山村の趣を感じさせる木造の建物に、モノクロでポップな看板が、安分亭の目印です。松江市中心部から南へ約10キロ、旧八雲村という山々に囲まれた集落に、その食堂はあります。
「野菜とジビエ、たまにお蕎麦。」という副題の通り、メイン食材は八雲の猪肉と新鮮野菜です。安分亭のインスタグラムには、そぼろご飯、グリーンカレー、麻婆茄子、ガパオライスと、和洋中を問わずアレンジされたメニューが並んでいます。
地域おこし協力隊を機に島根に移住
夫も同じく島根出身だったことから、年々「地元で暮らしたい」という思いを強くしていた2人。そこで偶然にも、松江市が地域おこし協力隊の1期生を募集し始めたことを知り、家族4人で島根に移り住むことを決めました。
協力隊期間中は、アンテナショップの立ち上げや地域産品を使った商品開発に奔走しました。地域を回る中、鳥獣被害が山間部で深刻化している現状も肌で感じていました。
協力隊の任期は最長で3年間です。この間、着手した活動を退任後も継続していくため、任期最終年の2018年11月、同期とともに弐百円を起業します。「必要不可欠な存在ではなくとも、居たら意外と便利な存在かも……」。そんな思いを、架空の硬貨・弐百円玉になぞらえて名付けました。
狩猟免許(猟銃・わな猟)も取得し、鳥獣被害対策事業にも関わるようになりました。
「夏のイノシシはおいしくない」
食用とするイノシシの狩猟は、毎年11月中旬から翌年2月中旬までと猟期が決められています。それとは別に、農作物に被害を及ぼす有害鳥獣の駆除を目的とした捕獲があります。2019年度に松江市が作成した「鳥獣被害防止計画」(PDF方式)によると、イノシシによる農作物被害は市内全域で確認されており、毎年1千頭前後が有害鳥獣として捕獲されています。
前述の事業に関わるようになってから、森脇さんは一つの疑問を抱くようになりました。猪肉の活用状況についてです。
森脇さんによると、有害鳥獣として捕獲される1000頭のイノシシのうち、食肉として流通するのはわずか5%ほどにとどまるのだそうです。
特に見過ごせなかったのは、夏のイノシシの取り扱いでした。
「夏に獲れたイノシシは、脂が少ないからおいしくない」。地元の人たちからはそう敬遠され、食肉加工されることなく、埋められて廃棄されていたのです。
「鳥獣被害対策としては、我々の任務は捕獲までで完了します。でも、目の前で埋められるイノシシを見て、自分たちの無力さを痛感しました」
森脇さんは、夏の個体も含めた猪肉を積極的に販売していく方針を掲げました。地域の猪肉を解体・販売する「八雲猪肉生産組合」に加わり、自ら肉をさばくようにもなったのです。
また、弐百円のオンラインショップを立ち上げ、猪ジャーキーやフランクフルト、犬用のおやつといった加工品の販売も始めました。
猪肉をふるまう食事処が閉店
1頭でも埋めない。
そんな信念で猪肉の販売促進に尽力していた矢先、その取り組みに大きな影響を及ぼしかねない出来事が起きました。猪肉料理を出していた八雲地域の食事処「知足亭」が、閉店することになったのです。
知足亭は、物件は市が所有していましたが、運営は地元農家が主体となって担ってきました。田舎の素朴な食事処といった趣で、ここで提供される猪肉カレーは看板メニューの一つでした。人情味ある年配スタッフの対応も好評でしたが、高齢化には逆らえず、2021年末で店をたたむことになりました。
しかも、知足亭が位置するのは熊野大社の目の前。地元の猟師たちが、毎年猟期の前後に安全祈願祭と感謝祭を執り行っている神社です。参拝客にも、八雲の猪肉を味わってもらえる格好の場所でもあります。
「由緒ある場所のお店を残したい」。知足亭の運営関係者からの打診もあり、弐百円として市の公募に手を挙げることにしました。
そして知足亭の閉店後、森脇さんら弐百円が事業を承継し、新たな店舗として生まれ変わることが決まったのです。
「知足」から「安分」へ、思いも人もメニューも引き継ぐ
2022年5月、知足亭は、安分亭へと名前を変えてグランドオープンすることになりました。八雲の素材を生かし、地元の猪肉や野菜を使ったメニューを提供していく方針は、知足亭のころと変わりありません。知足亭の大将が厨房に立ち、そば打ちする日もあるそうです。
大きく変わったのは、食堂としての機能以外の役割が備えられたことです。
森脇さんは、安分亭を「弐百円の事業や理念の発信拠点」とも位置付けています。店内には、猪肉ジャーキーのほか、イノシシの皮製品や銃の薬莢で作られたキーホルダーも並んでいます。この薬莢は、先輩猟師からもらったものや自分たちが撃ったものです。
「取引銀行には『弐百円は何をしている会社かよくわからん』と言われていましたが、会社の理念が伝わりやすくなりました。何より夏のイノシシを使った料理が提供でき、それが美味しいことを実証する場にもなりました」
