矢面に立たされたのはテーブルウェアの「ハサミポーセリン」。篠本拓宏さんをデザイナーに迎えたそのブランドは、一切の装飾を廃しシンプルを極めたフォルム、そして独自の配合と焼成温度がもたらすざらりとした手触りを特徴としました。
篠本さんはインテリアショップのイデーでキャリアを積み、ロサンゼルスを拠点に活動していた知る人ぞ知る存在。ハサミポーセリンは西海陶器アメリカ支社の主導で2012年に始動したばかりのプロジェクトでした。
「焼き物と言えば釉薬でコーティングするのが常識でしたから、父の理解の範疇を超えていたのでしょう。しかしふたを開けてみれば増産に次ぐ増産。最高のスタートが切れました」
この方向で間違いない――。自信を深める児玉さんのもとに一通のメールが届きます。送り主は米国のアップル社でした。
「いまどきお粗末な迷惑メールだと思ったら本物でした。ハサミポーセリンの存在を知って直々にオファーしてきたのです。アップルのマグカップはうちでつくりました」
無名だった波佐見焼をブランドに
西海陶器は児玉さんの祖父・薫さんが1946年に創業しました。戦争から帰った薫さんは地元の焼き物を買い付け、リヤカーを引いて売り歩いたそうです。
高度経済成長期にはダイエーと組んで事業の土台を築きます。当時、業界で価格破壊を行った会社と言えば西海陶器のことを指しました。
創業当時の西海陶器。社名は1955年に完成し、“東洋一のアーチ橋”とうたわれた西海橋から採りました。人の暮らしの架け橋になりたいという願いを込めています(西海陶器提供)
これを盤石なものとしたのが父の盛介さんでした。
盛介さんは時代の追い風に乗り、京都の料亭などを相手に大きな商売をしました。余勢をかって海外進出にも乗り出します。1990年のシンガポールを皮切りに、現在は米国、中国、オランダにも支社を構えます。
1997年には地元の経営者や政財界の重鎮が交流する場として朝飯会(ちょうはんかい)を発足。皆で朝食をとりながらざっくばらんに語り合う会はすでに200回を超えました。
21世紀に入ると波佐見焼の確立に動き出します。いまでこそ感度の高い消費者のあいだでは知られた産地ですが、そのころは無名と言っていい存在でした。波佐見町の窯元はそれまでずっと有田焼の下請けとしてやってきたからです。
きっかけは2002年に大問題となった牛肉の産地偽装事件でした。この事件が飛び火して、業界に不協和音が生じます。波佐見は波佐見、有田は有田でやっていくべきではないか、と。これを決断したのが盛介さん。当時、長崎県陶磁器卸商業協同組合理事長を務めていました。
波佐見焼には400年の歴史がありますが、その歴史はたっぷりほこりをかぶっていました。盛介さんはすすを払うブランディングに乗り出します。そのルーツは、くらわんか椀。江戸時代から愛されてきた丈夫で割れにくい茶碗のことです。盛介さんは波佐見焼を庶民の器であると定義し、業界をまとめ上げていきました。
03年には廃業した窯元の跡地を買い取り、若者の拠点として開放しました。「西の原」と名づけたそのエリアにはしゃれたお店が続々とオープンし、年間15〜16万人が訪れるまでに。“来なっせ100万人”をスローガンに官民力を合わせた観光事業の起爆剤になりました。
父の盛介さんが立ち上げた西の原にはしゃれた店が軒を連ねます(西海陶器提供)
波佐見焼のブランド化と地方再生。「ツギノジダイ」にふさわしい、八面六臂の活躍をみせた盛介さんからの指示を受けて児玉さんが創業したのが東京西海です。
世界に通用するテーブルウェアを
「(世田谷にある)このビルは西海陶器の持ちものですが、実質貸しビル業になっていた。父から『あそこを拠点に何かやれ』と言われました。さて何をやろうかと考えて出した答えがグローバルなオリジナルブランドの創造でした。折しも和食器からの脱皮を図らないといけない時期にきていました。窯元から仕入れて卸すだけではない、あらたなビジネスモデルもつくりたいと思いました」
気鋭のデザイナー阿部薫太郎さんが手がける「エッセンス オブ ライフ」(西海陶器提供)
児玉さんが相談したのは阿部薫太郎さんという若きデザイナーでした。
「阿部さんは父がほれ込んで三顧の礼で迎えた人。現在は西の原に工房を構えています。阿部さんにわたしの思いをぶつけて誕生したのが(テーブルウェアブランドの)『エッセンス オブ ライフ』でした」
阿部さんは伝統的な蕎麦猪口をフリーカップと名づけ、モダンなデザインをあしらいました。使い方を使い手の感性に委ねたフリーカップはSNSで評判に。タイムラインにはデザートやスイーツを盛り付けた画像があふれました。
ハサミポーセリンに続いて「エッセンス オブ ライフ」を軌道に乗せると、児玉さんはこれはと思うデザイナーに次々と声をかけていきます。オファーの内容は、世界の食卓に並ぶテーブルウェアをつくってください――という一点のみ。
「具体的な絵づくりはまるっとお任せしています。そのほうが生き生きと仕事ができるし、ひとりでは思いもつかないデザインが生まれます」
東京西海が展開するブランドは創業の地・波佐見町でつくられています(西海陶器提供)
東京西海の売り上げは右肩上がりの成長を続けており、22年度は2億円を突破しました。うち15%を海外が占めます。国内外の展示会に出展したり、ホームページをつくったりと相応の努力を重ねてきましたが、忘れてはならないのがいわゆる口コミの効果です。
これはファッション業界に顕著な傾向ですが、従来の媒体が影響力を低下させるなか、代わって浮上したのがインフルエンサーと呼ばれる人々でした。アーティストやデザイナー、フォトグラファーといったクリエーティブなプロフェッショナルを自らの計画に巻き込んだことが決め手となったのです。
