目次

  1. 40歳で決めた起業
  2. 手間がかかる希少部位を提供
  3. 他店をしのぐオンリーワンの戦略
  4. ハンデを超えるオペレーション
  5. 店内放送で作業を確認

――義元さんはどのような家庭で育ちましたか。子どものころから経営者になりたかったのでしょうか。

 沖縄の普通の家庭で育ちました。経営者になろうと決めたのは、高校を卒業して米国に留学していた20歳の時です。現在の「ディーズプランニング」という社名は自分の名前(大蔵=だいぞう)を冠したもので、留学中に決めました。でも、実際に起業したのはそれから20年経ってからです。

 米国では10年過ごしました。英語を話せてグローバルな視点を持てるようになったことで、自信が付いたのだと思います。

――米国から沖縄に戻ってから、起業までにどのような仕事を経験しましたか。

 米国で飲食コンサルタントのような仕事をさせてもらい、沖縄に帰ってからも2年ほど飲食のコンサルを経験しました。それからアパレル業界、物流業界などを経て、お店の立ち上げも経験しました。

 そのあと転職した広告会社が20社くらいを抱えており、グループ内の様々な会社に異動する経験もしました。その次は食品の卸売会社などを経て、再び飲食のコンサルに戻りました。

――かなり早いペースで多種多様な経験をされたのですね。

 そうですね、やりたいことがあったらすぐにやっちゃうタイプですから。

 再び飲食のコンサルをしていたある日、お客様から「この建物は取り壊しになるから、ここにある設備を全部あげる。これで独立開業したらいいよ」と言われたのが、独立へのきっかけとなりました。40歳の時です。

――様々な選択肢がある中で、沖縄をベースにビジネスをしようと思ったのはなぜでしょうか。

 僕自身沖縄出身で、沖縄が好きですから。戻った当初は東南アジアでのビジネスを考えていたのですが、その時に沖縄で出会った社長さんが懐の広い方で、会ってまだ1週間なのに「うちの飲食部門を全部見てくれ」という話をくれたのです。だから日本で、そして好きな沖縄で仕事をすることに決めました。

――2015年、40歳で「やっぱりステーキ」の第1号店を立ち上げたきっかけは何でしょうか。店名に込めた想いも教えて下さい。

 沖縄の人は飲んだ後のシメでステーキを食べるんですよ。自分も肉が好きで飲んだ後のシメには毎回ステーキでした。当時の沖縄にはラーメン屋も少なかったですし。

 「今日何食べる?」と聞いた時、「やっぱり、ステーキでしょ?」って。だから、そのままなんですよ。考えてひねった名前じゃなく、自分がいつも発していた言葉が一番しっくり来たんです。

――「やっぱりステーキ」は、牛の希少部位ミスジ(牛の肩から腕にある部位)に目を付けました。

 自分が沖縄で食べていたステーキは薄いわらじのような形をしていて、火を通すとすぐにウェルダンになってしまいます。そもそも漬け込み処理で柔らかくしているから繊維がボロボロで、脂身も多いから飲んだ後に食べるには少し重いんですよね。

 でも、米国で食べていたステーキは赤身の塊肉で、とてもおいしくて。沖縄とは全然違いました。

 自分が本当に食べたいステーキを考えていた時、「ミスジ」という部位に出会いました。ミスジは赤身が中心のさっぱりとした味で、米国で食べていたステーキを思い出したのです。でも、当時はステーキといえばリブロースやサーロインが主流でした。東京では赤身肉ブームが始まっていましたが、沖縄にはまだ到達しておらず、ましてやミスジを出すお店はほとんどありませんでした。

 ミスジはさばくのに手間がかかりますし、1キロ仕入れたら400グラム弱くらいを捨てるような部位です。安定的に仕入れるのも大変ですから、出すお店が少なかったのでしょう。

「やっぱりステーキ」で提供されるミスジのステーキ(筆者撮影)

 私たちがミスジ肉を安定的に仕入れることができるようになったのは、仕入れ交渉の努力の結果です。売り上げの推移予測を立てた上で、米国の仕入れ元と直接交渉し、必要数量を確保するように努めました。

 仕入れたミスジ肉は、丁寧に筋を取り除くことにこだわり続けています。それが私たちが理想とするステーキだと確信していましたから。

――沖縄で1号店を創業した時、手応えはありましたか。 

 1号店は施設の外で、屋台のような形でやっていました。最初に言われたのは「外でやるなんて面白いね」が半分、「そんなの失敗するよ」が半分でした。

 外なので夏は灼熱です。暑さで厨房が50度を超え、スプリンクラーが作動したこともありました(笑)。冬は吹きっさらしで寒いですし。でも、それが楽しいと言ってくれるお客さんが増えてくれて、2カ月くらいで人気に火がつきました。

屋外にあった1号店の様子。外からの風がダイレクトに流れ込みました(やっぱりステーキ提供)

