「昭和の価値観」から脱却 ヒロセスクリーンが目指したオンリーワン
企業名の入った販促用のボールペン、自動車のボタンに示された機能表示、化粧品ボトルの原材料表示…。ヒロセスクリーン(愛知県西尾市)は、日常のさまざまな場面で活躍しているプラスチックや金属への印刷を手掛けます。2代目社長の広瀬将人さん(45)は、工場が全焼するなどの逆境にあいながらも、新分野への進出や地道な改革で少しずつ経営を改善。売上高を3倍に増やしました。
企業名の入った販促用のボールペン、自動車のボタンに示された機能表示、化粧品ボトルの原材料表示…。ヒロセスクリーン(愛知県西尾市)は、日常のさまざまな場面で活躍しているプラスチックや金属への印刷を手掛けます。2代目社長の広瀬将人さん(45)は、工場が全焼するなどの逆境にあいながらも、新分野への進出や地道な改革で少しずつ経営を改善。売上高を3倍に増やしました。
目次
機械設備40台以上、従業員も40人以上の規模を誇るヒロセスクリーン。創業したのは、父の広瀬明さん(80)です。1986年、50歳を前に脱サラし個人事業主としてスタート。母の裕子さん(73)の実家から古びた借家を借り、人手は家族や親せきに協力を仰いで、ステッカーの印刷を中心に事業を始めました。
当時将人さんは小学3年生。忙しい時には自宅のリビングに製品が大量に並べられ、発送準備などを手伝うこともありました。「両親、特に母親は常に忙しそうに走り回っている印象でした。子どもにとっては印刷の仕事はちょっとカッコ良くて、面白そうだなと思っていました」
1年ほど続けると、ステッカーの印刷だけではもうからないと分かり、プラスチック印刷へと事業を拡大します。愛知県にプラスチック関連の事業者が多いことも後押しとなり、掃除機や洗濯機など家電製品への印刷受注が、順調に伸びていきました。
暮らしと家業が近くにある中で、将人さんは成長していきます。両親からはっきりと「あとを継いでくれ」と言われたことは無かったものの、自身は何となく「そういうもんだ」と思っていました。
関東での大学生活を経ていよいよ就職の段になりましたが、後を継ぐことに対して父と母では意見が違ったそうです。父親は「自分で事業をやるのは面白いぞ。継いでくれ」、母親は「他の企業で働いてもいいんじゃない?」といった考えでした。
父親は職人気質で、良い印刷ができて喜ばれればそれでうれしい人、経理や事務作業など全般を支えていた母親の方が、経営面からの実情を分かっていたと、将人さんは話します。「ありがたいことに仕事は多くて忙しかったけれど、利益が十分出ているかというと…。単価も相手の言いなりで安いままだったりしていました。両親ともに経営を分かっていなかったし、下手だったと思いますね」
↓ここから続き
ひとまず将人さんは関東地方で印刷会社に就職。そこで印刷について学びながら、人脈を広げることを目指します。頭の中にはやはり「いつか継ぐんだろう」という思いがありました。
2000年を過ぎると、印刷業の需要が変わっていきます。掃除機など家電への印刷は減っていき、パソコンの周辺機器などへの印刷が増加。また製造業の生産拠点が海外へとシフトする中で、業界の仕事量は減少、低コストの海外と比較されるなど、環境が厳しくなっていきました。しかし、同業者の事業の縮小や廃業に拍車がかかる中で、ヒロセスクリーンは一本気に事業を続けました。相対的に存在価値が上がり、受注が増えていきました。
2002年は特に忙しい年でした。あるパソコン周辺機器メーカーから、無線ルーター部品への印刷の大型注文が入ったことが、大きな要因でした。 たまに帰省して将人さんが目にするのは、疲れた顔で夜通し働く母の姿でした。「仕事がいただけるのはありがたいこと。間に合わなければ自分たちが寝ずに頑張ればいい、というような昭和的な価値観が、良くも悪くも根付いていましたね」
もう少し関東で働きたいと考えていた将人さんでしたが、2003年に実家に戻ってきました。26歳のころでした。「とにかく、母親を助けたいという一心で、継ぐかどうかをじっくりと迷うこともなかったですね。母から聞いてはいたのですが、戻ってきて財務状況を見てみるとひどいもので…。借金を返すためにも、自分がここで頑張るしかないと思いました」
まずは営業を手伝ってほしいと母親に言われた将人さんは、既存客への対応や新規顧客開拓を進めていきました。会社に入って働けば働くほど、母親が忙しすぎる理由が分かってきました。人に任せるのが下手なのです。
