鯉平は、初代の清水平八さんが始めた川魚の卸売りがルーツで、社名も創業時はコイの取り扱いが多かったことに由来します。1952年に法人化し、3代目の晃さんがうなぎに主力をシフトして仕入れルートを確立しました。
現在の従業員数は145人(パートを含む)、売上高は39億円(22年12月)。年間750トンを扱ううなぎを筆頭に、コイやドジョウ、アユ、ナマズなども守備範囲です。
うなぎの流通には、多くの会社がかかわります。漁師が東アジア沿岸で稚魚となるシラスウナギを捕り、「池主」と呼ばれる養殖問屋が成魚まで育てます。それを2次問屋(消費地問屋)が買い取り、うなぎ店やスーパーなどの小売店に卸す仕組みです。
鯉平は関東に約20社ある2次問屋の一つで、うなぎ料理店や中華料理店も運営しています。清水さんは「うなぎ店が多い埼玉県は出荷量が多く、首都圏にも販路が広がっています。加工品も含めて年間750トン超の扱い量は、おそらく日本でトップクラスだと思います」と胸を張ります。
小さいころから生き物好きの清水さんにとって、川魚が泳ぐ鯉平は楽しい空間でした。しかし、高校生だった2000年代前半、3代目の拡大路線が頓挫し、4代目の父が再建に奔走。事業再編で開いたうなぎ直営店も1店舗目こそ良かったものの、不採算店舗が経営を圧迫します。しかし、父は自力で経営再建を果たしました。
大学卒業後、清水さんは家業に入る前に大手証券会社に就職。「卒業してすぐ家業に就職するとなめられると思いました。トップクラスの企業の景色を見たいと思ったのも理由でした」
就職から数年後の2010年、証券会社を辞めて鯉平に入社。最初は出荷作業と経理を担当しました。幼いときから家業に親しみ、大学生のときは鯉平直営のうなぎ店でアルバイトをしていたので、仕事はスムーズに入れたといいます。
「朝3時から業務が始まり、素早くうなぎを出荷するので忙しく、従業員の皆さんも懸命に働いていました。激務の証券会社に比べると『ぬるい』と感じる部分もありましたが、それを押しつけるのは違うと思い、こらえました」
しかし、今でも「失敗だった」と振り返るのが新卒社員の教育です。証券会社時代の教育方法を採り入れた結果、離職が発生したといいます。この経験が、後に人材育成を構築する際の教訓になりました。
震災と絶滅危惧種認定でピンチに
11年に起きた東日本大震災は、鯉平にもピンチをもたらしました。発生当日、社長の父は韓国に研修旅行中。清水さんはその後2日間、会社に泊まり込んで、取引先への連絡などイレギュラー対応を担いました。「その後、父と二人三脚でBCP(事業継続計画)策定に取り組み、資金繰りや経営について真剣に考えるようになりました」
震災の影響や自粛ムードで鯉平は赤字に陥ると、さらなる危機に見舞われます。
13年、ニホンウナギが環境省から絶滅のおそれがある野生生物の状況をまとめた「レッドリスト」に指定され、翌14年には国際自然保護連合 (IUCN)からも指定されました。この結果、シラスウナギの価格が高騰したのです。
「11年から3年ほどシラスウナギが不漁だったうえ、ニホンウナギの絶滅危惧種指定で、お客様からも敬遠されるようになりました。うなぎ相場は過去最高値になり、専門店は値上げせざるを得ず、顧客離れが起きました。後継者がおらず廃業を選ぶ店もあり、震災以上に影響が大きかったです」
鯉平は値上げのポップ作成の補助をしたり、可能な限り原価を抑える調理方法を提案したりするなど、顧客に寄り添う支援や提案に注力したことで、経営悪化から持ち直したそうです。
「絶滅危惧種指定には色々な意見があると思いますが、私は家業としてうなぎを売ったお金で育ててもらったことを、誇りに思っています。仕入れたうなぎを無駄にしないよう丁寧に扱うなど、消費地問屋としてできることをやろうと考えています」
若手採用と休日の増加に注力
経営再建の一環として、清水さんは採用と労働環境の改善も進めました。
うなぎや川魚などの卸売りがメインだった鯉平も、この十数年は加工業務の割合が増加。自社でうなぎを割き、串に打って蒸して焼くところまで一貫して行えるのが強みです。白焼きにして冷凍し、注文を受けたら出荷する仕組みですが、加工を担う人材の不足が長年の課題でした。
「入社時の平均年齢は40代後半~50歳くらい。7年ほど前から若手の新規採用に力を入れ始めました。16年の専務就任後は、いずれ継ぐときに並走してくれるメンバーが必要と切実に感じ、大学生の新卒採用を始めて、第二新卒も含め20代の従業員の割合を増やすようにしました」
清水さんはまずハローワークの新卒部門に相談に行きました。鯉平は男性社員の場合、朝3時から昼ごろまでの変則勤務ということもあり、最初は全然人が来なかったそうです。しかし、それでも通い続け、採用イベントにも積極的に参加しました。
