目次

  1. リンゴ箱に入れられて育つ
  2. 先輩の言葉で「目が覚めた」
  3. 店舗での売り上げは先細り
  4. イベントの継続が力に
  5. フルーツのケータリングがヒット
  6. 家族一丸で協力、思わぬオファーも
  7. フルーツパーラーをオープン

 フタバフルーツは1941年、成瀬さんの祖父が創業しました。前年の大相撲春場所で優勝した人気横綱の「双葉山」が店名の由来といいます。成瀬さんもこの店舗兼住居で生まれ育ちました。子供時代をすごした70年代〜80年代当時は、商店街は今よりもずっと活気があり、店も繁盛していました。

昔のフタバフルーツの店舗。屋号は「フタバヤ」でした(フタバフルーツ提供)

 「父の時代は、果物を出せば売れる時代でした。小中学校の時に店の手伝いをしていたので、そういう記憶もあります。僕が生まれた時はもっと忙しかったみたいで、母は毛布を入れたリンゴ箱に僕を入れて、それを店先に置いて見ていたようです」

 かつては地域に密着した家族経営のお店が多く、この都立家政の商店街にも成瀬さんの同級生が多くいました。しかし家業を継ぐ人は少なく、成瀬さん自身も家を継ごうと思ったことは全くなかったそうです。

 「両親にはすごく自由に育ててもらいました。祖父は自分でお店も開いたこともあって、教育的に厳しかったようですが、そう育てられた父は、自分の子供に自由に育って欲しいという思いが強かったようです」

 自由に伸び伸びと育った成瀬さんは、成人してからもサーフィンやスノーボードといった自然と接した趣味に熱中し、遊びを中心としたライフスタイルを送ります。

 「優先順位は遊び事が1番で、仕事はそのためのもの、くらいの気持ちでした。お店を継ぐつもりは全くありませんでした。というのも、商店街自体が下降をたどり、小売店の魅力も感じられなかったからです。朝から晩まで働いて、休みもしっかりあるわけでもないし…と両親を見ながら思っていました」

 しかし2006年、成瀬さんが36歳の年に、3代目としてお店を継ぐことになります。きっかけは、遊び仲間の先輩の言葉でした。

 先輩と将来の話になった時、成瀬さんは「果物屋には未来が見えない。この土地で果物屋をやめて、カフェや飲み屋みたいなことをやって過ごせればいいな」と言ったそうです。するとその先輩から懇々と諭されました。

都立家政駅の目の間にある、現在のフタバフルーツの店舗

 「本当にお前は分かってないな、と言われました。お前は周りの人たちが持っていないものを持っている、それは祖父母の代から築いてきた歴史だと。その中でお前はちゃんと家業と向き合ったことがあるのか。今の果物屋の悪い所、めんどうくさい所、そういうマイナスの部分しか見てこなかったんじゃないかと」

 先輩は、さらに次のように言葉を続けたといいます。

 「カフェをやるのも、それはお前の人生だし構わない。ただ歴史がある店を終わらせるのでも、『自分でちゃんと向き合って自分なりにやった中でダメでした』と、『マイナスばかりを見てやめます』では、全然違う。めんどうくさいからという理由でやめるのは、先祖様にも地域の人たちにも失礼じゃないか」。

 そう言われた成瀬さんは、「本当にハンマーで頭を殴られたように目が覚めました」といいます。「自分で一度ちゃんと果物と向き合おうと決めた。それが2006年です」

 店を継ぐにあたり、成瀬さんはまず、果物店の現状と向き合うことから始めました。

 農林水産省の調査によると、生鮮果実の1人あたりの購入数量は、1998年ごろからゆるやかな減少傾向にあります。加えて、大型スーパーでほかの食品と一緒に果物を買う習慣が一般的となり、「町の青果店」であるフタバフルーツの売り上げは先細りとなっていました。

 「両親としても、自分たちの代で生活していく分には問題ないけど、子供が継ぐとなると将来的に大丈夫なのか、という不安はあったようです」と成瀬さんは振り返ります。

インタビューに答える、フタバフルーツ3代目の成瀬大輔さん

 「なぜ果物が売れなくなったのか。いろいろ理由はあると思いますが、皮を剥くのにナイフが必要など、食べるまでの過程が面倒なのが一因だと思いました。食べてもらえれば、フルーツの良さや美味しさはわかってもらえるだろうと、その機会を作ろうと考えました。でも、ただ食べてもらうだけなら、よくある試食会と同じで地味になってしまいます。なので、何かもっとみんなが喜んでくれることをしたいと、DJがいて音楽を楽しめるパーティーのような会を毎月やろうと企画しました」

 最初のイベントは2006年6月。新宿のライブハウスを借りて開催しました。約20種類のフルーツが食べ放題の4時間のイベントで、参加費は千円。サーフィンなどを通じてできた友人など約300人が集まりました。会場ではテクノやハウス、時にはアコースティックギターの演奏など、多種多様な音楽が用意されました。

 「フルーツの魅力を考えたとき、五感で楽しめるものだと思ったのです。まず、目には鮮やかな色が映ります。触れると、柑橘類や桃など、同じフルーツでもそれぞれの個性を感じられます。もちろん、香りも楽しめ、味も堪能できます。では、耳で感じる部分は何かと考えたところ、音楽が浮かびました」

 「音楽は言葉や人種の違いを越えて心に響くものであり、人生を豊かにしてくれると思っています。フルーツもまたそうです。だから、音楽とフルーツを組み合わせることで、五感を意識する新しい体験ができるのではないかと考えたのです」