例えば会社に電話がかかってくると、まず出るのが母親。他にもたくさんすべきことはあるのに「事務員を雇えばその分人件費がかかる」と、自分でやってしまいます。将人さんは何度も母親と話をし、その後やっと事務員を置きました。試行錯誤を繰り返しながら、何でも自分でやってしまう母親の仕事を、少しずつ切り分けていきました。
2008年には新工場を建設し、人員も増加。将人さんのこうした積極的な取り組みに頼もしさを感じたのでしょう、既存客からの紹介で、新規顧客が増えていきました。将人さんが戻った2003年から10年間で、売り上げは5000万円から1億円へと、ほぼ倍増となりました。
ところが、事業が軌道に乗り勢いのあった2015年の1月。せっかく建てた工場が火事で全焼してしまいます。機械も燃えてしまい、火災保険はおりたものの再度ゼロからのスタート。地元金融機関の助けを借り、仮工場で事業を再開しましたが、去っていった客も多く、その年の売り上げは半減しました。「納期が決まっているものがほとんどなので仕方がない。今できることを、できるところまで頑張ろう、という思いでやっていました」
こうした苦境にあってこそ、知ることができたこともありました。「こんなことになっても、多くの従業員が残ってくれました。お客様に励ましていただいたり、協力会社や金融機関などにいろんな助けをもらったりして、この時を乗り切れたんです。だからこそ、他地域に移転したりせずに、今の場所に、再度工場を建てて頑張っていこうと思いました」
2015年12月には、焼失した社屋を復旧し、再スタートを切りました。地道な努力を積み重ね、少しずつ人員を増やしたり、機械を導入したりし、徐々にオンリーワンな企業へと成長していきます。
2018年には、ものづくり補助金を獲得し、印刷設備を拡充します。これで新たに円筒型のものへ細かな印刷ができるようになりました。この技術によって、将人さんが狙っていたのは化粧品のボトルなどへの印刷。ちょうどインバウンドが増え、日本製の化粧品の質の良さから、多くの外国人観光客が化粧品を買って帰るという需要が出てきていました。一方で、円筒型のものへの印刷ができる企業は少なく、チャンスととらえたのです。
「できるところが少なければ、価格競争で値下げばかりしなくても、こちらから金額を提示しやすい。そうした優位な提案ができるところに事業をもってきたいと考えました」
ものづくり補助金の申請書は、補助金で実施する事業の内容や、それによって見込める利益など、大量で細かな文章とデータが必要です。ここでも地元金融機関の手助けを得ながら、補助金を得ることができました。「表面的なお金の付き合いだけではなく、普段から気にかけていただき、補助金のことも教えてもらいました。自社のこともよく分かってもらえていますし、やはり地元で長く付き合うのは、シンプルだけど大切なことだなと思います」
補助金を獲得し生産体制を強化すると、それを積極的にPR。狙った通り、徐々に受注にもつながっていきました。「生産設備は良くなったものの、技術面や生産性では人間側の能力を上げていかなければという課題も。しっかりとした収益を確保していくためには、もう少し時間がかかりそうです」
将人さんが行った組織改革のひとつに、リーダー制を敷いたことがあります。シルク印刷、パット印刷、ホットスタンプという3つの印刷分野にそれぞれ、リーダーを置きました。リーダーもパート従業員です。それでもあえて、よりしっかりと責任をもって仕事にあたるポジションを与えました。その分、リーダーになった人には賃金アップも実施しています。
「能力的には十分できる人達なのに、いわゆるパートさんだからと、これまで事業全体を見渡せるような機会を与えていなかったんですよね。リーダーというポジションをつくり、事業計画をもとにしたリーダー会議に参加してもらったり、スケジュール管理をしてもらったりと、自社の経営面に積極的に関わってもらうようにしました」
その成果が出たのが、特に忙しかった2020年~2021年。生産性がぐんと上がったそうです。 「たとえばこれまで、1時間に300~400個程度しか印刷できないと皆が思い込んでいたものが、500~600個できるようになった例もあります。一番大きな変化は、スタッフ一人一人がこれまで指示待ち体質だったのが、自己解決の意識が強くなったことです」。