そう笑う森脇さん。イノシシグッズを並べることは、安分亭を訪れた人たちと、猪肉を食すことの必要性や地域のあり方について語るきっかけにもなるといいます。
地元・八雲へのこだわりは器にも表れています。店内で使う食器は、近くの養護学校の生徒が作りました。安分亭でともに食事をしながら知恵を出し合い、地元食材を使った料理に合うデザインを考えました。
「『地元の役に立ちたい』という生徒さんたちの気持ちを汲みながら、食育やクリエイティブなことに取り組める場所になっているのがうれしいです」
「猪肉には抵抗があった」とか「今までボタン鍋しか食べたことがなかった」という人々が“猪肉は美味しい”と見直す場であり、イノシシを考える場であり、地域の人たちが交わる場でもある――。
そんな安分亭であることが、森脇さんにとって働く原動力になっています。
「週3日営業ですが、山間部で家賃が安く、スタッフのみなさんに協力していただき、黒字営業ができています。弐百円を発信し、交流拠点とすることが、もうけを出すより大切なことだと思っています」
切り札は栄養価 女性向けサブスク販売の道を探る
安分亭の運営にとどまらず、さらなる猪肉の活用に向け、森脇さんは次の展開を描き始めています。小売販売の拡大です。
そもそも一般の小売店で猪肉が流通しにくいのは、野生の個体であるというのが大きな理由として挙げられます。飼育されている牛、豚、鶏に比べ、野生由来のためどうしても品質の個体差が大きくなる。供給量は不安定。その上、高価。
覆しがたいそうした難点を打破する切り札として目を付けたのが、栄養価でした。農林水産省のサイト「ジビエの魅力」で公表するデータを調べてみると、牛や豚に比べて鉄分が豊富で、ビタミンB群がバランスよく含まれていることがわかりました。
そうしたデータは、管理栄養士である森脇さんの目に「ポテンシャルがある」と映りました。「鉄分は貧血に、ビタミンB群は脂質や糖質の代謝促進に効果があります。女性は毎月生理があるので、貧血に悩む方は多くいます。もちろん、ダイエットにも関心が高い人が多い。そうした女性たちに向け、猪肉を提供していけるよう計画をしています」
一般の小売店で買いづらい猪肉を、女性たちにどう届けていくか。森脇さんが検討しているのが、サブスクリプションサービスです。
「猪肉ビギナーにも使いやすいミンチ肉をサブスク販売するプランを考えています。ミンチ肉であれば、パスタやハンバーグといった料理に簡単に使えます。健康に関心が高い女性向けなので、管理栄養士が考案したレシピや栄養に関するお話もセットにして届ける計画です。猪肉やジビエに対するハードルが下がるのではないかと思っています」
夏の猪肉のメリットに焦点
栄養価に焦点を当てると、これまで厄介者扱いされてきた夏の猪肉のメリットが際立って見えてくるようになりました。脂がのって「うまい」とされる冬の猪肉に対し、夏場のものはより脂質が低く、カロリーを気にする人たちにとってはうれしい食材だといえます。
「夏の猪肉は『八雲のイノシシ』とうたわない方がいい」。ベテラン猟師からは、そんな厳しい言葉が寄せられることもあります。自ら肉をさばく経験を重ねてきたことで、その意味を理解できるようにもなってきました。
「猟師さんの意見は尊重すべきだと思っています。そのため、旬のよさがある猪肉と栄養面にフォーカスした猪肉とで分けて考えています。『1頭でも埋めない』が、私たちのポリシーであることは変わりません」
季節だけではなく、個体差も大きい野生のイノシシの利活用にはまだまだハードルも感じています。日々猪肉と向き合いながら、試行錯誤を続けています。
「1頭でも埋めない」 信念を貫くために
最近では、行政からの委託を受けて、鳥獣被害対策の研修会に出向くことが増えてきました。少子化と高齢化が極端に進み、子どもが一人もいない集落を訪れることもあるそうです。
「獣害対策用の防護柵さえ設置することができない」
「とにかく、イノシシを殺処分してほしい」
高齢者しかいない集落から、そう切望されることもあります。そのたびに、「1頭でも埋めない」という自らが貫く信念に沿い、できることは何だろうかと模索を続けています。
「捕獲後の肉や皮の利活用のことについて、もっと知らせていきたいと思います。殺処分という方法だけでなく、猪が畑に近寄らないようにするにはどうしたらいいか。イノシシの生態を学び、啓蒙していくことも、今後は必要になってきそうです。何より大切なのは、身の回りにある資源や、我々の活動に関わってくださる地域の方々にも感謝の気持ちを忘れない、ということです」
足るを知り、自らの境遇に満足すれば、豊かな心持ちで過ごすことができる。
山あいに何気なくあるものに光を当て、磨いていく森脇さんの姿勢は、そんな「知足安分」の精神を体現しているようです。