大島紬職人に若者があこがれるには 藤絹織物3代目が決めたマーケットイン
大島紬の製造と卸しで創業94年を迎えた藤絹織物(鹿児島市)。人々の着物離れや職人の減少などにより、現在の生産数はピーク時の約50分の1に減少しています。3代目社長の藤陽一さんは、入社後に自社の技術力の高さに感銘を受け、「次世代に引き継いでいかなければ」と決意します。そのために欠かせないのが職人の地位向上です。「職人を若い人の憧れの職業にしたい」と考える藤さんは、DXやマーケットインの商品開発を始めます。
大島紬の製造と卸しで創業94年を迎えた藤絹織物(鹿児島市)。人々の着物離れや職人の減少などにより、現在の生産数はピーク時の約50分の1に減少しています。3代目社長の藤陽一さんは、入社後に自社の技術力の高さに感銘を受け、「次世代に引き継いでいかなければ」と決意します。そのために欠かせないのが職人の地位向上です。「職人を若い人の憧れの職業にしたい」と考える藤さんは、DXやマーケットインの商品開発を始めます。
目次
大島紬は、奄美大島発祥の絹100%の着物です。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が重なる十字の部分を「絣(かすり)」といい、その絣を組み合わせて精緻な図柄をつくるのが大島紬の特徴です。
大島紬は作りたい着物の色と図柄を考え、それに合わせて糸を先染めし、図柄を合わせながら織っていくため、熟練の技が必要です。
「藤絹織物(ふじきぬおりもの)」は、この大島紬の製造と卸しをしている会社で、初代・藤都喜ヱ門(ふじ・ときえもん)氏が1929年に創業しました。戦時中に奄美大島から鹿児島市に疎開して大島紬づくりを継続し、1952年に鹿児島市で藤絹織物を設立。
家内制手工業の大島紬製造に会社組織で取り組み、産業化へと導きました。多色づかいとぼかしやグラデーションの技法を使って織られる精密で写実的な大島紬が人気を博し、美術品としても高く評価されるようになりました。
しかし、1970年代をピークに大島紬の生産数は減少します。かつて4000人ほど抱えていた藤絹織物の織工(大島紬を織る職人)は、現在40人。織工の数が100分の1になり、生産数も100分の1ほどに減少しました。3代目社長の藤陽一さん(49)は今、大島紬の事業を次世代に引き継ぐべくさまざまな打ち手を試みています。
初代の孫である陽一さんは高校まで鹿児島で育ち、大学進学を機に東京へ。卒業後はIT企業のエンジニアとして10年ほど激務をこなしました。双子の兄、喜一(きいち)さん(49)が先に帰郷したため、次男である自分が戻る必要はないと考えていたのです。
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ところが30歳を迎えようとするころ、父で2代目・茂喜さん(82)の右腕となる社員から帰郷を促す電話が頻繁にかかってくるようになります。最後は意を決して陽一さんは鹿児島に帰りました。2007年、33歳のときでした。
「ITの仕事と大島紬という伝統工芸の仕事はデジタルとアナログで正反対の分野です。帰ったところで自分に何ができるのかと半信半疑でした。父に『明日からお世話になります。ところで私は何をすればいいんでしょう?』と尋ねたところ、返ってきたのは「とりあえず(藤絹)織物に入りなさい」の一言でした」
こうして陽一さんは、大島紬をはじめ飲食店やスーパー、スポーツ施設などを手がける藤絹グループの中の藤絹織物に入社することになりました。
入社直後、陽一さんを待っていたのは、方眼紙に手描きで「点」を打つ仕事でした。
大島紬の設計図である「図案」は、図柄を表現する絣部分を「点」で表します。現在、図案づくりも点打ちもパソコン上で行うようになっていますが、陽一さんに絣の重要性を体感してほしいと考えた生産部門の部長は、点を方眼紙にひたすら一定のリズムで打つ練習をするように陽一さんに指示しました。陽一さんの点打ちは1週間続きました。
