目次

  1. リビングが作業場だった小学生時代 
  2. 「何となく後継ぎ」が既定路線だった
  3. 疲弊する母を「放っておけない」と帰郷
  4. 人に任せるのが苦手だった母親
  5. 建てた工場が7年後に全焼
  6. 補助金で挑戦した化粧品ボトルへの印刷
  7. リーダー制で生産性をアップ
  8. 小さな積み重ねが生んだ成果
  9. 従業員とともに成長できる企業を目指して

 機械設備40台以上、従業員も40人以上の規模を誇るヒロセスクリーン。創業したのは、父の広瀬明さん(80)です。1986年、50歳を前に脱サラし個人事業主としてスタート。母の裕子さん(73)の実家から古びた借家を借り、人手は家族や親せきに協力を仰いで、ステッカーの印刷を中心に事業を始めました。

 当時将人さんは小学3年生。忙しい時には自宅のリビングに製品が大量に並べられ、発送準備などを手伝うこともありました。「両親、特に母親は常に忙しそうに走り回っている印象でした。子どもにとっては印刷の仕事はちょっとカッコ良くて、面白そうだなと思っていました」

 1年ほど続けると、ステッカーの印刷だけではもうからないと分かり、プラスチック印刷へと事業を拡大します。愛知県にプラスチック関連の事業者が多いことも後押しとなり、掃除機や洗濯機など家電製品への印刷受注が、順調に伸びていきました。

スクリーン印刷商品一例(創業当時のスクリーン印刷機ではなく、現在の印刷機で印刷したもの。ヒロセスクリーン提供)

 暮らしと家業が近くにある中で、将人さんは成長していきます。両親からはっきりと「あとを継いでくれ」と言われたことは無かったものの、自身は何となく「そういうもんだ」と思っていました。

 関東での大学生活を経ていよいよ就職の段になりましたが、後を継ぐことに対して父と母では意見が違ったそうです。父親は「自分で事業をやるのは面白いぞ。継いでくれ」、母親は「他の企業で働いてもいいんじゃない?」といった考えでした。

大学生という時間を謳歌していた頃。タイ旅行の写真(ヒロセスクリーン提供)

 父親は職人気質で、良い印刷ができて喜ばれればそれでうれしい人、経理や事務作業など全般を支えていた母親の方が、経営面からの実情を分かっていたと、将人さんは話します。「ありがたいことに仕事は多くて忙しかったけれど、利益が十分出ているかというと…。単価も相手の言いなりで安いままだったりしていました。両親ともに経営を分かっていなかったし、下手だったと思いますね」

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