――味についての反応はいかがでしたか。

 お客さんはみんなおいしいと言ってくれました。食べたことのない部位が肉厚で提供され、好きなソースが選べます。スープやサラダ、ご飯が食べ放題なのに千円に抑えたので、顧客満足度では群を抜いていたと思います。

 8カ月後には2号店を出すことができ、その後も3号店、4号店と続けて出しましてすべて当たりました。

――沖縄にはステーキ店がひしめく中で、新たに店を作って成功させました。他店との違いは何だったのでしょうか。

 いち早く赤身を出したことでしょうね。当時はオンリーワンで、お店の個性が分かりやすく伝わりました。

 また、他店はステーキを食べると1800円、少し良い肉だと3千円くらいするのですが、うちは大衆食堂として千円で食べられるようにしたこともあると思います。

現在でもミスジ100グラムのセットを千円で提供しています(筆者撮影)

――当時、低価格のステーキ店では「いきなりステーキ」が話題になっていました。

 「いきなりステーキ」さんは当時沖縄にはなくて、私も知りませんでした。でも、いまだに「やっぱりステーキはいきなりステーキのまね」と言われることがあるんです。何一つ同じところはないんですけどね。

――離島の沖縄でビジネスをするには、物流や仕入れにおいてハンデを抱えていると思います。どのように乗り越えましたか。

 沖縄は物流コストがかさみ、肉もキャベツも高いです。キャベツなんて台風が来るだけで1玉600円くらいに高騰します。でも、ずっとそういうものと思っていましたから、県外に出た時は逆に安くてびっくりしました。

 県外は食材は安いけど家賃が高いですよね。ですから、食材は高いけど家賃が安い沖縄から県外に出ることでバランスがとれるかな、と思ったのも県外に進出したきっかけになっています。

――運営コストを抑えるため、店舗を少ない人数で回していると思いますが、オペレーション面での工夫を教えて下さい。

 オペレーションは、できるだけ効率的になるように工夫しています。我々の店舗は居抜き物件が多く、店舗ごとに形や大きさが異なりますので、そのつど適正な人数やシフトを設定しています。

 券売機の導入もオペレーションの工夫のひとつです。これにより、オーダーを聞く、会計を処理するという2回分の工程が不要になりました。また、券売機があるお店は安く感じますよね。そんなイメージ付けという意味もあります。

 もう一つの工夫は職人さんを雇わないことです。誰でも調理ができる仕組みを考えて導入したのが富士山の溶岩石になります。

 溶岩石で肉を焼くと遠赤外線効果でふっくらとした焼き上がりになり、 中がジューシーに仕上がります。

 溶岩石のプレートである程度焼いて、お客様にはレアで出します。そこから先、ミディアムレアやミディアム、あるいはウェルダンで食べたいお客様は、自ら焼けばいいのです。そうすることで、店員が焼き方の希望に応えるオペレーションが減りますよね。

溶岩石のプレートで焼き加減を調整できます(筆者撮影)

 スープやサラダ、ライスをセルフ形式にしたことも大きかったと思います。女性のお客様は「おかわり」と言いにくいですし、そもそも「あと一口」の分量は人によって違うので、顧客満足度も上がります。

 あと、カウンター席を壁に向けたことで女性のお客様でも大きな肉を食べられるようになり、結果的に客単価も上がりました。

 これらの施策を組み合わせることで、オペレーションの負担が軽くなったと思います。

ライス、サラダ、スープはセルフで食べ放題だ(筆者撮影)

――個性的な店内放送も気になります。音楽がかかって、ラジオDJ風のトークが入り、威勢の良い「やっぱりステーキ!」という叫び声も入ってきますが、あの店内放送にはどのような意図がありますか?

 店内放送はお客さん向け、スタッフ向けの二つに分け、配信大手のUSENに作ってもらっています。僕らは営業トークができないので、店内放送でお客様にしっかりご案内することで、お店ごとのサービスの均一化を狙うつもりで作りました。

 店内放送の「やっぱリリリステーキッッ!!」という叫びは、格闘技イベント「PRIDE」のリングコールなどで知られたレニー・ハートさんの声です。格闘家って肉を食べているイメージがあるじゃないですか。だからリングコールのような声が合うと思いました。

――スタッフ向けの放送というのは?

 お店のオープン時とクロージング時には漏れがないよう、スタッフ向けに作業内容の確認について流しています。これもオペレーションの工夫です。

――1号店の創業から5年間で52店舗、短期間で次々と店舗数を拡大させる戦略を取ったのはなぜでしょうか。

 戦略的に店舗数を増やしたわけではありません。フランチャイズ(FC)の申し込みが相次いだため、短期間で増えたのです。

 創業当初からフランチャイズ展開が前提でしたが、広げるための営業はしておらず、誰かに頼んだこともありません。店舗数が増えたのは、公募をしてないのにも関わらず、やっぱりステーキに感動して自分の地元でオープンさせたいというFCオーナーさんの熱い気持ちが生んだ結果です。

 ※インタビュー後編では、義元社長の戦略的な出店計画やコロナ禍や原材料高を乗り切る工夫、飲食業経営者へのアドバイスなどについて伺います。