点打ちが終わると、陽一さんはようやくパソコン上で「図案」を作ることを許されました。じつは、この図案がなければ糸を何色でどのように染め分けるかが決まらず、大島紬を織ることもできません。図案づくりは大島紬の出来栄えを左右する重要な工程の1つです。
点を細かく打つか、まばらに打つかで図柄の緻密さや陰影を変えることができます。できあがった図案を出力すると「仕上がり図案」となり、これで完成後の大島紬を製造前にある程度イメージすることができます。
生産部門の部長は、陽一さんが作った図案と仕上がり図案を比較して絣の入れ方を繰り返し指導しました。そのたびに陽一さんは修正をして、また部長の指導を仰ぎます。
合格点をもらえたのは半年後でした。その後も陽一さんは図案づくりを学び、最終的には陽一さんが図案化した大島紬3、4反が商品化されました。当時を陽一さんはこう振り返ります。
「父や部長からすれば、織物の仕事をするなら大島紬の基本となる図案や絣についてはちゃんと理解しておきなさいよ、という意味だったんだろうと思います。
最初はわけもわからず言われたとおりにやっていましたが、そのうち、絣の入れ方や、仕上がり図案をどう読み解きどう手直しするかが少しずつわかってきました」
会社の数字を見せてもらえるようになると、陽一さんは年々減少する生産数など、会社の厳しい現状を知るようになります。月次検討会で月の生産数の報告を受けた茂喜さんが「昔に比べると少なくなったな……」と嘆息する様子を目にすることもありました。
そんな茂喜さんを見て、「ひょっとしたら自分の代で織物の事業を終わらせようとしているのでは」と考えたこともありました。
しかし、陽一さんは、入社直後に大島紬の知識・技術を集中して学んだ経験を通じ、「規模はどうあれ、大島紬の事業は残していかなければいけない」と考えるようになっていました。
「入社後、生産部門のスタッフから図案の色や模様に合わせて先に糸を染めるのが大島紬だと教えてもらったときに、うちの会社はこんなに高い技術力を持っているのか、と衝撃を受けたんです。生産部門には自分より若い社員もいて、スタッフはみんな大島紬の製造に心血を注いでいます。ここでは終わらせてはいけない、大島紬の事業は自分が引き継いで何としても残していかなければ、という気持ちが年数を重ねるごとに大きくなっていきました」
目下の課題は、職人の減少による生産能力の低下です。1970年代のような旺盛な需要はありませんが、現在は注文に生産が追いついていません。完成した先から売れていき、反物の在庫は減る一方。売るものがなくならないように出荷を調整しているのが現状です。
とはいえ、生産能力を短期間で上げることは不可能です。大島紬の職人の技術は一朝一夕に身に付くものではなく、求人を出しても応募が殺到するわけではないからです。そこで陽一さんは、長期的な視点で生産能力の向上を目指そうとしています。
そのうちの1つが、2023年から始めた「温故知新DX」の取り組みです。大島紬の図案の元となる紙の原図や昔の反物をデータ化して新商品開発にかかる時間を短縮し、古き良きものから新たな価値を生み出そうとしています。
「新商品開発では、図案の元となる『原図』と呼ばれる絵を参考にすることがよくあります。原図は藤絹織物の歴史であり、貴重な資産です。
しかし、原図は1万点以上あり、工場のスペースを圧迫しています。山のように積み重なっているために下にある原図は簡単には引っ張り出すことができず、目的の原図を探し出すのに何時間もかかっていました。今だからこそ新鮮に感じる図柄もあるので積極的に活用したいのですが、探し出すのが大変すぎて宝の持ち腐れになっていたんです。
この貴重な原図や昔の反物を短時間で検索できれば、生産の時間を増やせますし、新しい柄を開発するサイクルも短縮できます。データ化が終わった原図を別の場所に収納すれば、空いたスペースを使って機織り機を増やすこともできる。将来の生産数を増やすことにもつながると考えています」
現在、毎日1時間と決めてスタッフが原図をスキャンしています。原図の画像のほか、色、柄の種類、発売年、売れ行きなどさまざまな情報を付与してデータベースに登録しています。そのほか、反物に電子タグを付けて在庫管理の負担を減らす取り組みも進めています。