まさに順風満帆と表現するにふさわしいものですが、つまずくようなことはなかったのでしょうか。「苦労を苦労と思わない性分もあるのかも知れませんが、わたしが進む道には小石ひとつありませんでした」
海外デザイナーとも協業
東京西海が展開するブランドは現在七つ。取り組むデザイナーは日本人に限りません。「ヌップ」はフィンランドのマイヤ・プオスカリさん、「ハ」はイギリスのセバスチャン・バーンさんがデザインするブランドです。
「世界基準のブランドをつくろうとしているんです。彼らを選択肢に入れない法はありません」
もちろんすべてが順調なわけではありません。スイスのアオイ・フーバーさんのイラストをあしらった「サバト」は再考の余地があると言います。
「モダンを目指した焼き物に共通するのは無地、ということでした。そろそろプリントものもいいんじゃないかと立ち上げたんですが、早すぎたようです。販売会を開催してその数字を取引先への説得材料にするなど、さまざまな工夫をしましたが、思うような成果はあげられていません。グッドデザインアワードも受賞したんですけれどね。ゆえに様子をみてもう一度仕掛けたいと考えています」
町を元気にする事業を続々
ハサミポーセリンの成功をみた盛介さんは15年、あっけないほどの潔さで代表の座を譲りました。はなむけの言葉は「若い感性で会社を引っ張ってほしい」というものでした。
児玉さんが西海陶器の社長に就任して、 精力を傾けてきたのは波佐見町への援護射撃です。
ひとつは、19年にオープンしたオウンドメディア「ハサミライフ」。
「ECサイトの体裁をとっていますが、重要なコンテンツとなるのが窯元の取り組みや街の魅力を紹介するものです。ようやく波佐見焼が知られるようになったいま、より深く知ることのできるポータルサイトが必要だろうと考えたのです」
専属のスタッフを雇い入れた「ハサミライフ」はメジャーなウェブサイトにも負けないクオリティーを目指しています。インスタグラムのフォロワーは2.2万人を超えました。
19年にオープンした「ハサミライフ」(西海陶器提供)
もうひとつが民泊です。
「父をはじめとした地元の人々の奮闘があって波佐見町は観光客でにぎわう街になりました。しかしせっかく訪れていただいたのに、お金の使い道は焼き物しかありません。じっくりと楽しんでもらうためにどうするか。先行事例を視察したわたしは民泊を新たな事業に加えることにしました。現在2軒の改装を終えたところです」
産地のテコ入れにも注力しています。21年には後継ぎがなく、廃業するという窯元を買収しました。これまでの態勢を維持しつつ、マネジメントのみ受け持っているそうです。
従来の取引先に対しては発注を途切らせないことを肝に銘じています。収入面はもとより、手を休ませないことが職人仕事には求められるからです。
「街が元気になれば、まわりまわって自分のところに戻ってきます」と語る児玉さんですが、産地のほうは少々順調に過ぎたようです。児玉さんは笑って続けました。「(窯元が)うちの仕事を受けてくれなくなったとデザイナーがこぼしているんです」
東京西海とがっぷり四つに組むことで技術力が向上し、評判が評判を呼んで忙しくなったためです。
「ハサミポーセリンは厳密な採寸が可能としたスタックできる(重ねられる)構造も見どころですが、その制作過程はわたしの意識も変えました。焼き物は釜に入れれば収縮します。プラスチックのようにサイズをそろえるのは難しい。デザイナーと職人のやりとりは毎回丁々発止。ところが完成すれば抱き合って喜ぶ。これを特等席でみることができたんです。わたしはあっという間に焼き物のとりこになっていきました。波佐見焼がわたしを育ててくれたのは間違いないけれど、それまでは単なる商売の道具としてみているところがありました」
愛息の名前に込めた思い
「わたしは入社早々、中国支社の設立を命じられました。合弁会社をつくり、初年度から四つの百貨店に出店、FC展開も行いました。こんなことができたのは父が地元の有力者をつけてくれたから。いまなお経営者としてもひとりの男としても面白い。自分が手がけた事業はまだ一分咲きといったところだし、経営者の自分を採点するなら30点といったところです」
盛介さんらしさはこんなエピソードからも伝わってきます。
東京西海は従来の商習慣を覆す存在です。業界から聞こえてくる声はかならずしも賛意ばかりではありませんでしたが、盛介さんは馬耳東風を決め込んだそうです。
児玉さんにカリスマを継ぐプレッシャーはなかったのでしょうか。
「焦りのようなものは今も昔もありません。できることは限られていますからね。一つひとつやっていくだけです。そうして波佐見焼を世界の“HASAMI”にしたいと思っています」
波佐見町の窯業の歴史は四百余年。豊臣秀吉の朝鮮出兵で渡日した陶工が窯を構えたのが始まりです(西海陶器提供)
「これは書かれたら恥ずかしいかな」とつぶやきつつ、児玉さんはお子さんの話を始めました。
「息子が会社に遊びにきて、入っちゃいけないところに入っていったんですね。社員が『そこはだめですよ』とたしなめたら、勢いよく振り返ってこう言ったそうです。『ぼくは(いずれ)社長になるんだぞ』って。わたしも幼稚園の卒業文集に『将来の夢、西海陶器の社長』と書いたらしいので、笑うしかありませんでした」
7歳になる愛息の名は泰盛と言います。
「“盛”の字は父の名からとりました。“盛”の字ってばらすと“皿”が“成”るになる。この家業にふさわしい字です」
名も血も心意気も受け継いだ4代目の未来も楽しみです。