約束を実現しました。
不動産事業の立て直しを成功させた田島さんは、一部を残し不動産事業を売却、別の事業に取り組んでいきます。その内容は後編の記事「ゼロイチにチャレンジする組織へ 不動産業からスマホアプリの開発へ」で紹介します。
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