ヒロセスクリーンの9割超は、パート従業員です。家のことをしながら、時給で働いてくれるお母さんたちがほとんど。当然、家事育児とのバランスをとりながらということになります。だからと言って、責任の軽い仕事や言われたことだけをやるのではなく、 “働きがい”を感じて働いてもらえる企業でありたいと、将人さんは考えます。「自分たちの価値が認められて、毎日会社に来ることが楽しみになってもらえたら、会社の力はグンと伸びるはずですから」。
一方で、過度な負担にならないよう「ひとりで考えて難しいことは、幹部に相談し皆で解決する」「人間関係のトラブルになりそうなときは深入りせず、幹部を交えて解決する」なども意識してもらっているそうです。
2022年、将人さんは正式に父親の後を継ぎ、父親が個人事業主として始めたヒロセスクリーンを法人化しました。青年会議所に入ったり、地元金融機関からアドバイスをもらいながら経営計画を作ったりと、経営者としての勉強を大切にしています。「父親が感覚的に事業を進めてきた部分が大きかったので、経営という視点から見たら、まだまだ弱い企業だと思います。なのでそこを自分がしっかりと学び、いち企業として整えていきたいと思っています」
今、ヒロセスクリーンには「こんなことできる?」という相談がよく来るそうです。社長になるまでの間に将人さんが心がけて広げてきたこと、例えば、丁寧に電話応対をする、お客様と密に連絡を取る、ミスを減らすようにインクの仕分けとラベリングをする、などがひとつずつつながって、実を結んできているようです。ひとつずつは小さなことでも「ヒロセに聞いてみよう」という関係性まで作り上げてこられたのは、大きな成果です。
ただ、そう聞いてもらえることにありがたさを感じながらも、将人さんは経営者として考えていました。「何でもやります、の姿勢で来たことが、もうけの薄い仕事を作ってしまったことも事実です。その辺はやはり、経営者としての目がまだまだだったなと思います。会社がつぶれてしまっては元も子もないので、依頼を受けるかどうかの精査は必要です。いただく相談にはじっくりと耳を傾けて、お客様も自分たちも喜べる落としどころを見つけて提案するのが、僕のすべきことだと感じています」
将人さんが2003年に戻ってきてからちょうど20年。将人さんに事業承継した父親が引退し、趣味を楽しむ日々を送る中、当時昼も夜もなく働き続けていた母親の裕子さんは、今も現役で働き続けてくれています。戻ってきた一番の理由だった母親の仕事量調整は、この20年で十分に達成できたようです。
そして母親のために戻ってきた将人さんは20年を経て、経営者として今、従業員や自社の未来を見ています。将人さんが考える大原則は、ヒロセスクリーンが「人が活躍できる企業」であること。
「僕は本当にたいしたことのない人間。リーダーとして会社を引っ張ろうとしても、そんなに良い知恵は出ないと思うんです。それよりも社内の皆が知恵を出せるよう、きっかけをつくること。それに注力していくつもりです。新しいアイデアや事業の改善策がいろんな人から自然と出てくるような、自律した組織にしていきたい。そして会社を従業員の皆と一緒に育てていく。そこが企業の価値になると思います」
将人さんが戻ってきてから売り上げは3倍以上になりました 。父親が借家からスタートさせた工場は、今では生産設備の整った愛知県内有数の工場になり、多くの顧客を抱えるようになりました。
地方の中小企業にとって、強く引っ張っていくリーダーも素晴らしいですが、従業員とひとつの輪をつくり、一緒に企業を前進させていこうとするリーダーもまた、十分に魅力的。社長からパート従業員までが風通しよく知恵を出し合い、これから企業をどう育てていくのかが楽しみです。
(続きは会員登録で読めます)
ツギノジダイに会員登録をすると、記事全文をお読みいただけます。
おすすめ記事をまとめたメールマガジンも受信できます。
おすすめのニュース、取材余話、イベントの優先案内など「ツギノジダイ」を一層お楽しみいただける情報を定期的に配信しています。メルマガを購読したい方は、会員登録をお願いいたします。
朝日インタラクティブが運営する「ツギノジダイ」は、中小企業の経営者や後継者、後を継ごうか迷っている人たちに寄り添うメディアです。さまざまな事業承継の選択肢や必要な基礎知識を紹介します。
さらに会社を継いだ経営者のインタビューや売り上げアップ、経営改革に役立つ事例など、次の時代を勝ち抜くヒントをお届けします。企業が今ある理由は、顧客に選ばれて続けてきたからです。刻々と変化する経営環境に柔軟に対応し、それぞれの強みを生かせば、さらに成長できます。
ツギノジダイは後継者不足という社会課題の解決に向けて、みなさまと一緒に考えていきます。