84歳の女将ひとりの温泉旅館 「最後まで見届けたい」をかなえた事業承継
子どもがいても後を継がないーー。そういった会社は全国に数多くあります。熊本県水上村にある温泉旅館「水上荘」は、後を継がせる子どもがいない女将がひとりで切り盛りする宿でした。亡き夫と山から木を切り出すところから作り上げた思い出深い宿を廃業したくないと、縁あって事業を譲渡したのは東京都渋谷区のイベント会社でした。
子どもがいても後を継がないーー。そういった会社は全国に数多くあります。熊本県水上村にある温泉旅館「水上荘」は、後を継がせる子どもがいない女将がひとりで切り盛りする宿でした。亡き夫と山から木を切り出すところから作り上げた思い出深い宿を廃業したくないと、縁あって事業を譲渡したのは東京都渋谷区のイベント会社でした。
熊本県南部の人吉盆地を貫く球磨川(くまがわ)の最上流水源がある村。標高1722mの雄大な市房山の麓に位置し、豊かな自然と田園風景が広がる熊本県水上村に、「スローバケーションホステルMIZUKAMISO」はあります。
2020年7月の豪雨による被災でくま川鉄道が運行を見合わせている影響もあり、公共交通機関を使う場合は高速バスや路線バスを乗り継いで熊本市内から3時間半、鹿児島空港からレンタカーで1時間半はかかる山里にも関わらず、最近ではドイツや韓国など海外からも宿泊客が訪れています。
理由は、世界中の旅行者が利用する空き部屋シェアサイト「Airbnb(エアビーアンドビー)」の掲載を始めたから。84歳の女将・久保田ツヤ子さんひとりで切り盛りする宿を2021年3月に東京の会社に事業譲渡したことで、新規顧客の獲得につながっています。
「東京の会社に事業を譲るという話をしたら、地元の知人たちのなかには“だまされるよ”と心配する人もいました。でもね、長年商売をやってきて多くの人を見てきたから人を見る目には自信がある。三瓶誠社長に会って話をしたら、同じ気持ちを持っている人だと感じたんですよ」(久保田さん)
久保田さんが話す同じ気持ちとは、「水上荘の事業だけがうまくいけばいい、ではなく宿を核に水上村全体を盛り上げたい」というもの。
久保田さんは84歳の今でも水上村商工会女性部に所属し積極的に集まりに参加しており、過去には熊本県女性部連合会の会長も務めるなど村全体の振興の旗振り役となってきました。できることなら自分の代わりに宿も水上村の活性化にも力を入れてくれる人に譲り渡したい……そんな気持ちが強かったと久保田さんは言います。
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久保田さんは元々、水上村から車で20分ほど下った熊本県球磨郡多良木町の出身です。今から30年ほど前、「湯治場を作りたい」と話す夫とともに水上村に移り住みました。土地を購入し宿を建てて6年後、事故で夫を亡くしました。当時、久保田さんは60歳。水上荘を畳むという選択肢は浮かびませんでした。
「地元を盛り立てるため午前2時頃まで仲間たちと話し合い、イベントの企画を考える毎日が楽しかったんですよ。泊まりに来てくださるお客様をもてなすのもライフワーク。ただ80歳を越えた頃から思うように体が動かなくなり、ひとりで営業を続けるのは難しいなと感じるようになりました。でも、主人が山から切ってきた木で建てた宿。自分が生きている間に廃れて取り壊されるのを見るのは忍びない。親戚の誰かに継いでもらうことも考えましたが、なかなかうまくいかなくてね……」(久保田さん)
後を継いでもらう人には、「商売を続けていくぞという覚悟が必要」だと久保田さんは考えています。
お世辞にもアクセスが良いとは言えない場所に、制止する言葉も聞かずに宿をオープンすることを決めた夫とともに水上荘を立ち上げたときも、夫なき後、ひとりで切り盛りしていくと決めたときも「覚悟」を持ってやってきた久保田さん。
「主人を亡くしてからの20数年間、近所の神社で手を合わせてお父さん、もう私も連れて行ってくださいと思う日もあれば、もうちょっとこちらでがんばりますねという日もありました」とこれまでを振り返ります。
この先の水上荘も、事業を続ける覚悟を持った人に託したい。2019年、地元商工会、熊本県事業承継・引き継ぎ支援センターを通じて、全国規模で継ぎ手を探せるM&A支援機関を活用し譲渡先を探し始めたところ、全国から集まった応募者の数は約30。
「現地を一度、訪れる意気込みがあるかどうか」「人任せではなく、覚悟を持って事業を続けてくれるかどうか」をポイントにした結果、選ばれたのが東京都渋谷区を拠点にイベントやウェブを軸とした広告プロモーション企画・制作を行うゴンドラの三瓶誠社長でした。
実子による事業承継は子どもが物心つく前から祖父母や父母などの背中を見ることで会社が大事にしていること、代々受け継がれている価値観を共有できることが多いでしょう。とはいえ、後を継がせる人と継ぐ人の間で価値観のすり合わせができなければ、実の親子でも親族でもぶつかることも多いと聞きます。
三瓶社長は40代。親子ほど歳が離れ、大都市と熊本県の村という商圏もまったく異なる事業者による事業承継では、「同じ価値観を持っているかどうか」を事前に、膝突き合わせてわかり合うことが大事なことでした。
譲渡先を探し始めた時点では、建物すべてを譲渡し、久保田さんは村営住宅に入る予定で話を進めていました。ですが話し合いを進めるうちに、「宿を最後まで見届けたい」という久保田さんの心の声が引き出されました。
三瓶社長は「宿泊施設の経営は初めてなので、いろいろと教えて欲しい」と久保田さんに伝え、客室として使用していた敷地内ログハウスを増築。存命中は久保田さんが所有して住み、のちのち三瓶社長が引き継ぐための遺言書を残すという形にしました。現在、新屋号「スローバケーションホステル MIZUKAMISO」は、三瓶社長の弟の達郎さんが若旦那として女将・久保田さんとともに切り盛りしています。
「私が居続けると、若い人の邪魔になるんじゃないかなと思うときもあるんですよ。そう言うとね、三瓶社長がそんなことないよ、僕たちは家族なんだから一緒にやっていって欲しいと言ってくれるんです」(久保田さん)
知り合ってから毎年、母の日には三瓶社長から久保田さんの元へ「いつもありがとう」の感謝の言葉が添えられたプレゼントが届きます。「母の日にプレゼントをもらうなんてこれまで生きてきて初めてのこと。うれしいですよ」と顔をほころばせる久保田さんに、幸せな事業承継の形が見えました。
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