現在、データ化が終了した原図は全体の3割ほど。すべてをデータ化するのにあと2、3年はかかるだろうと陽一さんは考えています。
若い世代には大島紬の名前を聞いたことがない人も増えていることから、陽一さんは従来のプロダクトアウトのものづくりを見直し、マーケットインのものづくりを推進しています。
「地元の大学で地場産業論の1コマを持たせてもらっています。学生に事前アンケートを取ると『大島紬って何ですか?』という質問が寄せられ、私たちが思う以上に若い人たちは大島紬を知らないのだとわかりました。昔のように『これは大島紬なんですよ』というだけで着物を買ってもらうことはできません。
今の人たちがどんなものを欲しがっているのか、今の時代に求められる色・柄はどんなものかを追求するマーケットインの発想が重要だと考えています」
大島紬といえば、「泥大島」と呼ばれる泥染めの着物が有名です。しかしグレーの落ち着いた色味の着物だけでは、大島紬をすでに何枚も持っている顧客にとっての選択の幅が狭まります。そこで陽一さんは問屋や顧客の声を聞きながら、従来より明るめの色の大島紬も作るようにしています。
「父や祖父の価値観からすると大島紬の王道からは外れているかもしれませんが、今の時代はお客様の要望を取り入れることも必要です。
ただし、明るい色の商品ばかり作ればいいかというと、それも違うんです。1着目の大島紬としてはオーソドックスな色味が好まれることが多いからです。昔のように数を作れないため、限られた生産数の中でどんな商品をどれだけつくるか、そのバランスにはいつも頭を悩ませていますが、藤絹織物らしさは守りながらも、新しい感覚を取り入れていこうとしています」
陽一さんは着物だけでなく、大島紬を活用した小物の製造・販売にも力を入れています。昔は団体旅行客用の土産物用に比較的安価な小物を作っていましたが、今は商品そのものの魅力を前面に打ち出し、適正な価格で販売することを心がけています。
「例えば、大島紬の伝統柄を前面にあしらった従来のデザインだと、大島紬や奄美大島によほど思い入れがなければ日常生活で身に着けるのは難しい。これからは作り手のエゴみたいなものはあまり表に出さないデザインで、見た瞬間に『素敵』『かっこいい』と物欲が刺激されるような小物を作っていきたいと考えています」
職人の数を増やし、育成するための取り組みも少しずつ進めています。
大島紬を織る若い職人は、熟練の人に比べるとどうしても製造のスピードが遅いのが難点です。けれども若い人を入れないと、将来の生産能力向上は見込めません。短期的には生産能力が多少落ちてでも若い職人の数を増やし、根気強く育成していかなければ、と陽一さんは考えています。
また、藤絹織物の大島紬製造に携わる職人の多くは個人事業主が大半でしたが、特に高齢化が進んでいる工程の職人については社員として採用し、自社でコストをかけて育成する取り組みも始めています。
将来、陽一さんが実現したいことがあります。それは大島紬に関わる職人の地位向上です。
「大島紬のような伝統工芸の職人の仕事には、古臭い、不安定といったイメージを持つ人もいるかもしれません。
けれども、DXを取り入れながら職人の仕事が現代に合う形に進化し続け、給料も他の会社と同じ水準でもらえるようになれば、大島紬の仕事に憧れる人も増えるのではないかと考えています。
藤絹織物は初代の時代から大島紬の伝統技法をベースに新しい図柄を生み出し、それを忠実に表現するための絣や染色の技法を磨いてきました。私の代でも、DXのような現代的なやり方を取り入れて時代のニーズに合った色やデザインを追求し新しい商品を生み出していることを発信して、職人を若い人の憧れの職業にしたい。そうして生産能力を上げて、藤絹織物の原点である大島紬の事業を次世代に引き継いでいきたいと考えています」
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