 初回こそ300人もの人が集まりましたが、新鮮味がなくなったのか徐々に参加者は減り、一時は15人程度にまで落ち込みました。

 しかし参加者が減っても、成瀬さんは毎月1回のイベントを休まず続けました。

 「1年間は絶対に続けようと決めていましたから。ただ、毎月の開催だと、本業の仕事よりもイベント運営に時間を費やさなければならず、自分は何をしているのだろうと疑問に感じることもありました。それでも、参加者に飽きられないよう試行錯誤しながらどうにか1年続けていたところ、フルーツに特化した会は珍しかったこともあり、徐々に口コミが広がっていき、参加者が増えていきました」

 開催ペースを少し減らしながら、その後もイベントは続けられました。最も多い時は千人ほどが集まったそうです。

 同時期、はやりつつあったケータリングに乗り出します。ただフルーツを運んで届けるのではなく、フルーツを使って花のように見た目も楽しいオブジェを作り、最後には食べられるようにしました。

イベントで用意したフルーツのディスプレイと成瀬さん(フタバフルーツ提供)

 フルーツを主体としたケータリングは珍しく、またイベントでできた人脈も手伝ってうわさとなり、女性向けのアパレルの展示会やパーティーなどからから引き合いを多く受けるようになります。成瀬さんも最後まで会場に付きっきりで残って、フルーツの説明などをすることで、参加者に広く認知されていきました。そしてその頃から、成瀬さんは「果道家(かどうか)」を名乗ります。

 「フルーツを使って表現をする際、果物屋というよりもアートだと思ったんです。アートの良さって、自由じゃないですか。答えがない。果物屋だからこそフルーツをふんだんに使って、大きく華やかに演出することで人々の心を捉えることができると考えたのです」

 イベントのテーマカラーが緑なら緑色のフルーツをメインにしてオブジェを作ったり、香り重視で柑橘系を多くしたりと、個別のオーダーにも対応していきました。また結婚式の依頼では、飾られた果物を最後にゲストが持ち帰れるように工夫しました。主催者からも、お花よりも喜んで持ち帰ってもらえると好評だったそうです。

 イベントやケータリングの引き合いが増えるにつれて、当初は「そんなことばっかりやって何になるんだ」といぶかしんでいた成瀬さんの父も手伝ってくれるようになりました。

 「イベントが夜遅くなる分、親父が『(早朝の)仕入れは俺に任せろ』と言ってくれたりして、うまく役割分担ができるようになりました。イベント会場に親父が来て手伝ってくれたときも、若い子たちから『お父さんこれって何?』と果物について聞かれたりして。親父にしてみれば得意分野だし、自分で仕入れてきた果物をお客さんが食べる様子が見られるのは楽しかったと思います」

イベントのテーマに合わせて演出ができるフルーツのディスプレイ(フタバフルーツ提供)

 「親父と一緒に仕事をして学ぶこともたくさんありました。例えば僕は大胆にフルーツを見せようとしますが、親父はもっと繊細というか、一つ一つのフルーツが少しでもきれいに見えるよう、並べ方を気にしていた。何より家族で働く心地よさを感じましたし、それがまた周囲に伝わり、信頼にもつながったと思います。はたから見ても、家族が一緒にやっていたら安心感がありますよね」

 ケータリングの評判は、人づてで少しずつ広がっていきました。2014年には、現代美術家の村上隆さんが経営する会社「カイカイキキ」の社員総会でフルーツデコレーションを出してほしい、とオファーがかかりました。ここで役目を果たせたことが「自信になっている」と成瀬さんは振り返ります。

 イベントやケータリングで培った縁は、さらなる事業にもつながりました。

 2018年、飲食店事業を営むカフェ・カンパニー(東京)と提携し、成瀬さんが厳選したフルーツが食べられる「フタバフルーツパーラー」が神奈川県のアトレ川崎にオープンしました。「フルーツを身近に食べてもらえる場」がコンセプトで、旬の果物をふんだんに使ったパフェやフルーツサンドが好評を博しています。

フタバフルーツパーラー・新宿マルイ本館店の店舗とパフェ(同店のHPから引用)

 「ケータリングなどの活動をする中で、カフェ・カンパニーの社長さんと出会ったのがパーラー誕生のきっかけです。フルーツで人を幸せにするというスローガンに共感いただき、パーラーという形で一緒にやろうよと声をかけてもらいました。フルーツの魅力を伝える入り口という意味では、うってつけの場所になったと思います」

 その後も店舗は広がり、2023年5月現在、新宿、横浜、川崎、豊洲、名古屋、熊本の計6店舗を展開しています。

 活動が広がる中、生産者とのつながりも強まっていきました。

 「県や市の特産品であるメロンなどのPR活動も依頼されることがあり、仕事の幅が広がりました。フルーツは生で食べてもいいし、スイーツにしても喜ばれますし、お酒のほか、実は肉や魚との相性もすごくいい。主役というよりも、主役を光らせる名脇役だと思います。こうした活動は、フルーツを身近に楽しんでもらいたい、“フルーツの入り口”を作りたいという思いからやっています。フルーツを売るというよりも、フルーツの魅力を伝える人でありたいと思っています」

フタバフルーツの売り場

 元々、フタバフルーツの販路は店頭がメインでしたが、成瀬さんの取り組みでケータリングの販売が一気に拡大し、売り上げの7割を占めるように。家業に入った2006年から10年あまりで、全体の売上高も大幅に伸びました。

 積極的に店の外に出ていくことで可能性を切り開いたフタバフルーツ。しかしコロナ禍によって、大きな打撃を受けることになります。

【後編】では、コロナ禍で成瀬さんが打った次の一手や、村上隆さんとのやりとりを紹介します。