目次

  1. 大島紬を産業化へと導いた初代・都喜ヱ門氏
  2. 「私は何をすればいいんでしょう?」から始まった入社
  3. 方眼紙に手描きで「点」を打つ仕事で1週間
  4. 「昔に比べると……」生産減少に危機感
  5. DXで新商品開発や在庫管理にかかる時間を短縮
  6. プロダクトアウトから「マーケットイン」へ
  7. 大島紬を活用した小物、物としての魅力で勝負 
  8. 時代のニーズに合わせ 職人の地位向上を実現したい

 大島紬は、奄美大島発祥の絹100%の着物です。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)が重なる十字の部分を「絣(かすり)」といい、その絣を組み合わせて精緻な図柄をつくるのが大島紬の特徴です。

初代は「美術大島」と呼ばれる新たな大島紬のジャンルを創始、確立した。写真は美術大島の反物「嵯峨野詩情」(藤絹織物提供)

 大島紬は作りたい着物の色と図柄を考え、それに合わせて糸を先染めし、図柄を合わせながら織っていくため、熟練の技が必要です。

 「藤絹織物(ふじきぬおりもの)」は、この大島紬の製造と卸しをしている会社で、初代・藤都喜ヱ門(ふじ・ときえもん)氏が1929年に創業しました。戦時中に奄美大島から鹿児島市に疎開して大島紬づくりを継続し、1952年に鹿児島市で藤絹織物を設立。

 家内制手工業の大島紬製造に会社組織で取り組み、産業化へと導きました。多色づかいとぼかしやグラデーションの技法を使って織られる精密で写実的な大島紬が人気を博し、美術品としても高く評価されるようになりました。

初代・藤都喜ヱ門氏(藤絹織物提供)

 しかし、1970年代をピークに大島紬の生産数は減少します。かつて4000人ほど抱えていた藤絹織物の織工(大島紬を織る職人)は、現在40人。織工の数が100分の1になり、生産数も100分の1ほどに減少しました。3代目社長の藤陽一さん(49)は今、大島紬の事業を次世代に引き継ぐべくさまざまな打ち手を試みています。

 初代の孫である陽一さんは高校まで鹿児島で育ち、大学進学を機に東京へ。卒業後はIT企業のエンジニアとして10年ほど激務をこなしました。双子の兄、喜一(きいち)さん(49)が先に帰郷したため、次男である自分が戻る必要はないと考えていたのです。

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