「ハローワークに通ううち『この人が(鯉平に)合うかも』と紹介してもらえるようになりました。採用イベントでは、この深夜勤務という特殊な勤務条件を理解したうえでブースに来てくれる人は、すぐに採用しました」
変則勤務にはメリットもあります。早朝は賃金が割り増しになるため、相場より給料が高く、若手でも稼げる仕組みです。また、夕方は時間が空くため家族と過ごす時間も作れ、清水さんは「小さいお子さんのいる家庭には最適」と語ります。
「仕事が終わった後、子どものお迎えに行って夜寝るまで一緒にいられます。最近、スーパーの鮮魚コーナーで午前6時から午後10時まで働いていた人を中途採用しました。それまでは寝顔しか見られなかったのに、今は仕事終わりに子どもと会えると、喜んでいます」
休日を増やして若返りを実現
年間休日数にもメスを入れました。生き物を扱う以上、どうしても休みは少なくなりがちで、清水さんの入社時の年間休日は約85日だったそうです。
「これでは若者を採用できない」。そう考えた清水さんは、人を増やし、業務をシフト制にするなど、年間休日をまず110日に増やしました。そして120日を目指し、無駄な仕事を減らして働き方を変えました。
そのため、採算の悪い商品を減らし、ITやAIも活用。今では社員の約2割が20代になるなど、大幅な若返りを実現しました。
「休日を110日から120日に増やすのが本当に難しい。時に休日出勤もあり、人によって休日は100~120日になると、採用時に伝えています。ただ、早朝勤務を含めて各種手当を完備しているので、給与はその分高いと思いますし、稼ぎたいと考える人が入社しますね」
若手と「未来プロジェクト」
清水さんは採用だけでなく育成にも注力しました。採用した若手は最初にOJT教育でうなぎの取り扱いを学びます。
次に、若手を未来の経営陣候補に育てるため、会社やうなぎ業界の未来のために自ら行動するチームを作り、毎年様々なアイデアを実現しています。
その一つが、21年に始まった「未来プロジェクト」です。うなぎファンを増やすため、子ども向けの職業体験や、キッチンカーで学童保育に出向いてうなぎを触ってもらう企画を展開しています。
外部の専門家を交え、SNS発信も若手主導で始めました。清水さんは「新しいミッションを適度に与えることが大事だと考えています」。
若手が生んだ「うなぎスナック」
「未来プロジェクト」から、23年に生まれたのが、うなぎをフリーズドライ加工したスナックです。
同社によると、うなぎは生きたままでしか流通できませんが、管理の難しさから出荷が遅れて死んでしまううなぎが一定数存在するといいます。そうした売れ残りを無駄にしないよう、フリーズドライ独特のカリカリ食感とスパイシーな風味が特徴の「うなぎスナック」を、若手主導で開発しました。
清水さんは最初、この企画を耳にしておらず、若手が独自にプロジェクトを立ち上げ、試行錯誤を重ねていたそうです。
同じころ、取引先の武蔵野銀行から、同行の子会社が運営するクラウドファンディング(CF)サイト「IBUSHIGIN」への参加を誘われました。「うなぎスナック」を出品したところ、目標の50万円を大きく上回る125万4700円(達成率250%)を記録しました。CFでの販売は終了しましたが、現在は直営店やオンラインなどで販売しています。
冷凍うなぎの輸出を計画
清水さんは23年1月、5代目に就任しました。21年の社員総会用のロードマップで、すでに23年の社長交代予定が記されていたそうです。22年には社訓を見直し、同年11月に継承後の運営方針を発表しました。
先代は継承後も会長として支え、教員だった兄も5年前に鯉平に入り、総務を担当しています。
社長就任後、新事業として始めたのが海外展開です。海外では和食として満足できるレベルに達しているうなぎが少ないことに、商機があると考えました。鯉平の加工技術を生かし、うなぎを白焼きにして冷凍状態で輸出すれば、あとは現地で湯せんするだけで簡単に戻すことができます。
「きちんとした職人がいる店は別ですが、海外では機械製造されたうなぎをレンジでチンしているだけという店が多く、差別化できると考えました」
海外向けの展示会などに出展すると、多くの問い合わせがあり、年内にはドバイやシンガポール、香港などに向けた海外事業が動き出す見込みです。
うなぎ文化を支えて恩返しを
清水さんは、規模をいたずらに大きくすることは考えていません。
「うなぎに育ててもらった恩を返していきたい。職人不足、後継者不足は業界の大きな課題です。うなぎ文化を守って後世に残すため、うなぎ店のご子息を社員としてお預かりして、職人として育ててお返しする取り組みも行っています」
うなぎスナックや冷凍うなぎの販路拡大で廃棄ロス削減に取り組み、23年に、さいたま市の「SDGs認証企業」にも選ばれました。これからも消費地問屋にできることを地道に積み重ね、うなぎ文化を支えることが、5代目の目指す経営です。